あの家、あの時、あの静寂。
古い家の記憶。
そんなものが多くの人の記憶にはあるだろう。
それは、今はもうない祖父母の家だったり、引っ越す前に住んでいた団地だったり、建て替える前の実家だったり。
セピア色のフィルターがかかった記憶。
古い映画を見るような静けさ。
そこに確かにあったのに、掴みどころのない記憶。
その静寂の中には、どうしても説明のつかないものが潜んでいる。
あれは幼い頃、親の帰りを待つ中で兄弟と家の中でかくれんぼをしていた時の事だ。
そんな遊びをする事など度々あったし、別に珍しい事ではなかった。
けれどそのありふれた日常の一部に過ぎないそれは、他の記憶がおぼろげなのに今でも鮮明に覚えている。
俺には兄と弟がいて、両親は共働きだった。
当時にしては珍しかったと思う。
それぞれ遊びに行って家に帰ってきて、母が戻るその少しの時間。
俺達は大抵はテレビを見て過ごした。
その時間帯は昔のアニメの再放送なんかが多くて、それを見ていたのだ。
だがその日、大きな災害か事故か事件か何かがあって、アニメの再放送が中止されてどこもニュースをやっていたのだ。
つまらなくなった俺達はなんとなくでかくれんぼをする事になった。
俺が鬼で、キッチンというより台所という言葉がしっくりくる部屋から数を数えて探しに出た。
木のビーズがいっぱい連なった暖簾みたいな物をくぐると、独特の音を立てる。
さて、まずは風呂場だ。
それから2階の子供部屋。
客間は物が少ないから隠れにくいが確認する。
両親の部屋は……普段は入ってはいけないと言われているが、一応こっそり確認する。
妙な罪悪感と隠れているかもしれないから仕方ないと言い訳して中を覗いた。
いない??
どこを探してもいない。
そんな広い家でもない。
隠れる場所なんか決まりきってる。
なのにいない。
しん……と静まり返る家の中。
急によく知っているその家が不気味なもののように感じる。
その時、何かが視界を掠めた。
階段下を何かの影が横切った気がしたのだ。
なんだ、そういう事か……。
俺はホッとして階段を駆け下りた。
おそらく隠れながら、こちらの動きを見て移動しているのだ。
「オイ!!動くのは卑怯だぞ!!」
そう言いながら、また一階部分を小走りに全部確認する。
「…………オイ?兄ちゃん??ヒロ??」
しかし、1階には誰もいない。
さっき影を見たのだからどちらかは下にいるはずだ。
2階に上がるには階段を登らなければならない。
何の音もさせずに登るには、かなりゆっくり登らなければならない。
そんなに馬鹿でかい家ではないのだ。
ゆっくり登っていればすぐに見つけられるはずだ。
暗くなり、つけられている廊下の電気が薄ぼんやりしている。
そこにあるにじり上がってくるような静寂に急に気づく。
「……兄ちゃん?!ヒロ!!」
思わず叫んだ。
返事はない。
「降参!!降参するから出てこいよ!!兄ちゃん!!ヒロ!!」
そう叫んで必死に探す。
けれど見つかるのは暗がりと静寂ばかり。
「兄ちゃん!!ヒロ!!」
俺は半泣きになっていた。
窓の外は暗く、何がいるのかわからない。
安全なはずの家の中は無音で、自分以外に音を立てるものがない。
恐ろしくなって体が強張った。
その時、独特な音がした。
台所と廊下を隔てる、あの木のビーズのカーテンが揺れる音。
その音に弾かれたように体が動く。
「兄ちゃん!!ヒロ!!」
目の前のビーズカーテンが、今誰か通った事を示すように揺れていた。
ほっと心が緩み、そのカーテンを潜ろうとした時だった。
「うわっ!!」
突然、何かが勢い良く俺の腕を引っ張った。
つんのめりそうになって振り返ると、さっと影が階段下の廊下を曲がった。
ドッドッドッと打ち鳴る心音。
それと同時に安心と苛立ちが浮かんだ。
脅かしやがって……!!
兄ちゃんだな?!
ヒロはそこまで頭が回る訳がない。
俺は台所を背にして走り出し、とっ捕まえてやろうと角を曲がった。
「わっ!!」
「うわっ?!」
そしてそこで兄達にぶつかった。
俺は頭にきて怒鳴りつけた。
「何やってんだよ!!探したし呼んだのに!!」
「お、お兄ちゃん!!」
そう怒鳴った俺を無視して、ヒロが半泣きで飛びついてきた。
よく見れば兄も変な強張った顔をしている。
「兄ちゃん??」
「良かった……お前も無事で……。」
「……え??」
言葉が続かない。
しん……と静寂が落ちる。
俺達は誰からともなく身を寄せ合った。
普段は手なんか繋がないのに、抱き合うように互いの手をぎゅっと握った。
誰も何も言わない。
それだけ家の中が異様だったからだ。
ずっと生活していたはずの家が、まるで知らない顔をしていた。
普段、気にせず暮らしていた家と、今いる家が同じものなのかよくわからない。
俺と兄の間で、ヒロがグズグズ泣いている。
その掠れた音だけが無機質な静寂の中に響いていた。
どれぐらい時間がたったのだろう?
