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33 有紗

 そこから出ることができたらどれだけ楽だろうか、と何度も夢見た。


 それをやっとこうして現実にこぎ着けたのだ。

 ありとあらゆる説得と根回しをして、さらに説き伏せてこようとする十何人もの刺客を凪払い、最終的には駄々をこねまくった。半ば脅迫をして出てきたようなものだった。


 だと言うのに、忌まわしい手紙などを見ては最後のような気がして、久しぶりの再会を喜び、話し尽くした帰り際の佐紀子に、突き返すように頼んだ。

 何をしていても吸いよられる忌まわしい茶封筒を、佐紀子に押しつけることで久しぶりの安眠をむさぼった。


 一週間近く帰ってこなかった櫂が戻ってきたのも、その晩のことだった。


 それから何事もなく日常を送っていたはずが、ついさっき、三時間前に賃貸会社から連絡を寄越された。

 すぐさま親戚としてある保証人に連絡をせよ、と有無をいわさぬ殺伐とした声は、ぬくぬくと瓦町で育ってきた有紗には聞き慣れぬ硬質なものだった。


 外に出て何に驚いたか――声の殺伐さだった。皆、余裕もなければ外側に漂う気配にまるで鈍感だ。驚くと同時に、人やカゲの気配も希薄であることに気づくと、有紗は両手を広げて喜んだ。東京という雑多な町で、ひっそりと日々を満喫していた。


 だというのに、田淵の親戚は切羽詰まった声で「すぐに帰れ」を繰り返した。

 あまりの剣幕に有紗は「わかったって」と言うことしかできず、そのまま電話を切って、何事もなかったように足のマッサージの続きを促すはずだった。しかし、足下を見てみれば、手を止めた櫂が、うんうん唸って頭を抱え「えー。帰りたくないって」と反論していた。


 結局、これ以上あちこちからせっつかれたらたまったものではないと、怒りを伴って「うるさい」と怒鳴り込むためにめかし込んだというのに、櫂の舟で来てみれば、眼下では懐かしい町が榻によって守り固められ、実家の入り口では、滅多にやって来ない「先生」が滅多に見せぬ臨戦態勢でカゲを締め付けていた。


 本当に急務だったなんて。

 有紗は舌打ちをした。

 近づくと、櫂が「ええ?!」と間の抜けた声を上げる。

 感情豊かな櫂が目をまん丸くして、びゅうびゅうと向かい風に髪を暴れさせながら、声を張り上げる。


 お堂に行って、壷持ってこいってさ!


 有紗は再び舌打ちをした。今度は苛立ちではなく、焦燥感がこみ上げたからだ。無意識に、中指の爪を親指で何度も弾いていた。




    ○




 まさか、この壷だったなんてね。

 有紗は癖を出さぬように腕を組み、きつく掴んでいる。


 一歩前に立つ沖島の気配はやはり妙だった。

 とてつもなく大きいようでいて、何も感じられない。重量感はあるというのに、それは霞のようなのだ。何度も、そこにいるのかと確認したくなる。


 視線のようだ。

 誰かが自分を見ている気配はするのに、振り返っても周りを見渡しても、目が合うことはない。けれど、また視線を外すとねっとりとした気配が自分の背後を、それから周りを固めていくような居心地の悪さがするのだ。

 沖島の気配はそれとよく似ていた。

 無害なように振る舞い――実質、この男はぶらぶらしているだけの無害なのだが――穏やかなように見えて、存在感が縦横に厚い。どこにいても目立ち、だというのに輪郭ははっきりさせてくれない。


 有紗は幼い頃から、この沖島「先生」という男が、どんな物体なのか掴めないことに腹立たしく思っていた。胡散臭くてたまらない、と思っていた。


 個性だけが際だつ十二の集団をまとめ上げる轍が、沖島を一目おいているのも不思議であり、だからこそ反発したい相手となっていたのかもしれない。しかし、それ以上に――



 沖島が、思い出したように受け取った壷を見せつけるように振った。

 そうしてにっこりと、カゲに笑いかける。


「待たせたかな?」


 佐紀子の顔は一層嬉しそうに笑った。

 駅で見送った笑顔が遠くに過ぎていく。

 自分が到着するまでに、おそらく致命傷は与えていたのだろう、沖島のおつきのケモノが、三毛猫の姿になっている。

 けれど、瘴気は完全なカゲへと変わりつつあった。


 決着をつけられるだろうに、つけていない?


