2 茶屋
松明を覗きこむと、寄せ集まった木片が粘度の高い液体で消されていた。
沖島は躊躇うことなく隙間から指を入れる。それは赤黒く、生温かかった。指をすりあわせると、じゅっと蒸発するように消える。
なるほど。もう補給をしたか。
沖島は心の中のざわつきを一片も表情に出さず、ゆらりゆらりと下駄を鳴らした。
人々はもう家に引っ込んでいる。長屋の前に吊された提灯だけが、朝も昼も、夜も変わりない。大きな窓の明かりはちらほらと消えているのもあった。賑やかなことをせずしずしずと日々を過ごしていく人々にしてみれば、社で舞を見て甘酒を振る舞われた後となっては、疲れもあるのだろう。彼らはこの日だけは舞台を囲み、饒舌に話し尽くすのだ。きっといつもよりも高揚した頬が、舞台の松明に美しく照らされていたことだろう。
沖島は考え事をしながらも、ひたひたと続いている小さな点から目を離していなかった。
彼がふらりと歩いているのは、その目印が、右往左往に歩いていたからだ。迷っている。探している。見つけようとしている。その、砂利ほどの目立たない跡を、見逃すことなく、沖島はぼんやりと石畳に視線を落としながら、いつものように軽い足取りで歩いていた。
その頭の半分で、それぞれの家の引き戸の木の格子の隙間に、鳥居のうちわが差し込まれて入ることが断片的に入ってくる。
提灯のだいだい色の光に照らされて、鳥居が揺らめく。何かを主張している。
何を考えているのだろうか。
沖島は自問する。
感情とは違う場所が、明滅しているような気がする。鳥居がにらみを利かせているのはもう慣れた。それではない何かが、引っかかっている。
落とした視線の先が、とうとう目的地を持ったように真っ直ぐ進み始めたことに気づいた瞬間、頭に絵が弾けた。
薄紫の浴衣の桔梗の紋が、艶やかに花開く。
ふわりと香るあまやかな体温。無垢な笑顔。美禰の背で揺れる豊かな髪の尾。何も持っていない、手。
それを意味することが頭に過ぎると、沖島の足は自然と速まっていた。もう石畳に視線を向けてはいない。見ているのは、ただ一つ、右手の長屋の最奥にある「茶屋」の提灯だけだ。
精神はすでに最悪の事態に備えようと、勝手に頭の中に侵入して惨い映像を上映しようとしている。幾重もの華やかな提灯の群を足早に駆け抜けながら、沖島はそれを払いのけた。
周辺の家の窓の明かりは、もうすでに消えている。それだけで、随分と暗く感じた。今日の提灯の明かりはなんと心許ないことか。
森から湿った風が吹き抜ける。
沖島は店の前を見渡した。
大きな窓に掛けられた簾にも、座布団の置かれた長椅子にも、うちわはない。それは、青井も戻ってきていないことも意味している。
石畳に伸びた影が動く。
格子の引き戸は、不気味な予感をにおわせるように薄く開いてた。店から漏れ出る光で、店の前に置かれた水瓶の表面がぬらりと光る。
水草の奥から、ぷくぷくと小さな泡が湧いていた。表面でぱちんと弾けた小さな音が、強く耳に残る。
沖島はじっとそれを見つめ、袖を押さえると、右手を突っ込んだ。
水瓶の中の水も、心なしか生暖かく感じる。腕を擽る水草の根を押しのけていると、底に行き当たった。ぬるついた瓶の中を探る。頭は至極冷静だった。水面に歪んだ顔が映っている。沖島は癖で、それに笑みを向けた。おかしくなる。この引き戸一枚隔てた奥で、美禰が見てはいられない姿で転がっているかもしれないと言うのに、条件反射とは恐ろしく、なんとむなしいことか。
こつん、と指先に何かが当たった。
指で摘み、引き上げる。
