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1 祭祀の夜


 そこは、いつも紺碧の夜に包まれている。


 碁盤の目のように張り巡らされている瓦町(かわらまち)は、黒い瓦屋根の長屋がびっしりと並んでいる。軒先にはそれぞれの家の花家紋(はなかもん)が描かれた提灯に火が灯っていて、どの家も窓は大きく、(すだれ)を掛けて家の明かりを外に漏らしていた。

 白い石畳が反射し、町は足下からぼんやりと光っている。


 その上を、沖島(おきしま)はカラコロと下駄を鳴らして歩いていた。


 すれ違う人々は皆透き通るような色白である。まばらに歩く女も子供も老人も一様に、鳥居が描かれたうちわを持っていた。あちらこちらで、鳥居がお辞儀を繰り返す。

 沖島が流れに逆らって気ままに歩いていると、向こうからやってくる女が気づき、ぱっと顔を輝かせた。長い黒髪を結った尾が跳ねる。


「やあやあ、沖島先生じゃないの」


 快活な笑顔に、沖島は手を挙げて笑んだ。袖が垂れる。ついでに腕時計に目を走らせてみれば、時刻は九時を五分ほど過ぎていた。確か、夜のはずだ。

 切りそろえた前髪をぱっぱと弾ませて走ってきた彼女に、沖島は穏やかに話しかけた。


美禰(みね)くん。今日は一人かな」


 どんぐりのような目が瞬き、恨みがましそうに沖島を見上げてくる。


「余計なお世話よう。店長と佐紀子と一緒だったんだけど、祭祀(さいし)の最中にいなくなってね。お店に戻るところなの。先生見てない?」


 聞かれ、顎に手を当てる。ふと髭のそり残しが気になったが、撫でて終えた。


「今出たばかりなんだが、すれ違ったのは秋山の爺と二見の家族と高沢の」

「いい、いい。全員言わなくていいの。っていうことは見てないのね」

「そうなるね」


 沖島ののんびりした答えに、美禰はふと気づいたように足元を見た。


「ところで、スズさんはどうしたの?」

「今日はついてきてくれなくてね」

「じゃあシロさんは?」

「そちらもつれない」

「コクヨウさんも?」

「ああ、素っ気ないったらない」


 美禰は可愛らしい顔でころころと笑った。

 この子は、この町にはとても珍しく、明るくはきはきした子だ。沖島は眉を下げて、眩しい笑顔を振りまく美禰を見下ろした。母親によく似ている。


「まさかみんなを説得していてこんな時間になったなんて言わない?」

「おや。痛いところをついてくる」

「嘘だあ」

「美禰くん、店に戻った後はどうするんだい?」


 沖島が聞くと、美禰は細い首を傾げた。


「うーん、いなかったら諦めて明日の朝出勤するわ」

「よろしい」

「祭祀の夜は魔がよう動く、でしょう? わかってる」

「もし困ったらうちにおいで」

「うん。ありがとう、先生」

「ついでに見ておくよ。さあ、早く行きなさい」


 美禰は頷くと、じゃあ、と手をひらりと振った。一歩進んだかと思うと、豊かな尾を揺らして振り返る。


「先生、せっかくの祭祀にいつも通りの着流しはちょっともったいないわよ。下駄は素敵だけど」

「それは、ありがとう」

「あと、髭! ちゃんと剃らなきゃだめよ。ただでさえ鬱陶しいほど髪が伸びてるんだから。まあ、そっちは結ってるからいいけど」


 無邪気に言う美禰に目を丸くして、沖島は彼女の姿が「茶屋」と書かれた提灯の奥に消えていくのを見送った。


 再び顎に触れる。ジャリッとした感触に、だめか、と沖島は呟いた。




 人々はまだ森から排出されていた。

 森へ近づくと、石畳は緩やかな坂になりはじめる。その向こうから白を基調とした浴衣を着た人々が、白い肌を暗闇に浮かして楽しげにやってくる。


 石灯籠が足下をやんわりと照らす。


 若草色の着物でふらふらと歩く彼に、時折顔見知りの人が和やかに話しかけてきた。会釈を交わす。うなじで無造作にくるりと結った黒髪がそのたびに揺れ、髪が一筋落ちた。汗ばんだ首筋に張り付く。


