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3 シロ


 夜空に魅入られた瓦町の朝を知る術は、鐘の音だけだ。

 神のおわす山の正面の山に、寺がある。百八段の階段を上り終えると、砂利の敷き詰められた本堂と、鐘楼、住職が住んでいる小さな瓦屋根の家が開いた敷地の中で身を寄せ合っている。


 沖島の家は、その寺のある山の麓にある。

 茶屋からは見上げる位置にあり、町からは雑木林に紛れて見えない。寺からの鐘の音を一番に聞く位置にあるんではないかと思うほど、朝を告げる鐘の音は、家の中や、眠っている沖島の腹にまでも低く響く。


 いつものように暗い部屋の中で鐘の音を聞き、ごろりと転がれば、はだけた縞模様の浴衣の上に、ひらりと白い猫が舞い降りた。藍色の目を細め、そのふくよかな小さな手で胸を叩く。


「ああ、シロ」


 沖島は低く呟くと、目を開けずに手を伸ばし、シロのやわらかな首を撫でる。ごろごろと愛らしく喉を鳴らして頬をすり付けてくるシロは、そのままじゃれるように沖島の腹の上でごろりと転がって甘えてきた。


 沖島は寝ぼけ眼を笑みの形にして、くくく、と笑みを漏らす。


 彼女は甘えながら沖島の上で身体をすり付けると、ぱっと起きあがり、薄く目を開けた沖島の鼻を舐めた。


「……おはようシロ」


 起きたと確信したのか、シロは鼻を鳴らすとやれやれと飛び降り、さっさと開け放した障子の奥にするりと消えていった。

 沖島はぼんやりと起き上がり、頭を掻く。肩胛骨まで伸びた毛先ががぐしゃぐしゃと揺れて絡まるが、気にしない。


 暗闇に目が慣れてくる。

 漆喰の壁に開いた丸窓の外は、まだ真っ暗だ。


 幾つもの夜をつなぎ合わせているようだ、と思う。永遠に続く夜。誰もじゃましない夜。誰かが息をひそめている夜。昨日はあんなに暑く感じた空気も、今日は過ごしやすい。祭祀の日は終わった。


 沖島はすんと鼻を鳴らした。

 この家にはないはずのにおいが、シロの通ったわずかに開いた障子の奥から漂ってくる。

 枕元のランプに手を伸ばすと、ふっと紅葉の模様が浮き出て部屋を照らした。こんな小さな明かりでも、沼から這いだしたような安堵をもたらす。

 沖島は布団をはぎ取って立ち上がると、のそのそと寝室を出た。が、廊下の奥を見て足が止まる。

 いつもは自分が点けなければ暗いままの家に、すでに穏やかな明かりが灯っていた。


 湯しか沸かさない台所から、味噌汁と焼き魚のにおいが漂い、炊飯器からは蒸気が上がり、なにやらジュウッと焼いている音が聞こえる。コクヨウがダイニングテーブルの上に飛び乗り、スズまでもが小柄な茶色い身体を目一杯伸ばして台所を眺めている。あそこには新聞が溜まっていて、読みかけの本も適当に積み上げていたはずだ。


