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第2話 Temperatur in der Hand

 暗闇の中、慣れ親しんだ体温と、心地の良い浮遊感に包まれる。

 ヴィルに抱えあげられ、運ばれているのだろうか。


「コンラート兄さん、しっかりして……!」


 アリッサの泣き声が聞こえる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……ッ! もう、あんな酷いこと言わないから……!」


 続いて、エルンストの声も聞こえた。


「落ち着いて姉さん! 今は寝かせてあげよう……?」


 身体は動かず、意識も次第に奥底へと沈んでいく。

 小さく「大丈夫」と囁くヴィルの声音が、何より心強かった。




 ***




 微睡(まどろ)みの淵で、愛しい声を聞いた。

 私の髪を撫で、頬を撫で、手を握り……男は、独り言のように告解を繰り返す。


「……神父様」


「何だろ。ここには……昔とは違う、優しい空気があるんです」


「なんか、調子狂うんすよね。オレ、そんな信頼されて良いのかなぁとか……考えなくていいことばっか考えちまうし。……平和すぎて、よく分かんねぇ不安も出てきちまうし」


「あの時……正直、妹さんじゃなきゃ殴り飛ばしてたかもっす。……オレ、ホントはそういう野郎なんで」


「……アンタを閉じ込めて独り占めしたい気持ちも、動けないようにして自分だけのモノにしちまいたい気持ちも、結構あったりするんすよ」


「でも、別の気持ちも強くってさ」


「オレ……アンタに、笑ってて欲しいんだ」


 ヴィルの愛欲が常軌(じょうき)を逸していることなど、とうに理解していた。

 ……むしろ、そうでもなければあの状況で私を支え続けたりはしまい。


 意識が緩やかに浮上する。

 まぶたの隙間から、ランプの灯りが差し込んでくる。


「ん……」


 重いまぶたをどうにかこじ開け、身じろいだ。


「お、よく寝れたっすか?」


 ヴィルは私に声をかけ、優しく髪を撫でてくれる。


「アリッサちゃん達、心配してましたよ」

「……そうか。済まない、面倒な役割を任せてしまったな」

「良いっすよ、そんなの。今更じゃないですか」


 起き上がり、ヴィルの方を見る。

 すっかり夜も更けているが、暗がりでもその表情はよく見えた。


「どうした? 浮かない顔だが」


 夢うつつの中で、私はヴィルの告白を聞いた。

 ……あれは、夢ではなかったのだろうか。


「……ここに来て、一気に落ち着きましたね。そろそろ、オレが(まも)らなくても大丈夫かも?」


 冗談めかして笑うが、その瞳は笑っていない。

 ぎらりと獣めいた輝きが、今にも泣き出しそうな瞳の奥底に宿っている。


「……おまえが私への執着を手放そうとするなど、珍しいこともあるものだ」

「オレは神父様のこと愛してます。……だけど、オレは……神父様よりずっと、『罪深い』男です」


 瑪瑙(めのう)の瞳が(きら)めく。獣めいたぎらぎらとした輝きだけではなく、汚濁(おだく)に染まりきらなかった純朴な光が、葛藤に揺れている。


「オレ、死にかけた神父様に酷いことしたじゃないすか」

「……ああ……言わねば気付かなかっただろうに、馬鹿正直に申告していたな」


 その件に関しては、思うところがない訳でもない。

 不快感が一切ないといえば嘘になるが……愛する者を目の前で失えば、誰しも平静ではいられまい。


「そりゃそうです。黙ってたらそれこそ、嘘ついてるみたいでキツかったと思うし……」

「愚か者。私とて知りたくなかったと言うに」


 隠し切ってくれた方が良かったと、思ったこともある。

 それでも、包み隠さず話したことが彼の誠意でもあるのだろう。


 はぁ、と溜め息を吐く。仕方がないので、私から寝台に押し倒した。

 珍しいことだが、今、弱っているのはヴィルの方らしい。……今度は、私が手を差し伸べる番だ。


「……神父様?」

「……ああ、そうだ。貴様が私を『こう』したのだ。責任を取れ」