 今日は暑い。

 沖島は静かに息を整える。


 四六時中夜の闇に抱かれた瓦町の気温は大きく乱れることはない。一年を通して、乾いた風が森から町へ吹き抜ける。雨は月に三度程度。気が向いたときにしとしとと降る。ここは穏やかで静かな町だ。けれどそんな町にも年に一度、熱気がじっとりとやってくる日がある。


 決まって朝からと――いっても、窓の外は薄暗いが――妙に過ごしにくく感じるのだ。朝一番にやかんに火をかけると、じっとりと額や首に汗をかく。髪が燃えないように耳にかけ、コンロから火を貰って煙草を吸う。換気扇に手を伸ばして、ああ、今日は祭祀の日か、と思い当たるのだ。沖島は、換気扇の青い羽根が回るのを見ながら、一日の至福の時間が塗り替えられていくのを感じた。


 祭祀の日は、地から熱波がやってきて町を包む。それは空模様の変わらない夜までも続き、内気で物静かな町の人々にほんの少し興奮を混じらせる。



 沖島はそれぞれと挨拶を交わしながら、石灯籠の感覚が狭まっていく坂を上っていた。(やしろ)が近くなってきている。もちろん、美禰のことも忘れていていなかった。厳密には店長の青井と美禰の友人の佐紀子のことだが。


 大げさなことに発展しないよう、話しのなかに彼らの名前が入っていないか聞き逃さないようにしていただけだが、収穫は得られなかった。


 今頃、美禰は茶屋で、店長と佐紀子とお茶でも飲んでいるんじゃないだろうか。


 沖島は想像する。


 あの、畳のにおいのする小上がりのある茶屋。大きな窓に背を向けて座れる飴色のカウンターの、さらに一番奥の薄暗い席が沖島のお気に入りだった。小さな水差しに、和紙の花が飾られている。立体的な、花びらが六枚もある花は、美禰が折ったんだそうだ。手先が器用だと感心したものだった。沖島が気づいたことに気をよくしたのか、美禰は定期的に花の色を変えた。


 その店内で、美禰が青井と佐紀子に向かって文句を垂れている姿を頭の片隅で思い浮かべる。二人は最近、とても親しげだった。美禰がよく動く店内の中で、ひっそりと視線を合わせて照れくさそうに笑っていた。空気を読まずに三人で祭祀に行こうと誘ってきた美禰を撒いただけだろう。きっとそうに違いない。沖島は、乾いた風に額を撫でられ、汗が引いていくのを感じた。


 社が近くなっている。


 じっとりと湿った気配の中に、細い霊気が漂っていた。その香しい気高き風を吸い込むと、血がぐつぐつと煮えていくように、身体中が歓喜に震える。同時に、頭は冷や水を浴びせられたように冴え渡っていて、冷静だ。


 とうとう沖島とすれ違う人間がいなくなった。

 甚平を着た子供と、その祖母が手を引いて沖島に笑いかけたのが最後だった。


 黒い森の入り口で鎮座する鳥居を見上げる。

 白い石造りの三本鳥居の、一際太い中央の足には、隙間なく注連縄(しめなわ)が巻き付けられている。雷のように切られた紙四手(かみしで)が、白く光って吹き込む風に身体を揺らしていた。

 誰かが傍らに立って、空を見上げている。

 白い装束に身を包んだ小柄な老齢の神主は、沖島に気づくと深々と頭を下げた。


 沖島も丸まった肩を伸ばして居住まいを正し、礼をする。

 神主――筒井は、垂れ下がった瞼の奥で目を細めた。白眉が優しく下がる。鳥居の内側から出てくると、沖島の隣に並んで同じように鳥居を見上げた。


「今年はここまで来れましたか」

「ああ。心臓がばくばくしているよ」


 事も無げに穏やかに言う沖島の横顔を見て、筒井は苦笑する。


「そうとは見えませんが」

「そうかな?」


 沖島は子供のような目で、自分よりも小さな筒井を見た。筒井は大きく頷く。


「そうか。身体はこれでも、煮えたぎっているんだよ。なんて言うのかな、決戦前夜のような、血湧き肉躍るとも言うような、神を前にして震えているんだ」

「本当に?」

「本当だとも」


 沖島は人懐っこく微笑んだ。筒井が呆れたように笑い、頭を掻く。


「あなたはいつまで経ってもよくわかりませんな」

「長い付き合いなのに?」

「だからでしょう」

「そうかもしれないね」


 沖島は軽やかな相づちを打ち、夜空に浮かぶ小さな小さな月を見た。手を伸ばせば、爪先であっという間に引っかいて消し去れそうなほど心許ない光は、果たして本当にこの地上まで届いているのだろうか。軒先で照らす提灯の方が、何倍も強く、生気に溢れている。


