25 美禰
ふと、足下にコクヨウがすり寄ってきたので、美禰は活字を追っていた視線を下へずらした。
綺麗な子だ。
黒い毛並みは艶々として美しいし、瞳の色はとても珍しい色で、ついついのぞき込んでしまう。
灰褐色の瞳。その中心の瞳孔は黒い月のようにまん丸く、美禰をじっと見つめていた。
「なあに、どうしたの?」
美禰は本を閉じた。
なぜか沖島の本棚に潜り込んでいた、佐紀子から借りたままの本。読まれたと気づいたときは顔から火が出るほど恥ずかしかったが、あんなに涼しい顔でこれを呼んでいたのかと思うと、くすぐったい気持ちになった。
沖島は、とても掴み所がない。
美禰はそれなりに気を遣って過ごさなければと心に決めていたのだが、彼は驚くほど自然体だった。
あまりにもこちらを意識した様子がない上に、どうにかすると生活破綻者の仲間入りをしてもおかしくない暮らしかたをしていたので、美禰はいつの間にか沖島の世話をほどほどに焼くのが仕事となっていた。
朝、鐘の音が鳴ってしばらくして、少々はだけた着物を整えながら、大きなあくびをして出てくる。髪はあちこち飛び跳ねてぼさぼさならマシな方で、前夜に結ったまま寝ていると、後頭部で絡み合って鳥の巣のようになってしまうが、当の本人は全く気にしていなかった。
美禰は洗面台に向かう沖島の後ろ頭に驚いて、ダイニングの椅子に座らせ、髪を梳かした。一昨日のことだ。一時間かかって何とか解き、曲がりくねった髪をヘアオイルと柘植の櫛で整えながら、絶対に髪を解いて寝るように、と説教をした。
あの人は大人な癖に、とても子供っぽいところがある。
そして、世話を焼かれることを、どこか嬉しそうにする。
美禰が複雑に絡み合った髪を必死でほぐしているときも、ずっと肩を揺らして笑っていた。
沖島は起きてきて、髭を剃り、髪を少し整えて、それから美禰に「おはよう」柔らかにと声をかける。
一昨日のようなハプニングがない限り、それが一日の開始の合図だ。
朝食が済めば美禰は後片付けをして、洗濯を回している間にあちこちの掃除を済ませる。
その間、沖島は気にかける様子もなくのんびりとソファで読書をしているし、猫たちは美禰の後をついて回る。
それが、日常になりつつある。
沖島も、ようやく台所の煙草に気づいてくれた。
こっちは何も気にしていないのに、いつ気を許して吸ってくれるのかとやきもきしていたが、今日やっと換気扇を回してくれた。嬉しかった。
沖島は、美禰の知らない種類の男だった。
茶屋であんみつを食べているときも、折り紙の花を褒めてくれたときも、どこか周りと一線を引いて、違う場所から見渡しているような雰囲気が寂しく見えた。
けれど、距離を持って接しているかと思えば、するりと懐には入ってきて、人を安堵させるような柔らかさも持っている。感情の起伏があるのかどうかわからないほど穏やかな人であり、美禰にとって沖島はどこか絵巻物の中で生きているような、遠く現実感のない人だという印象を持っていた。今朝までは。
すべての日常が、幸福に変わるんだよ。
そう言って穏やかに愛を語る笑みは、確かに沖島という男が存在していることを美禰の中で強く色づけた。
あんなに優しい笑みで、誰かを思い出しながら、彼は今それを失っているのだと思うと、何とも言えなくなった。誰かを失う喪失感は、言葉にはできない。
美禰は、ふと佐紀子もそんな顔をしていたな、と思い出した。
美禰が働き者ならば、佐紀子は雰囲気を和らげるのがとてもうまかった。いつも元気で、おしゃべり上手だった。美禰がてきぱきと働いていると、彼女は客の話し相手になってみたりと、茶屋の雰囲気はいつも良かったように思う。
佐紀子は、ふと青井の方を見て、それから無理矢理気を逸らすようにてテーブルを拭いたりと、見ればわかりそうなくらい青井に対して好意を抱いていた。
美禰は、佐紀子から相談してこないうちは何も言う気はなく、彼女が言ってこないのは、年が十も離れているからだろう、と勝手に思っていた。
確かに青井は気が優しく、そしてまじめで誠実だった。
美禰に茶屋の二階に住むことを打診したときも、部屋に内鍵をつけ、店の鍵まで預けると言ってきた。さすがにそれは遠慮をし、折衷案で、店の鍵は店の中に置くこと、店じまいをした後は、青井が美禰が内側から鍵をかけるのを確認してから帰ること、と徹底することで、お互いの約束事として取り付けた。
あまりにも気を遣ってくれるので、申し訳なく思ったほどだった。
佐紀子はとてもしっかりしていたから、それ以上にきめ細やかで頼れる大人の相手に好意を抱いてもおかしくはない。ファザコンだと公言していたこともある。
恋愛小説を読んだり、それを美禰に薦めてきたりと、すぐに恋とやらに舞い上がるのは目に見えていたのに、佐紀子は静かに青井に心を傾けていた。
勝手に、恋とは脳にアドレナリンを大量に生み出し、アグレッシブな人間に変身させるものだと思っていたらしい。
沖島も、佐紀子も、相手を思う顔は、内側からかすかに光が漏れるような、暖かみを帯びていた。
あんな顔を、あたしは知らない。
熱っぽく青井を見て幸せにゆるむ口元も、今はいない誰かを思って、幸せだった時間を語る慈しむような顔も、不思議と共感できなかった。
心の中にすきま風が吹き抜けるような寂しさ。どうして自分の心は欠けているのか、悲しくて仕方なかった。羨ましかった。
佐紀子は笑う。青井も笑う。どこか視線を逸らして、けれど似た空気を二人の間に漂わせてを持って。距離が離れているのに、暖かな空気をゆっくりと育んでいく。瞳の奥に、慈愛ある優しさを灯している。二人は美禰が仕入れに出たほんの短い間に、少し距離を縮めてひそひそと嬉しそうに話す。佐紀子は身を委ねたように気を許し、青井はそれを優しい眼差しで受け止める。
これは見ていたのだろうか? あたしはいなかったのに? トヨばあちゃんのとこで、葡萄を買っていたのに?