目の高さまで上げ、沖島はしげしげと見つめた。
破片だった。鋭く尖ったひし形のそれは藍色で、くるりと裏返すと、米粒ほどの細かな文字がびっしりと埋まっている。間違いない。壷の破片だ。
沖島は軽く拭って袖に仕舞うと、光が漏れる隙間に指先を差し込んだ。
こめかみが脈打つ。
乱れた髪が首に張り付き、沸き立つように揺れた。
息を止め、一気に開ける。
がらんとした空間が広がっていた。
暖色の明かりが照らしている店内は、人気がないことを除けば、いつもとなんら変わりはない。しかし、詰めていた息を吐き出した途端、沖島の嗅覚が、畳のにおいに混じる微かな生臭い鉄のにおいを嗅ぎ取った。
重い足取りで、慣れ親しんだ茶屋に足を踏み入れる。
左手の小上がり、右手のテーブルを通り過ぎ、カウンターに触れる。藍色の折り紙の花を視界にちらりと入れ、沖島は桧の食器棚が置かれているカウンターの中に入った。
よりにおいが強くなる。
床を見れば、べっとりと赤い液体が塗りつけられたように掠れて広がっている。沖島は踏まぬように注意を払い、引きずった跡が続く、桃色の暖簾の前に立った。
濡れたままの腕で、ゆっくりと暖簾を押し上げる。
調理場だった。ステンレスのL字型の流しと、壁に寄せられた大きな冷蔵庫の間の床に、包丁やフライ返しなどの調理器具がばらまかれている。その中央で、美禰がうつ伏せで倒れていた。あたりは血が激しく飛び散り、壁掛けのフライパンの柄から、血が伝って滴り落ちている。
沖島は美禰のそばにゆっくりと寄った。
血濡れた浴衣のとなりに静かに屈み、そうっと白いうなじに手を伸ばす。指先で髪を掬い、首筋に触れた。
途端に、嘆かわしそうにひそめられていた眉が上がり、大きくため息を吐き出した。
沖島は膝をつき、美禰の肩を掴んで回転させる。
「美禰くん」
沖島は肩を抱え、頬に付着した血を袖で拭うと、控えめに頬を叩いた。
薄く開いた唇からは息が漏れているが、美禰はぴくりとも瞼を動かさない。申し訳ないと思いながら、浴衣の上から軽く身体に触れる。破れていないどころか、どこにも傷らしきものはない。見渡すと、美禰が倒れていた場所の腹部あたりに、血だまりに浸った腕が一本、ごろりと転がっていた。
小指に細い輪が光っている。血に濡れていたが、そこに喜びが溢れているの感じると、もの悲しくなるような気がした。
肘あたりから食いちぎられたのだろう。ギザギザの断面から、血管がどろりと垂れていた。
沖島はそれを眺め、呆れたように呟く。
「なんて行儀の悪い」
もう小指の指輪の輝きなど目に入っていなかった。
そういえば、昨日佐紀子はやたらと手を気にして、握っては親指で小指の指輪に触れ、ふくよかな笑みを浮かべていたな、などと思い出したくらいだ。ついでに青木もそれを見て、だらしなく笑っていた。
さて、そんなことよりこの惨状はどうしたものか。
沖島にはこの状況こそが問題だった。
もし、明かりがついたままの茶屋を不審に思った誰かがやってきて、この頼りない暖簾を突破してくれば、間違いなく自分の仕業とされてしまうだろう。それは筒井からの依頼の遂行に大きく影響を及ぼすどころか、ここから出て行かなくてはならなくなる。これは由々しき事態だ。
美禰を抱いて自身も赤く染められた沖島が思案していると、コトンと小さな物音がした。暖簾の向こうからだ。
美禰の肩を抱く手に力を込める。
若草色の背中から、奇妙な殺気が立ち上った。しゅるりと三つの尾のような影が渦を巻き、沖島に覆い被さる。
暖簾から目を離さない。