 筒井がほんの少し身じろいだのに気づき、沖島は視線を下げた。垂れた瞼の奥の真剣な眼差しが、少し急いているように見えた。いつも凪いだように物静かな男にしては、なんとも珍しい。沖島は首を傾げる。

 筒井は、眉をほんの少し動かした。

 それだけで、沖島は彼がこの状況に緊張していることを感じとった。


「どうした」

「奥座敷の壷が一つ、失せていました」

「色は」

「藍」


 筒井は短く答える。

 沖島のぼんやりとした狐目に、鋭い光が灯った。


「それはいつ」

「今年の巫女が、奉納の舞を舞った後です」

「ということは」

「ええ、先ほどです。舞台の片づけをしておりましたら、あの掛け軸が傾いていることに気づいたのです。人払いをして確かめてみれば、奥座敷へ続く廊下に、うっすらと跡が」


 筒井はそれ以上言葉にしなかった。唸るように息を吐き、伸びていた背を丸める。


「申し訳ない」


 謝罪を述べる老人に、沖島は柔和な顔を取り戻すと、軽く肩を叩いた。そのままさする。こんな日だというのに、驚くほど身体が冷えていた。肩は氷を張ったように冷たく、力が籠もっている。仕方のないことだ。沖島は彼の職務怠慢を責めるつもりは毛頭なかった。過ぎたことに文句を挟んで責め立てるなど、そんな無用なことに時間を割きたくはない。


 沖島は顎に触れた。剃り残した髭が指先に刺さる。


「なるほど、失せたと。それは困ったね」


 あまりにも暢気な声に、筒井は拍子抜けした顔で沖島を見上げた。その顔に、にこりと微笑みを返す。


「ならば私の出番では?」


 灰がかった目が見開き、ほっとしたように和らいだ。


「ええ。ええ、そうですな」

「だろう」

「沖島先生」


 沖島は懇願するような筒井に、にこやかに笑みを返す。彼は安堵のあまりにかすかに震え、頭を軽く下げた。


「どうか壷を探していただけませんか」


 沖島は黒い前髪の奥で目をさらに細め、鷹揚と頷いた。


「もちろん引き受けよう。失せ物探しは私の仕事だからね」


 筒井はようやく気力を取り戻したように、背を正した。


「お願い致します」

「こちらこそ、仕事をありがとう」


 頼りなさげな声でのんびりと返した沖島を、やはりどこか物珍しそうに見て、筒井はふらりと去っていく沖島をただ立ち尽くして見送った。



 理解できない人間を見る目だった。

 坂を下りながら、沖島は彼の目が幼い頃と変わらないことを懐かしんでいた。昔からああやって、ある意味感情をストレートに見せてくれる。


 祭祀の日になると、決まって彼は自分の周りに現れた。白い袴を着て、ふうふうと荒い息をしながら、祭祀の準備を手伝っていた。長屋の一軒一軒に可愛らしい声で声をかけ、人々を家から社へと誘う。彼はいつも、鳥居の描かれた提灯を持っている。そして、道半ばで立ち尽くす沖島を照らし、不思議そうに見上げるのだ。


 どうして祭祀に来ないの?


 そう言わずとも発している、あのまん丸の目が懐かしい。

 もう瞼は垂れ下がり、髪も眉も白くなっているというのに、変わりない。




 ふと、沖島は石灯籠の火が等間隔で消えているのに気づいた。最初は三つおきに。それからしばらく下りると一つおきになる。そして、入り口で燃えていたはずの松明の火までもが消えているのが見えた。


読んでいただき、ありがとうございます。

前に完結したものなので、少し手直しをしながらコツコツ更新予定です。

少しの間ですが、よろしくお願いします。


この(夜しか来ない町)という設定などを異世界恋愛に持っていったのが「休憩のお時間です」ですが、話としては全く違うものとなっています。

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