紫色の葡萄の粒が、枝からぽろりと落ちる。
誰かが見つめている。背の高い木を、夜空の中で見つめている。庭だ。香りのいい木の下で、小さな白い花を、白い指先で摘んでいる。手のひらに集めている。鼻歌を歌っている。とても綺麗な透き通った声が、集めた花びらに吸い取られていく。彼女は着物の袖を揺らす――着物? 佐紀子は着物なんて着ていないのに――白い足袋が草履をひっかけて軽やかに歩く。建物を回っている。見慣れた玄関を、その手が開ける――ここは――すぐに、黒い影がさっとさして彼女の足下でぐるぐると回る――コクヨウさんだわ。まだ、小さい――彼女は指先で耳をそっと撫でると、小さな歩幅でリビングを通り過ぎ、廊下をすぎ――あたしが決して開けない――障子を開けた。畳の上にある布団の上で、ごろりと寝転がった、はだけた着物姿の男へと彼女は声をかける。ねえ――聞こえない、なんて言ってるの――男が振り向く。沖島が、狐目をさらに細め、子供のように無邪気に笑う。眩しい。窓の外は夜なのに。部屋は小さな明かりしかないのに――こんなにも幸福に満ちあふれている。痛いほどに――彼女は笑っている。胸の内で花が咲くように。男は笑う。愛を一心に注ぐ眼差しで。
あたたかな肉球が、美禰の膝を撫でた。
ハッとする。
美禰ははぼんやりとしたまま、コクヨウを見下ろした。
灰褐色の目は落ち着き払っている。ふと、心が和らいだ。知らずに詰まっていた息をゆっくり吐き出す。
出窓で一人で身体を丸めていたスズが、ちらりとこちらを見た。
「なんだったんろう」
そう呟いたが、今見たものの意味を考えることを、美禰はどこかで拒否していた。他人の日記を偶発的にのぞいてしまったバツの悪さが苦く広がる。その反面、そう感じていることにも驚いている。
今見たものを、心ではないどこかが「夢ではない」と囁き、それを受け入れているのだ。
美禰が再び持っていた小説に手を伸ばそうとすると、コクヨウは何かに気取られたようにパッと起きあがった。俊敏な動きに、美禰は思わず両手を上げる。
コクヨウは一切美禰を見ないまま、耳をぴくりと一度だけ動かすと、ソファから大きく跳ねて飛び降りた。そのまま、部屋へ続く廊下に消えていく。
美禰は、彼の黒い尾を何気なく視線で追いかけた。
それはどこか、沖島の背を追うような気持ちに似ていた。突然、沖島が家にいないという当たり前のことに気づき、何とも言い難い不安のような物が胸の内に広がる。漠然とした寂しさ。心許なさ。自分はこんなに感傷的な人間だっただろうか、と心がひどく後退したしたような心地に、一気に子供に戻ったような感情がむくむくと沸き上がるような気がした。
今まで、瓦町を出るという考えはなかった。
何もかも失って、残ったのは持たされていたペンダントだけで、この町にいるということが、両親との唯一の繋がりだと信じて疑わなかった。
そのためにいくつもの家にお世話になることを、美禰は卑下してこなかった。町を離れないのなら、誰かに庇護してもらう必要があったのを理解するには、十三歳という年の少女には容易だった。
気づいたときにいたのは、大志の家だった。
三年と、一番長くいた家でもある。
前後の記憶がない美禰を、大志はとても慎重に、けれど腫れ物のごとく扱うことはなく、美禰が自分からしゃべり出すのを普段と変わりない態度で待っていた。それは、状況の飲み込めていない愚かな少年ではなく、美禰の知っている、物静かなように見えて誰よりも子供っぽい振る舞いのできる、賢い男の子だった。その肝の据わった振る舞いに、周りの大人が安堵していたのをよく覚えている。所在なさげに突っ立っていると、手伝いを強要するのではなく、一緒に考えてほしいというスタンスで、大志はあれやこれやと美禰に身の回りに溢れている「やっておくこと」を教えてくれた。ただひたすらに戸惑う美禰に、生きていく術を順に教えてくれているようだった。
大志曰く、念願の妹ができたので、世話焼きブームが来ていただけのこと、だそうだ。
その後、心身ともに回復していくと、家の手伝いを要領よくしていくことができるようになり、自然と相手の表情を読むようになり、それに気づいた家人がこちらに気遣うことだけはあってらならいと強く思うようになった。そうすると、どの家にいるにしても一年が限度だった。美禰の精神衛生上、どこかの家に深く身を置いて、こちらの気遣いを知られるのは、とてつもない負担だった。居心地の良かった大志の家には、ちょこちょこと顔を出すことで、恩返しをしている。そしてそれがお互いちょうどいい距離感だということも、美禰はよく承知していた。
どの家にも感謝しかない。
店を手伝い、食事を囲み、学習塾へ通わせてくれ、相談事もしてきた。家族として接してくれる相手に、同じく家族として返してきた。
けれどここはなんだか違う。