 赤い光を、瑪瑙が映す。

 浅黒い首筋に牙を立て、軽く血を(すす)った。

 (ほの)かな鉄の臭いが周囲に漂い、慣れ親しんだ味が口腔内に広がる。


 (かて)が欲しいわけではない。

 私たちにとっての吸血は、「食事」のみを意味するわけではない。


「オレのこと、抱きたいんすか? 別にソッチでも良いっすけど……」

「……あれほどの快楽を知ってしまっては、わざわざ抱く側に回りたいと思えるものか」


 ヴィルとて、本来はそうだろう。

 抱かれても良いとは言うが、「もし私が望むなら」という仮定の話だ。

 私を見つめる表情は紛れもなく、(めす)を目の前にした(おす)だった。


「……! ち、挑発しねぇでください」


 下腹部が(うず)く。

 ヴィルの吐息が荒く乱れるが、事実だ。

 私はもう、戻れない。


「……オレから逃げるんなら、今っすよ。神父様」


 執着の炎を瞳に滾らせながら、彼はいじらしくも私の手を離そうとする。

 私を救い、堕とした手を、どうにか……


「……そこまで愚かだったとはな」


 分かっている。本当は、ここで私も手を離すべきなのだと。……それが、正しい道なのだと。

 あれほど迷わなかったヴィルがようやく、過ちを正す選択を視野に入れた。本来であれば、喜ばしい心境の変化だ。

 私が「神父」であるのなら、……正しく、神に仕える身であるのなら。


 悔い改める道を、指し示すべきなのだ。


「構わない」


 ああ、けれど。


「……私を逃がすな」


 執着してくれて構わない。

 縛ってくれて構わない。

 多少強引でも構うものか。


 私を……

 過去を捨てられない私を、

 未だ葛藤から逃れられない私を、

 捕らえていい。囚えてもいい。……離さないでいてくれ。


「好きです、神父様」


 真っ直ぐな愛の言葉が、胸を貫く。


「……そうか」

「神父様はどうなんすか」


 ヴィルは今まで、愛をぶつけはするが愛を求めたことなどほとんどなかった。

 むしろ、テオドーロに大して「神父様はオレのことを好きじゃない」……とまで言っている。

 そんなヴィルが、明確に私の想いを尋ねた。


「……私は……」


 胸元のロザリオを握り締める。


「……ッ」


 好きだ、と。

 その一言が言えるのなら、どれほど幸福なことだろう。


「変わらない、ではないか。女を愛そうが、男を愛そうが、何も……」


 神学の道へと(おもむ)く前、私は一人の女性に恋をした。

 淡い恋愛感情であり、叶わぬ恋だった。

 その感情と、今の感情に、どれほどの違いがあるというのだろう。

 ……むしろ、今の方が……


「……主よ、お赦しください……」


 あと一歩を、踏み出すことができない。

「それ」を口に出してしまえば、私は明確に神に背いたことに……いいや、とっくに背いて……


 思考がぐるぐると渦巻き、まとまらない。

 ヴィルに口付けられ、彼の腕に全てを委ねた。

 分厚い舌が私の唇をこじ開ける。ヴィルが身体を起こし、ベッドに座るような形で私を抱き締める。

 唇を離し、見つめあった。


「……抱いてくれ、ヴィル。今は、すべてを忘れたい」


 熱い吐息を交わし、ヴィルの膝にまたがる。

 荒い吐息が甘い喘ぎに変わった頃、ベッドの周囲に脱ぎ捨てた服が散らばった。


「神父様……っ、愛してる……!」


 そうしてまた、ヴィルは愛の言葉をぶつけてくる。

 彼はきっと、私からの愛が返ってくることを元から期待していなかった。

 ……いいや、むしろ、私から愛されることを恐れてさえいたのだろう。


 ヴィルは能天気に見えるが、自らの価値を不当なほど低く見積もっている。

 私に愛されること、私がヴィルに振り向くことは、おそらく、彼の中では天地がひっくり返るほどの衝撃なのだ。


 愛されていないと思いながら尽くし、今後も愛されないという予測のもとに一方的に愛を注ぎ、その上で快楽を刻み付けて自らの元に縛り付ける。……そんな歪んだ形でしか、私達の関係を認識できなかったのだろう。