 雑然とした家で、突然別世界の扉が開いている。


 歩けば十数歩の、慣れ親しんだ我が家の廊下で、沖島は寝室から一歩出たまま、ぼんやりとその光景を見ていた。その目は、何かに縛られたように微動だにしない。


 ふと、白い手が伸び、指先でコクヨウの頬を撫でた。

 コクヨウが桃色の七分袖に頬をすり寄せる。華奢な手は、それを柔らかに受け止めた。


 その手つきが、沖島の硬直を解いた。息を吐き出す。

 コクヨウとスズが、同時に沖島を見た。そこに、シロが飛び乗り、三匹が見透かしたような目を並べる。

 彼らの目を受け、沖島はだらしない浴衣の襟を引っ張って軽く整え、帯を締め直した。

 タイミングを見計らったように、ひょこんと顔が現れて、おさげに結った髪がぷらんと揺れる。


「やあやあ、沖島先生」


 昨夜と同じ快活な笑みとともに、真っ直ぐに声が掛けられた。廊下の先の眩しさに思わず目を細める。


「おはよう。美禰くん」


 沖島の穏やかな声に、美禰は幼い笑みで、菜箸をくるりと回した。


「朝食でも一緒にいかがかしら?」

「それはそれは。いただこうかな」


 テーブルの上に物が散らかっていないのが奇妙な心地だった。いつも適読みかけの本の背表紙を眺めながら新聞を広げ、自分で淹れた緑茶をすすっていた。肘と湯飲み一つしか置けなかったはずが、こんなにも広かったとは。そして、椅子が二脚あったとは。


「先生どうしたの。椅子なんかじっと見て」


 美禰が盆を持ってくる。

 そんなものもあったとは。沖島はしげしげと見上げ、美禰が目の前に朝食を置いていくのを見た。

 だし巻き卵、豆腐とわかめの味噌汁、大根おろしに鮭の塩焼き、お新香。てきぱきと並べ終えた美禰が、花柄のエプロンを椅子に掛けて自身も座る。


「いや。椅子が」

「物置の前に置いてあったわ」


 美禰はきょとんと言う。どうして家主の先生が知らないの、と言わんばかりだ。


「先生、手を合わせて、ほら」


 美禰は手を合わせ、沖島に促す。


「はい、せーの。いただきまあす」

「いただきます」


 強制的な美禰の号令に流され、沖島も箸をとった。

 三匹の猫も朝食を貰ったらしく、仲良く並んで食べている。心なしか、いつもより彼らの背中が喜んでいるように見えた。その理由が、味噌汁を口に運んだ途端にわかる。


「おいしい」


 沖島の呟きに、美禰の顔がぱっと輝く。


「よかった」


 そこでようやく、沖島は今の現状に疑問を持った。だし巻き卵にのびていた箸を止める。


「美禰くん」

「冷蔵庫は空っぽだったから、四番通りの商店街で買ってきたの。このエプロンは自宅から持ってきた。ついでに言っておくけど、お財布は自分のを使ってるわ、安心して」


 美禰は聞く前に答えると、お新香をほおばった。

 沖島は「なるほど」とだけ答え、だし巻きを口に運ぶ。やはりこちらも美味しい。

 美禰は胸を張って答えてくれたが、聞きたいことはそれではなかった。


 昨夜、沖島は夜に紛れて美禰を自宅まで運び、リビングのソファに寝かせた。毛布を掛け、コクヨウとスズとシロにそばについて貰った。そうすれば、彼女の目が覚めたときにここがどこであるのか理解できるであろうと考えてのことだった。きっと沖島に、どういうことかと詰め寄ってくるはずだと、いくつか妥当な答えを用意していたのだが、まさか鐘の音の前に起き、買い物にまで行って朝食の準備をしているとは、予想外だった。


 沖島はぱりっと焼かれた皮を剥ぎ、鮭をつつく。

 どう聞いたらいいものか。

 というか、聞いてこないのなら、このまま彼女が「じゃあこれで」と帰るのを待っていた方が面倒は少ないのかもしれない――だめだ、まだ目が覚めていない。


 沖島の思考が、ああでもない、こうでもないと、予想外な歓待を受けて定まらない間に、美禰は食事を終えた。「ごちそうさまでした」と行儀良く手を合わせる。


「ああ、うん」


 何気なく相づちを打つと、美禰は下げようとお盆に手を伸ばしていた手をぴたりと止め、座りなおして膝の上で拳を握った。ぴしりと伸びた背に、じっとこちらを見る真剣な顔。

 沖島も手を止める。


「うん?」

 促してみると、美禰はぱしりと大きな瞬きをして、意を決したように小さな口を開いた。


「沖島先生」

「なにかな」

「あたしをここに置いてくれませんか」


 なんの冗談だと言い返しそうになったが、美禰の目は本気だった。取りあえず、味噌汁を飲んで理由を尋ねる。


「なんでまた」

「あたしの両親はもういないの」


 知っているので、軽く頷く。

 美禰も頷き、二人で数回頷きあった。


 食事を終えたスズが、足下にすり寄る。コクヨウはテーブルに飛び上がり、美禰を援護するように隣に座って沖島をにらみ上げてきた。さすが雄だ。シロはというと優雅にリビングに向かい、横に広い出窓で毛繕いを始める。外に、ぼんやりと光が列をなし始めるのを見ている。沖島もそれを見ていると、美禰も気づいたように窓に視線を向けた。


