26 半身
美禰は、リビングをぐるりと見渡した。
今は他人である自分しかいない、珍しい板張りの床の上に置かれた洋風の家具。どこか、センスのいい人によって誂えられたものを感じた。雑多なようでいて、落ち着ける。広い出窓からは町が見下ろせるし、目前の社の山も見える。誰かがここにずっと座り、窓から夜空を眺めていたような、慈しんだ時間が家に染み着いている。
沖島は自分を家族としては扱わず、一人の女性として扱った。
初めて対等な関係を手にして、今まで自分がどれだけ「庇護」を相手に要求していたのかを知り、恥ずかしく思った。弱き者になりきっていたほうが、自分にも、相手にも、都合のいい関係だったのだ、と気づかされた。
沖島は、美禰を甘やかさない。
それがこんなにも気を楽に、開放的に、そして、寂しさを伴うものだということを、知らなかった。
美禰がぼうっと窓を眺めていると、コンコン、と控えめなノックが響いてきた。
美禰は立ち上がる。
そうして、なぜか、足音を立てないようにそっと、玄関に向かった。
どうしてだろう。息を潜めなければ、と思ったのだ。そして、あんなに微かな音なのに、そうして自分は気づけたのか。スズはどうして反応しないのか。美禰は玄関に近づきながらも、自分に問うていた。
同時に、誰が来たのかもわかっていた。
玄関の扉を開ける。
沖島の顔がよぎる。
玄関から漏れる薄明かりの中、佐紀子が立っていた。
黒目がちな目を、きらきらと輝かせて笑っている。
○
瓶の中に、白い花が浮いている。
それは無重力の中を自由自在に泳いでいるように、欠片の周りで囁いている。
この中に、その昔自分から半分の魂を奪っていった気配が濃厚に感じる。
魂ではなく、感情、とでもいうのだろうか。
彼女は無邪気にそれを奪っていった。
流れ着いたこの町に来たときに、彼女に見つかったのが運の尽きだったのかもしれない。
彼女は、草むらで隠れてうずくまっているのを目敏く見つけられた。
着物に大きめの羽織り姿で、長い髪を揺らして、こちらを見ていた。くりりとした目を見開き、楽しげに「ふふふ」と笑って、花が咲いたような甘い匂いを漂わせた。
なぜついて行こうと思ったのかわからない。
ただ、彼女について行かなければ、この町の夜空を牛耳る恐ろしく愛に溢れた裾野に、見咎められるような気がした。
彼女は暗がりの石段を上がって、人気のない静かな家に連れ帰った。
寂しい場所だ、と思った。
こちらの同情を見透かしたように、彼女は薄く笑って手を伸ばす。油断していた。彼女があまりにも、懐かしそうにこちらを見ていたから。まさか、そのまま内側に侵入してきて、強引に奪っていくなどと、思いもよらなかった。
胸の内で育っていた、捨てられた魂。
可哀想な無垢な赤子の魂。
どうして拾ったの覚えていないが、それはもうすでに清濁飲み込んできたものと溶け合っていたはずだった。
彼女は、それを見事に綺麗に切り離し、あれを生み出した。
そうして、あれを家から出さず、この地に慣らし、いつもなにかを注いでいた。残酷な、愛のようなもの。
あれは、ガラスの中に閉じこめられたような、美しさとも言えるものを湛えていた。彼女が誂えた着物を着て、髪を櫛で梳いてもらい、そこに永遠に存在する人形のように思えた。
だが、その日は突然訪れた。
いつものようにソファにぼうっと座っていたのに、目が覚めたようにハッとして、こちらを見たのだ。
目があって数秒。
それは、目を細めて「コクヨウ」と呼んだ。
あまりにも柔らかな表情にのった声を聞いた瞬間に、全身に言いようのない衝撃が広がった。毛が逆立ち、喜びにどこにあるかもわからない胸が震えた。
その名を呼ばれたのはどれくらいぶりだったろうか。
遠い昔、初めて慈しむように抱かれた、まだただの猫だった頃の飼い主がつけてくれた唯一の名前を呼んだのだ。
目の前の男が、間違いなく自分の中にいた半身だと確信し、守らなければ、と強く思った。
背後で、新しい着物を持ってきた彼女がそれをどさりと落とし、走り寄ってきた気配がしたかと思うと、彼に飛びついた。
そして、言ったのだ。
――ああ。ようやく会えた。
瓶の中で、欠片が揺れる。
彼女の気配がとろりと溶け込んでいる。
これは、自分から魂を奪い、そして与えてくれた無邪気な女のそれだ。
彼女は、自分の命を削ってあれに現実の生を与えた続けた。
そうすることで、永遠に続く自分の運命から、さも簡単に戦線離脱した。自分を人ならざる人として生み出し、永遠に側に置こうとした空を覆う母から、逃げ仰せて見せた。
そして何の気まぐれか、最後にシロとスズという自分の抜け殻を、あれに残して。
あまりにも身勝手な愛を与えて、代わりに残されるあれのことを考えていたのかと腹立たしくなったが、それ以上に、生を手に入れたあれと彼女が過ごした三年という月日は、尊いものであったと思えた。
そして気づいた。
あれに与えられた愛情は、自分にも流れ込んできていたことを。そうすることで、彼女は、残したシロとスズとあれを、守ろうとしているのだ。なんと恐ろしい。彼女の身勝手な用意周到さを目の当たりにすると、一周回って仕方あるまい、と許してしまえるほどだった。
こうして、瓶に自分の気配まで詰めて、予期せぬ事態に備えていた。
なんとも彼女らしい。
手でころりと転がす。