 有紗はうんざりした。

 沖島の考えなどわかるわけがない。

 しかし、ここでこれ以上よくはない事態がこれから起こることだけはわかった。


 沖島が、来るべきと気に備え、尾に一層厚みを持たせ、美禰と大志を尾で包んだ。

 大志は微妙な顔をしながらも、尾の中からでないように美禰をきつく抱き寄せる。


 なんで二人がここにいるんだか。


 それも、大志は血を自覚したと見える。人にはない危うい光を灯した瞳で、沖島が何をするのか注視していた。すっかり従属している。


 嫌な予感ばかりが幾重にも重なっている。

 今まで感じたことのないほどの重い気配が、ずっしりと肩にのし掛かるのを感じた。厄介なことこの上ない場面に立ち会わなくてはならないことが、億劫で仕方ない。有紗は押しつぶされぬように背を真っ直ぐ伸ばし、一歩前に進み出た。


「櫂、後ろに」


 筒木の前に立ち、沖島の隣に並ぶ。櫂はすぐさま後ろに隠れたが、肩を掴んでそうっと顔を出した。


「危ないから」


 櫂を押し戻しながら、有紗はサングラスの奥で沖島の手に渡った壷を見る。

 本当に、やる気なのだろうか。

 そう思っていると、沖島がちらりと有紗を見て微笑んだ。ぎくりとする。

 あまりにも穏やかだった。

 これから誰かを諭すような優しさを湛えた切れ長の目が、こちらを真っ直ぐに見下ろした。

 視線が絡む。

 それは、よく見ると奇妙な目だった。こんなにも柔らかな目の奥で――まるで、どこか値踏みするような、内の底を探ろうとする好奇心が広がっている。


 有紗はざわりとした感情を隠した。しかし、目はしっかりと合っているので、できたかどうかはわからない。



 ふいに、視界の橋で何かが動いた。

 佐紀子だったもの。黒ずんだ浴衣の裾を揺らし、黒い手が、すっと持ち上がった。

 ふっと空気の質量が重く粘る。カゲとしてなら、重量級のものだ。

 来る。

 有紗は身構えなかった。

 かざした手が、そのままぬるりと伸びてくる。

 その奥で、立っている轍と翼の顔が、有紗の目に飛び込んできた。

 二人とも同じ顔立ちなのに全く似ていない表情で、じっとこちらを見ている。

 いいや。

 沖島を見ている。

 注意深く、どこか苦々しい顔で。


 手が、ひどく淀んだ湿った風を連れて真っ直ぐに向かって来る。

 沖島は壷を右手で持ったまま、左腕でその手をいなす。

 赤子の相手をするように、造作もなく、有紗に跳ねた手が来ぬように、パンッと破裂音を伴って弾いた。


 この男は――


 有紗は両足に力を込める。

 今、自分も轍も翼も、隠れた兄弟たちも、一様に同じ顔をしているだろう。何食わぬ顔をして、こちら側なのかあちら側なのかわからない力を振るうそれに対して、じっと睨むように見ている。柔和な顔をしたままカゲに対峙する沖島を、疑いの目で見ている。