細い睫も瞬かず、能面のように表情を消した顔が、ただ一点を見つめていた。垂れた暖簾の、下。そこに、足がやってきた瞬間に備えていた。
足音を消してやって来たのは、黒いしなやかな前足だった。
殺気を消し、沖島は肩の力を抜いた。暖簾の向こうに話しかける。
「コクヨウ」
呼ぶと、前足をゆったりと動かし、暖簾の下に黒猫が現れた。
短い毛は艶があり、惨状を前にしても彼は動じない。思慮深い灰褐色の目の瞳孔は丸く開き、凛々しい顔立ちの彼にしては、珍しく愛らしい表情をしていた。小さな乾いた鼻がひくひくと動くと、鋼のような髭が揺れる。
沖島は首を横に振った。
「断じて私ではないよ」
やや呆れ顔のようなものが返ってくるので、それも否定する。
「美禰くんのでもない。彼女はこの中でどうして無事なんだか」
コクヨウはひらりと血のないわずかな隙間を縫うように飛んできた。綺麗好きな彼らしい。最後に大きく前足を伸ばすと、沖島の肩に飛び乗る。柔らかな身体の暖かさに、沖島は小さな気の抜けた笑みを漏らした。コクヨウは右前足を伸ばし、美禰の袖を示す。
「なんだい?」
言いながら、沖島は美禰の右袖に手を入れた。
「おっと」
すぐに手を引き抜く。手をぶらぶらと振りながら、肩に乗ってしれっとした顔のコクヨウに爛れた指先を見せつけた。
「酷いね」
恨み言を言ってみても、やはり彼は素知らぬふりをして尻尾をくるりと回す。
沖島は抗議を諦めて、袖床にぽろりと落ちたお守りを目を細めて睨んだ。
紺の生地に金糸で編まれた鳥居の模様の巾着は、中に何かころりとした丸い物が入っているようだった。
ただのお守りではないことは、指の痛みが証明している。沖島がほんの少しだけ顔をしかめる。痛みからではない。調理場を包む湿った気配が一変したからだった。
うちわよりもっと強力な物を持たせていたとは。
沖島は小さなお守りを見下ろす。
血溜まりのなかで、内側から、ぐぐぐと盛り上がるように鳥居が光を増していく。
それは血濡れることなく、それどころか、周囲の血の濃度を薄めていた。生臭い色が抜かれ、鮮やかな緋へと変貌する。
調理場に広がる全ての血痕を否応なく吸い寄せて、汚れを祓うようにかき消していく。沖島や美禰の浴衣の染みまでもを貪欲に飲み込み、最後に佐紀子の腕を一瞬で霞み消した。ころんと指輪だけが残る。
ようやく肩から降りたコクヨウが、お守りを口にくわえて、丁寧に美禰の袖に戻した。
「ありがとう。助かったよ」
沖島が礼を言うと、コクヨウは口を開けて鳴く真似をして、小さな尻を向けた。
沖島はやれやれと頷く。
元通りの美しい浴衣を着た美禰を一瞥し、躊躇いなく肩に乗せて担ぐと、コクヨウの後をついて行った。ついでに電気も消し、静かに店を出る。
湿った風が、まだあたりを包んでいる。
山から吹き下ろしてくる風に、美禰の髪が揺れた。
沖島は低く盛り上がった山を見た。小さな欠片のような月が、ちょうど山の真上で輝いている。
ふいに、奥から頼りだった明かりが消え始めた。
提灯の明かりも落ちる時間だ。沖島は腕時計に目を走らせる。十時。タイミングがいいような、悪いような。
コクヨウは動かずに、石畳の上で提灯の火がぽつぽつと走るように消えていくのを見ている。
沖島も、待っていた。
どの窓の明かりも落ちているし、気まぐれに付き、こちらを観察するような気配はない。誰も彼も、年に一度の奥ゆかしいお祭り騒ぎに疲れ、眠っている。それでも、眠った女を運ぶ男が、下駄を鳴らして歩いているのを見られる心配を無にしておきたかった。
一人と一匹は、碁盤の目に張り巡らされた唯一の明かりが全て落ちるまで、じっと立ち尽くしていた。