欠片を事も無げに浄化しているのを見れば、彼女の力が未だに強く残っていることは間違いないようだった。
ならば、いったい、さっきの刺すような気配は何だったのか。
間違いなくこちらから寄越された気配だった。
それも、美禰を狙っていた。今までと同じように。
今まで、あれの前には何度も彼女の残像が現れた。
残像は短命だった。カゲが狙うからだ。あの母が慈しんで生み出す、人ならざる娘。彼女の残像を喰おうとするカゲは時折出てきては、打ち破れていった。
けれど、残像の短命たる所以は、カゲではない。そうして守ろうとする力に耐えきれずに、彼女らはすり切れてしまったのだ。
あれは、そんな残像をいくつもなす術なく見送ってきた。
決して手を伸ばそうとはしなかったが、近くで眩しそうに見守り続けてきた。
だというのに、その美禰をこうして側に置くことになってしまった。不可抗力ではあったとしても、目に見えぬダメージは大きいだろう。
なにせ、美禰は似すぎている。
沖島響という、あれが唯一愛した女の残像である美禰は、驚くほど彼女によく似ているのだ。
ふと、スズのか弱い鳴き声がリビングから聞こえてきた。
シロとは違い、スズは身体も小さく、まだ彼女から残された力をうまく制御して使いこなすことはできてはいない。
急いで鳴き声のする玄関へ向かうと、何かがスズの上にのしかかっていた。
カゲだ。
それはスズの身体に巻き付き、床の上に押さえつけていた。
その向こうで、玄関のドアが大きく開いたままになっている。
○
大志は一人、瓦町の五番通りを向かいの山に向かって歩いていた。
手には紙袋を持っている。ずっしりと重い袋は歩く度にカサカサと音を立て、桃の甘い香りをふわりと大志の顔に吹きかけた。
甘ったるい香りに、大志はそれを無表情で見下ろす。
どうして桃を運ぶことになったんだか。
それは、押しつけられたものだった。家の使いで出かけたはずが、八百屋で目的を果たす前にトヨに声をかけられたのだ。
というよりも、歩いていたところを、彼女らしからぬ俊敏な動きで腕を捕まれたので、内心かなり驚いていてそのまま返事代わりに頷いてしまった。
そうして渡された紙袋は、向かいの山に居を構える通称猫屋敷に配達中だ。
使いで頼まれた白菜のことはトヨに伝えたし、そうすると他の誰かが家に配達してくれるだろう。親に小言を言われる心配は無用だった。
しかし、大志はなんとなく気が重い。
猫屋敷のある寺の山は、社の山より薄暗い。夜に彩られた町の中で一層暗く見える。大志は、密かに幼い頃からこっちの山が不気味で仕方なかった。
あそこに自分の、そしてこの瓦町の祖先がいると感じるからかもしれないが、じっと見られている気がするのだ。森の中の葉が、一つの目となって無数にあるような気がする。
あそこに平然といる寡黙な和尚は恐ろしくも何ともないというのに、なぜかあの山だけが怖かった。
善し悪しを通り越して、近づくのを本能的に拒絶している自分がいた。その着心地の悪さは誰かに理解されるものではない。
社の山にも、向かいの山にも、誰も好んで近づきはしないが、それは清く崇高な信仰心からだ。大志は、山にそんな感情を持てなかった。
しかしその反対に、社の山にはそれはそれは親しい気持ちを持っていた。あそこから見下ろされていることに安堵を感じ、そこに存在していることに心から感謝をしている。そして、とても身近に感じている。こういう気安いと言われそうな気持ちも、皆とは少しばかり違うこともきちんと理解していた。
だから無口になった。
自分の感じているもの、それに対する感情は、決して皆に受け入れられるものではないことを幼いながらに知ったからだ。まず相手の感情を読みとろうとするのが癖になってしまった。
だからこそ、美禰を傷つけることなく一緒に過ごすことができた。
だからこそ、感情を読みとれない沖島が苦手で仕方ない。
こうして出向くのも、美禰がいなければ絶対に近寄りたくない。苦手な場所に苦手な人間がいる。それだけで、大志の沖島への印象は下がり続けている。そこに美禰の次の家となったのだから、当然いい気はしなかった。
どうして皆あの男を信頼するのか。
わかっているけれど、わかりたくはなかった。
ふと、大志は左手の細い路地が目に留まった。
沖島の家を見上げるのに嫌気がさして顔を背けた弾みに、それに気づいたのだ。
四番通りに続いているが、大通りではないので薄暗い。
なのに、何かがきらりと光っていた。
大志は考えるよりも先に足を向け、一段と細い路地の中でしゃがみ込んだ。
おはじきだった。
指で摘んで持ち上げる。
金の粒が入っていて美しい、珍しいものだ。
きらきらと輝くそれを、大志は立ち上がって掲げ透かしてみる。やはり、内側から光っているように見える。海の中から見上げる太陽のように――そう思って、首を傾げる。
変だな。太陽なんて見たことないのに。
大志はそう思ったことを大して気に留めず、小さい頃に美禰とこうして遊んでいたことを思い出した。
そこには轍もいて、佐紀子もいた。輪を描いて、囲んで、順番にお弾きを飛ばした。うまいのは決まって轍で、しかしいつも彼は美禰に手加減をしていたような気がする。やわらかく見守る姿を見て、不思議と安心したものだった。幼い頃に囲んでいた遊びなど、とうにしなくなっていたが、こうして手にすると懐かしさでいっぱいになる。




