37 そして、続いていく
心の端に、ざわりと小さな波が押し寄せる。
ここを早く離れるべきだと理解しているのに、躊躇う自分がいる。気になっている。なんで、あの家の庭の柊の花のにおいが立ちこめているのだろう。
美禰は腕を引く大志の手に小さく抵抗した。殆ど無意識だった。広い肩越しに見える向かいの山から目が離せない。麓で光る猫屋敷の窓の明かりが、意識をよりクリアにしていく。
「ねえ、轍くん」
「いいから早く行け。振り返るなよ」
美禰は知らずのうちに足に力を込めていた。
さっき、どこかで聞いた声は、轍の声ではなかっただろうか。聞いたこともないほど切羽詰まったような声で、彼は「まずい」と言ったのではなかったか。なのに何故、今はこんなに穏やかなふりしているのだろう。そうしてここそ去るように言うのだろう。
「美禰、行こう」
痺れを切らした大志が、強く腕を引く。
ふらりと前に一歩進んだ瞬間、美禰の視界の低い場所で何かが過ぎった。
目が、合う。
不思議な色合いをした夜の底のような目。
きらきらと眩しい輝きを放つ瑞々しい生命力溢れるそれを、美禰は引き寄せられるように追った。
「あ」
三毛色の身体をしなやかに伸び縮みさせ「彼ら」が走っていく。美禰が知っている彼ら。やわらかな身体で寄り添ってくれた、あの子たち。
三つの尾をぴんと立て、何かに向かって一直線に走っていく。
知っている。
あの子たちが真っ直ぐ走っていく相手を。
「先生」
視線を上げた美禰に、大志が目を見開いた。
その奥に獣の殺気を感じるが、美禰が見つめ返すと大志は明らかに怯んだ。その隙に手を思い切りふりほどく。
振り返った瞬間に、目の前に轍が顔が迫っていた。
浮き、睨んだような表情で、彼はやはり美禰の視界を遮っている。
「轍くんどいて」
「あぶねえんだよ。わかるだろ」
「わかるよ」
幼く見えるその顔に、いくつもの複雑な感情が行き来するのを静かに受け止める。
「先生が危ない。違う?」
「美禰」
轍は窘めるように言うが、美禰が戻る気はないと悟るやいなや、背後の大志に目配せをした。
その頭の小さな動きで、向こうが見える。
あの子たちが、白い霧に向かい、真っ直ぐに飛び乗る――霧じゃない――あれは人だ――大きな羽織を肩に掛けた、綺麗な人が、手を伸ばしている。冷たい手――私の知っている手。
その指の先で、先生が笑っている。
泣き出しそうで、愛おしそうで、それでいて、憎くてたまらないという顔をして、笑っている。
ああ、あの人なんだ。
美禰は胸が詰まった。
沖島が彼女を語っていた顔が蘇ってくる一方で、なぜか激しい感情が、恐ろしい早さで膨れ上がっていた。
轍の肩を押しのけ、美禰が口を開く。
○
鐘が鳴る。
ああ、朝だ、と頭を掻きながら身体を起こし、枕元のランプをつけると、障子の開いだの隙間から白い頭をねじりこみながら、ちらりとこちらを見るシロと目があった。
薄暗い部屋の中で、染み一つない真っ白な身体が淡く光る。
「おはよう」
声をかけるが、彼女はふんと鼻をならして一蹴する。
「まだ怒っているのかい」
沖島が聞くと、シロの後ろからスズも入ってきた。
コクヨウはいるのかとその後ろを見るが、黒い毛並みを拝むことはできない。まあ、想定の範囲内ではある。
「彼は美禰くんにべったりだね」
スズがととと、と走り寄り、沖島の膝の上に乗った。美しい桜色の瞳をまるまると開け、こくんと小首を傾げる。
くくっと喉を鳴らし、沖島はスズの小さな額を指先で撫でた。
ふわりとした茶色い毛が、その先にあるこつりとした骨の感触が、彼女が生き物であることをやわらかに伝えてくる。
生きている。
この子たちも、自分も。
背に、シロが寄り添う気配がした。じんわりと暖まる。何とも言えぬ感情が、沖島を優しく揺さぶる。
今までは、これはただの入れ物だと思っていたというのに。
耳の後ろを撫でてやると、スズは目を細めて顔をすり付けてくる。
――あなたを知っていたの。
響は言った。
――ずっと知っていたの。私の半分のあなた。
その夜空のような瞳の奥できらきらと星を瞬かせていた。
沖島は、それがほんの数時間前の出来事であることが信じられない。響と再会したことさえ、夢であると言われた方が浸ることができた。
枕元に転がした空になった瓶は、ふたを開けたままにしている。
畳の上で口をぽっかりと開けたそれから、響の気配はもう微塵も感じることはできなかった。文字通り空っぽになったというのに、昨夜は眠りにつくまでずっと見ていたのだから、女々しいことこの上ない。
しかし、夢を何度もなぞりながらも、その夢から覚めて現実へと向かう準備をしている自分を、沖島は不思議と好ましく感じていた。
膝の腕で転がって腹を見せたスズの顎をちょいちょいと撫でながら、沖島は笑みを漏らす。肩でぱらりと髪が滑る。
彼女に連れて行ってもらうはずだったというのに、とんだ邪魔が入ってしまった。まさかあんなに強引にこっちへと引き戻されるとは。
「ふ」
思い出すだけで、腹の底から屈託のない笑いがこみ上げてくる。スズが不思議そうに見上げ、シロはぱしぱしと尾で叩いた。
「だって、君たちだって驚いていたじゃないか」
轍も、大志もだ。
美禰は怒りを隠さない目を真っ直ぐに沖島に向け、言った。
――先生、帰るよ!