「明かり、つき始めたね」


 美禰が朝を迎えたさわやかな声で言う。

 この家で、朝を迎えた喜びをかみしめるような美禰の声は、とても異質であり、けれどどこか新鮮だった。

 沖島の心がかすかに動く。


「今お世話になってるのが、茶屋の二階だったかな」


 聞くと、美禰は表情を少し和らげた。


「うん。店長が、前にお世話になっていた青果店のおばあちゃんの孫でね。二階の部屋が物置になって開いてるから、よかったらどうかって。でも」


 美禰が押し黙る。恐怖にひきつるでもなく、心底不思議そうに首を傾げた。


「今日、朝行ったら、誰もいなかったの」

「そうか」


 美禰は食材を買いに出かけたのではなく、茶屋に戻っていたのだ。そして、誰もいないがらんとした店内を見て、回れ右をして朝食の買い物を済ませて、戻ってきた。


 どうやら昨夜の記憶はないらしい。

 ないほうがいい。


 沖島は箸を置き、感謝の意を表すために恭しく手を合わせた。

 嬉しそうに微笑む美禰に、ひらりと右手を向ける。


「で、君はここにいることを不思議には思わなかったのかい」


 美禰は一拍遅れて「ああ」とやっと思い至ったように手を叩いた。


「先生の家だなあ、としか思わなかったわ。シロさんもスズさんも、コクヨウさんもいてくれたし。猫って暖かいのね」


 護衛は役目を果たしたらしい。

 なおも美禰の隣にいるコクヨウが、また頬を撫でて貰っている。気持ちよさそうに目を細めた。


「そういえば、あたし、どうしてここにいるの?」


 大した問題でもないように美禰が聞くので、沖島も同じように投げ返す。


「何か覚えているかな」

「うーん。昨日は祭祀で、先生と帰りにばったり会って。そうそう、店長と佐紀子がいないって話したよね?」

「ああ」

「それで茶屋に戻ったんだけど、誰もいないのに店内の電気は付いていたの。変だなと思って、間借りしてる二階にも上がったんだけど、当然だけどあたしの部屋にも誰もいないし、どうしようかと思って。いつも、店仕舞いは店長がして、あたしが内側から戸締まりするのを確認してくれるくらいだから、そのままふらっと居なくなるなんてことはなかったの。あたしが鍵を閉めないと、店前から離れないくらい徹底してたわ」


 青井はきちんと年頃のお嬢さんを預かる心遣いがあったらしい。もしくは、青井の婆さんがそれを口を酸っぱくして言い聞かせていたのかもしれない。何しろ彼女はこの町で好かれている。


「なるほど。紳士だね」

「だから、帰ってくると思ったの。でも、そんな気配がない。暇だから掃除をしようと思ったところで――ああ、そこから覚えてないわ。なんでだろう」

「甘酒でも飲んで酔っていたのかもね」

「そんなばかな。あ、先生はいいの、あたしがするから」


 沖島がお盆に手を伸ばすと、美禰はすぐさま奪い取るように取った。コクヨウがひゅっと避け、そのままテーブルから降りる。


「片づけくらい」

「できないと思うわ」


 美禰はテーブルの隅に置かれた段ボールに目をやる。そこに、綺麗に新聞が並んでいる。ついでにもうひとつの段ボールには読みかけの、読む予定のない本がきちんと順に収まっていた。


「確かに不得手ではあるができないわけではない」


 と、適当な反論をする沖島を見て、美禰は悪戯っぽく笑った。

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