静けさの中に、ガチャっと金音がした。
鍵の回る音。
俺達ははっと顔を上げた。
「ただいま〜!お腹空いたでしょ?何か食べた?!」
そこに響く、少し疲れた脳天気ないつもの声。
俺達は弾かれたように我先に玄関に走り寄った。
「お母さん!!」
「お母さん!!お母さん!!」
「あらやだ?!どうしたの?!え?!何?!」
俺達のただならぬ様子に、母はぽかんとしている。
買い物袋のビニールから手を離し、本格的に泣き出したヒロを抱きかかえる。
「……あんたたち、また変な怖いテレビ見てたんでしょ?!」
呆れたようにそう言った母に、俺も兄も何も言わなかった。
ただ、そこに母がいる事、それだけが全てだった。
その晩は俺達は母や遅れて帰ってきた父の側を離れようとはせず、二人を苦笑させた。
あれから、あの家で変な事は起こらなかった。
少なくとも俺の記憶では特に何もなかった。
異様だったのはあの時だけ。
アレだって、異様だと感じたのは妙に入れ違った俺達の勘違いだったのかもしれない。
長年、あの日の事は誰も口にしなかったが、いい大人になって顔を合わせ、酒の勢いもあってぽろりとその話になった。
「……でもさ〜、腕を引っ張ったんなら、何でその後隠れたんだよ??すぐ合流できたから良かったけどさ〜。」
当時を思い出し、俺は笑いながら愚痴った。
それに兄と弟は顔を見合わせて眉を顰めた。
「……何、言ってんだ?お前??」
「え??」
「俺達はさ〜、全然ちい兄が探しに来なくて、逆に探してんのに見つからなくてさぁ〜。」
「探してたってか、お前は洗濯機横で泣いてただけだろ……。」
「洗濯機横?!いなかっただろ?!俺見たぞ?!」
なんだが話が噛み合わない。
そこで俺達は酒の勢いもあってその時の事を書き留めながら状況を整理した。
ヒロは風呂場に隠れようとしたらしい。
風呂場のガラス戸を開けようとしたら、誰かに腕を引っ張られ、尻もちをついた。
兄だと思って文句を言おうと振り向いたが誰もいなくて怖くなってそのまま洗濯機横で固まっていたと。
兄は2階の両親の部屋に隠れようとした。
ここなら入ってはいけないと言われているから、なかなか見つけられないだろうと思ったらしい。
だが、両親の部屋に入ろうとしたら何かが視界を掠めた。
俺が勝手に探し始めたのだと思って、今、両親の部屋のドアを開けたら見つかると思い、慌てて開いていた子供部屋の中に転がり込んで本棚の影に隠れたらしい。
しかしいつまでたっても探しに来ない。
動く影を見たのだからすぐにでも入ってきそうなのにと不思議に思って廊下に出たが誰もいない。
それどころか、誰かが探している気配すらない。
不思議に思って1階に降りるが誰もいない。
洗濯場の前を通りかかった時、誰かにドンッと押され、倒れ込んだ。
俺のイタズラだと思って怒鳴りつけたが誰もいない。
えっと寒気がしたが、そこで泣いている弟を見つけて、これは何かがおかしいと二人で俺を探し始めたのだと。
「……え?!じゃあ、台所に入ろうとしたら俺を引っ張ったのは?!」
「知らない。俺はだい兄と一緒にいたし、ちい兄に会ったのはその後だし。」
あっけらかんと言った弟をよそに、俺と兄は顔を見合わせた。
そして兄は書き留めていた紙を乱暴につかむと、ぐるぐると丸めてゴミ箱に投げた。
俺も弟も酔った頭でそれを見送り、何も言わなかった。
そして三人三様、自分のグラスの酒を一気に煽った。
あの家であの時、何が起きていたのかはわからない。
ただ、ひとりぼっちで最も安心できるはずの家の中がまるで知らないもののようになり、痛いくらいの静寂が満ちていたのを覚えている。
そして……それを誘ったものなのか……俺達を助けてくれたものなのか……。
あの家、あの時、あの静寂の中に、俺達の他に何かいた事は確かだ。
それについて、俺達は二度と話さなかった。
怖いからとか子供じみてるからとか、そういう理由ではない。
話さないほうがいいのだと、警告じみた何かを感じたからだ。
それが危機感なのか恐怖なのかと聞かれるとよくわからない。
ただ、話しては駄目だと、引き寄せるからと、そう理由なく理解していた。
だいいち、あの家はもうない。
俺が高校生になる時、両親が家を建て直したのだ。
あの台所と言う言葉がぴったりだった場所はキッチンダイニングになったし、廊下を照らす明かりもくすんだ色などしていない。
音が鳴りやすかった階段も緩やかで手すりのあるモダンなものになった。
和室が多かった部屋もほとんど洋室だし、両親の部屋には今は立派なベッドがある。
前の家の事は、思い出の中でおぼろげだ。
それでも、あの日の事だけははっきりと覚えている。