小さな子を叱るような気迫で、美禰は轍を押しのけて言った。
彼女にしては珍しく感情をむき出しにしていたので、沖島は呆気にとられて響から視線を外してしまった。
目が合うと、美禰は眉を下げてもう一度言った。
――家に帰ろう、先生。
どうして頷いたのか、よく覚えていない。
あまりにも切実な訴えだったからか。
それとも、意識を逸らすと猛烈な感情が自分を包み込むことが、心地よかったからか。有紗と話をしている間も、響はそうだった。
どちらにしても、あのとき「連れて行ってもらう」ことすんなりと諦めて、こちらに向かっている三毛色の彼らに気づくと、ああ、そろそろあの子たちも家に戻してやらなくては、と思考の全てが日常へと切り替わっていた。
響は笑った。
つまらなそうに。
恐ろしく慈悲深く、駄々をこねる子供を見上げた。
変わっていないのね。
全てを見抜いた目で愛おしそうにのぞき込んできたそれに、沖島は同じように見つめ返した。
響が微笑み、その唇で残酷なことを口にする。
約束を守って。もしあの子が――だったら、ちゃんとあなたが――して。約束よ、薫。私のあなた。
石畳からふわりと浮き上がり、響は胸元で沖島の頭を掻き抱いた。
甘い芳香が沖島を包み、手を伸ばした途端に、彼女はふっと白い花となって空へ上り、消えていった。
何の余韻も残さず、まるで最初からそこに響はいなかったように静まりかえった空を見上げる。先ほどまではあんなに煌めいていた夜の瞬きは沈黙してしまっていた。
ふと、足下に温かい気配を感じて視線を落とすと、三匹が競い合うように沖島の足に顔をすり寄せていた。いつ元の姿に戻っていたのか、気づけば自分が出していた尾も戻っている。
本当に響は姿も気配も、残り香さえも消していった。
ここで何があったのか、もはや沖島にはどうでもよかった。しゃがみ、順に彼らの顔を撫でる。その向こうから、美禰が走り寄って来ていた。
「彼女とはそっくりなのに、似ても似つかない」
沖島がぽろりとこぼすと、二匹は同時にはっきりと鳴いた。膝に上ってきたシロをスズとまとめて撫でる。
響はいる。
ここに、そしてどこか遠くに。
沖島は猫背をさらに丸め、二匹に顔を埋めた。
花のにおいはしなかった。かわりに、彼らの毛の間からかすかに朝食のにおいが漂ってきたことに、沖島は笑った。
想像する。
炊き立ての白米に、味噌汁、卵焼き、焼き魚。腹を満たした後、コンロの上の青い羽の換気扇を回しながら一服するだろう。後ろでは美禰と猫たちが掃除をはじめ、そのうち庭掃除をすると言っていたので、今日あたり駆り出されるかもしれない。柊の木の下で、美禰が軍手をはめて雑草を抜いているところが見えた。その頭上の枝に、響が座っている。
お互いに気づかず、二人はこの果てしなく暗い町を、愛おしんでいるように見つめている。
沖島は身じろぐ猫たちをそっと解放した。二匹がぱらぱらと廊下に出て行くのを見送り、窓際へ立つ。
彼女たちのように町を見下ろす。
いつもと何一つ変わらない町並みが静かに並んでいるが、不思議なことに、そのむこうにある山も、そこで息づく誰かの視線も気になることはなかった。
山の方から提灯が色づいていく。
ぽつぽつと灯る光は道になり、標になり、そうしてこの陰気な山の麓までやってくる。猫屋敷と呼ばれるこの家の下まで、どこまでも等しく、この夜を照らす。
沖島はその明かり一つ一つを穏やかに目に映した。
夜は明けない。
けれど、この瓦町にも朝はやって来るのだ。
完
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
以前に書いていたものですが、少しでも誰かに読んでいただけたら、ラッキーだな、という気持ちで少し修正しながら載せてみました。
有紗と美禰とか、轍とか、沖島を中心にゴタゴタする続きも考えているのですが、この辺で。
未熟な話を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