 ……私とヴィルに、もはや上下関係など存在しない。

 ヴィルが罪人だというのなら、私とて、今はただの罪人だ。


「ヴィル。……今は、まだ……答えを、出せない」


 彼の手に私の手を重ね、伝える。


「……だから……その、だな。……待っていて、欲しい……」


 私の魂はまだ、「神父」であった頃に囚われている。

 心は既に傾いているが、理性がそれを認めたがらない。


 兄上のことや、アリッサのことが頭に過ぎる。

 道ならぬ恋を認めるには、飲み込まなくてはならない懸念(けねん)があまりに多い。


 分かっている。

 いずれは、認めざるを得ない時が来る。

 ……だが、今は「その時」ではない。


「……分かりました。先に子ども仕込んでいいすか」


 何を分かったのかよく分からないが、ヴィルは真剣な顔で私の下腹部に手をやった。


「……つか……もう、ココ……()()んじゃないすか」


 そうして、腹の傷痕より更に下……女性であれば、ちょうど子宮のある場所を撫でさする。


「……私は男だ。例えおまえの子を産みたくとも、叶うことはない」

「……え、マジで産みたいんすか」

「例えばの話だ愚か者ッ!」


 …………というより、本気で言っているわけではなかったのか。そうか……。

 私とて、産めるものなら産みたいと……。……ああ、全く。何を考えているのだ。本当に。


「返事、いつまでも待ってます。でも……どんな答えになっても、もう逃がさねぇんで」

「ああ。……それで良い」


 どちらからともなく指と指を絡め、唇を重ねる。

 私はこの()に及んでも、「正しさ」を諦められず、懊悩(おうのう)と葛藤から逃れられない。


 ならば。

 強引で良い。(さら)ってくれ。おまえの手で、すべてを忘れられる場所に──


 私を、堕としてくれないか。




 ***




 翌日。

 昼食の時間になってから、またアリッサやエルンストと顔を合わせた。


「もっと寝ててもいいのに。日が照ってるうちはきついんじゃないの?」


 アリッサが心配そうに尋ねてくる。……昨日のことを気にしているのか、その表情はどことなく暗い。

「大丈夫だ」と伝えて食卓に座ると、エルンストがライ麦パンを持ってきてくれた。


「大丈夫ならいいけど……。あ、そういえば、エルンストは今日イルゼさんに会うのよね?」

「そうそう。どんな服着ていったら良いかな?」


 イルゼというのは、エルンストの婚約者の名だ。

 兄上の元恋人で、私達きょうだいともそれなりに馴染みが深い。私よりも少し歳上であるため、エルンストとはそれなりに歳の差があるが……いつの間にやら、婚約する運びとなっていた。