 その視線がわかるだろうに、沖島は全く意に介さない様子で、体勢を崩したカゲに向かって、とうとうそれを放り投げた。


 弧を描く壷。

 渋色の壷は、ゆっくりと放物線を描き、石畳に叩きつけられて割れた。

 カラン、と軽い音が響く。


 有紗と血のつながった誰かの骨のそれが、落ちた途端に粉々に散った。

 すぐさま、そこから溢れだした瘴気に瞬く間にかき消される。怒濤の勢いで、黒い霧はその場で渦を巻いた。ゴウッと低いうなり声を上げる。



 覚えている。

 十二の頃だ。

 静かに足下を掬おうとする波が、ひたひたと漂っていた。目覚めの悪い朝だったと、有紗は記憶している。

 理不尽な暴力が、瓦町に一点の黒いシミをつけた。混乱や怒りや悲しみが、シミを中心に吹き荒れたのは祭祀の翌朝だった。

 あれはどこからともなくやって来て、夜の闇に紛れて――ここはいつもそうだ、夜の底で何かを引き込もうとしている――美禰の家を丸ごと飲み込んだ。


 あの人の愛する娘。

 あの人が待ちこがれる娘。

 兄弟たちが慈しむ娘。


 それをカゲが食おうとしたことは明らかだった。難を逃れた美禰が、いくつもの手で惜しみない愛で庇護されてきたことを見るたびに、息苦しい気持ちが有紗の喉元に詰まった。

 まだ、これから先も狙われるだろう。生きている限りずっと、あの子は引き寄せ続ける。




 有紗は、狂喜で咽び泣くようなひきつった声を上げる黒い塊を見つめた。


 サングラス越しでも、それがぬるついた泥のように黒く濁っているのがわかる。黒くて黒くて、恐ろしいほど汚れた姿。こんな大きな、悪意の塊に釘を打ち付けたような歪なカゲが、ずっとずっと、美禰を諦めきれずに這い上がってくる。


 ああ、なんてむごい。


 ほんの一瞬だけ、彼女の感情が理解できるような気がした。

 けれど自分とそれの姿が一瞬でも重なることが許せず、有紗はその思考を思い切り踏みつけて蹴飛ばした。


 今目の前にあることに集中する。

 ふいに、引き裂かれた浴衣の切れ端に、目が吸い寄せられた。

 佐紀子の、浴衣。あの子のお気に入りの、蓮華の花の浴衣。

 有紗は初めて、友人を失ったことを実感した。胸に、冷たい針が刺さる。


 しかし、今まで何度もカゲの犠牲者を見てきた有紗の感傷は、この事態を前に浸ることなどできなかった。


 沖島が割った。

 壷を、そのカゲの前で。

 ボコボコと底から沸き上がる穢れは、何とか佐紀子を縁取って、そこで立った。

 人になるなど到底無理なのだろう、人型を保ち続けるために、崩れたそばからどくどくと脈打つように不気味に盛り上がる。

 ぶよぶよと肥大した人間の死の間際を何度も再生しているように見える。

 見ていて気持ちのいいものではない。


 有紗の肩を強く掴んだ櫂が「うわあ、グロい」と呟いた。

 沖島は、あれに対しても微笑んだまま、表情を変えない。

 まるで醜い子を見守るような、見ているものを寒々とさせる笑みのまま、じっと見据えている。その心の奥底で、それを欠片も残さず殲滅している姿を想像しているのだ。


 いつの間にか沖島の足下に退避していた三毛猫が、沖島の前にすっと出た。


 ふつうの猫よりも一回りほど大きい。

 彼らは、沖島に尽き従っている。

 心を寄せ、信頼し、委ねている。

 沖島の命令一つで、何でもするだろう。

 牙から蜜を送りカゲを蒸発させることも、自らの影を操って朽ちた魂を捕食することも、穏やかな手を差し出して精神を支配することも、あの三匹ができることは何でもできる。

 しかしそれ以上に、これが厄介であることを、有紗は知っている。


 沖島が、指先を向けた。輪郭をそうっと撫でる。



「さあ、行こうか」


 穏やかな号令で、彼らは軽やかに飛んだ。

 真っ直ぐ、泥人形のカゲに向かい、蜜を、影を、手を、一斉に膨らませる。花がちらちらと舞いながら、駆け抜ける。


 有紗の頭の中で、おはじきが飛んだ。


 弾いたのは誰の手だろうか。それは空に打ち上げられて、星々の光をきらりと宿して降下する。静かになる。地面に落ちるまで、世界がぎゅっと濃色される。


 その光景に、よく似ていた。

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