「そこら辺、難しそうよね。あの人、恋愛には慣れてるだろうから……。昔、ギルベルト兄さんともコンラート兄さんとも付き合ってたぐらいだし」

「むぐっ!?」


 アリッサのセリフに、盛大にむせる。

 喉に詰めたパンを牛乳で流し込んでいると、エルンストがさらに追い討ちをかけてくる。


「だからイルゼさんを選んだんだよ。二人ともに抱かれてるなんて、素敵でしょ?」

「……へぇ」


 ヴィルの視線が痛いが、違うのだ。

 確かに私が初めて恋した相手はイルゼだった。誘われ……いや、襲われ……。……それなりに強引に押し倒されたこともあるが、エルンスト達の言い方には語弊がありすぎる。


「ご、誤解だエルンスト……! 私はその、イルゼと恋仲だったわけでは……!」

「あれ? イルゼさん、コンラート兄さんが西に行く前にたらしこんだって言ってたよ? 真面目そうで可愛いから遊んであげたくなったって……」

「あー、あの人ならやりそう。っていうか、コンラート兄さんなら抱くっていうより抱かれてそう」

「どういう意味だアリッサ……!?」


 アリッサの観察眼が妙に鋭く、背筋に冷や汗が流れる。

 兄上は恋愛に対していささか奔放だった節があり、その兄上と付き合いの長いイルゼにも同じ傾向があったのは事実だ。

 だが、私は片想いの果てに諦める道を選んだ。兄上のことや、神学を志したのも理由の一つではあるが、正直なところ彼女に襲われたのが怖かっ……いや何でもない。


「それで、実際どうなんすか。食われたんすか」

「貴様は黙っていろ……!」


 ヴィルが真剣な顔で口を挟んでくるが、過去の話だ。あまり気にしないでもらいたい。


「僕、気付いたんだ。イルゼさんを抱くのは、間接的に兄さん二人を抱いてるってことになるんじゃないかなって……あっ、言っちゃった……!」


 頬をぽっと朱色に染め、エルンストは顔を両手で押さえる。

 本当に、色々と大丈夫なのかこいつは。ここまで来ると、さすがに心配になってくるのだが。


「これで姉さんも抱くか抱かれるかしてたら完璧だったのに……」

「エルンスト。あたし、最近あんたのことがわかんなくなってきた」

「やだなぁ。全部冗談だってば」

「ほんとに……?」


 アリッサが、心底引いた目でエルンストから距離を置く。

 ……兄として、ここはどうするべきなのだろうか。見守るべき……なのか……?


「あ、そうだ! イルゼさんで思い出した」

「……何を?」


 アリッサに促され、エルンストは牛乳を一口飲んでから話し始める。……よし、焦らずひと呼吸おいて話すようになったか。

 心配な部分も多々あるが、彼も成長を重ねているのは間違いない。


「ちょっと前に聞いた話なんだけど……ここから少し歩いたところに廃坑(はいこう)があって、ギルベルト兄さんがよく通ってたんだって」


 廃坑。本来であれば、通うような場所ではない。

 ……つまり……。


「……『吸血鬼』としてか」

「うん。元々鉱山だから、泉の水質とかが身体に合うのかも? ほら、鉄分とか……」


 水質によっては、吸血衝動を多少なりとも抑えられる可能性はある。もしそうであれば、今後の生活に対する懸念も少しはマシになるだろう。


「おっ、良いじゃん。今夜あたり見に行きましょ、神父様」


 ヴィルの言葉に頷き、同意した。


「そうだな。なるべく夜が更けてからの方が良かろう」

「人目についたら面倒っすもんね」


 私達が話している横で、アリッサも真面目な表情で何事か考え込んでいる。

 エルンストの方はというと、楽しそうに食事を続けていた。


「お弁当いる? 僕、作るよ!」

「エルンスト、ピクニックじゃないんだから……」

「でも、お腹は減るでしょ? イルゼさんに会いに行く前に、ササッと作っておくね!」


 アリッサにたしなめられながらも、エルンストは嬉しそうにキッチンの方に向かう。……よほど、家族がそばにいるのが嬉しいのだろう。


「コンラート兄さん、まだ玉ねぎのピクルス嫌い?」

「……も、もう問題なく食える。任せろ」

「別に、無理しなくていいのに……」


 エルンストの愛情は少々拗れているものの、家族を想っていることに間違いはない。

 ……まあ、時折行き過ぎた面があるのは事実だが、彼は彼なりに世渡りの技術を身につけ、家族のことも助けようとしている。


 アリッサもエルンストも、困難な道を懸命に歩み、前に進んでいる。

 もうこれ以上……彼らから、何かが奪われるようなことはあってはならない。私も、自分にできる限りのことをしなければ。


 しかし、廃坑に向かうとなると危険もそれなりにある。

 夜までに、準備をしておかねばな……

「手にした温もり」

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