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軽やかに翔べ

作者: stepano

三十年間の究極の目的は一体何だったのか?

その夏、最高峰の富士登山に挑戦し己のその正体を見極めようとした。



「軽やかに翔べ」



 そのときはまだ頂上を極めるつもりでいた。立ち込める夕闇が山麓にこだまするかのように低く唸り声を響かせ賑わう五合目の広場を覆っていた。

 三十年勤めた会社を辞め、あてどもなく職のない生活を半年近くも費やしていると脳髄がふやけ体の隅々に五感の腐蝕された血流が回り始めていた。体勢を立て直す戦力もなく、ただ無味乾燥だった己と会社に対する奴隷的な依存関係を暫く回顧し直そうとしているうちに時間は流れてしまったわけである。

 何度となく経験してきた挫折をその度ごとに後から追いかけ、そして新たに挑もうとする構図はいかにも飽きっぽい己の正体を象徴してきた。それは飾りだけがあって土台となる礎がなかった。風が吹けば一輪ずつその飾りは散って、終いにはその土壌すら廃墟と化した。三十年という月日をただ飾りだけを大切にし、それを目指し、それを獲得しょうとした己の人生にとにかく終止符を打ちたかった。飾りとは即ち名誉だった。

「親父、雨だよ。リュック濡れるよ」

 息子は手際よく大きなナイロン袋を取り出しながら自分のリュックにそれを被せている。周りにはツアーに参加した一号車の面々が様々な格好をして集合している。今回のこの富士登山ツアーに初めて息子と参加したのだが他の参加者を見るとほんんどが夫婦連れか若い女性のグループだった。ただ一組だけ年配の女性が小学生らしき男の子を連れて参加していた。

 霧のような靄に包また五合目の広場のあちこちで各ツアー会社の添乗員がグループごとに出発に先立ち点呼を始め、誘導する強力を紹介している。一緒に出発したはずの二号車の連中はどこに行ったのだろうか。雨粒を頬に受けながらふと思った。少なくともこの周りにはいない。

 我々を案内してくれるという強力は眼の鋭い真っ黒な顔をした四十がらみの山男で登山靴を履かずに地下足袋姿だった。我々を引率する一号車の添乗員は息子と同じくらいの年恰好で今春、大学を卒業したばかりの風貌と面影を漂わせていた。添乗員の名前は浜田といった。黒い熊のようなその強力が添乗員のことを浜ちゃんと呼び、添乗員はその強力を山ちゃんと呼んでいた。小雨に打たれながら、皆は真剣に山ちゃんの説明に聞き入った。依然と二号車の連中の顔が見えないのが気になったが恐らく浜田添乗員には何らかの連絡が入っていたのだろう。彼の表情からその雰囲気が読み取れそうだ。このまま遅れている二号車の連中を放って置いて出発しそうだ。説明を聞いていた皆から最初は笑い声が洩れていたが次第に熱気が立ち込め、辺りはいよいよ気負い込んだそれぞれの緊迫感がみなぎり始めている。

 十八時半、一号車の一行四十五名は降りしきる雨のなか山梨県側の富士五合目登山口から今夜の仮眠場所となる八合目山小屋に向って歩き始めた。

 退職後の夏、しかも初めての富士登山。この半年間のあいだ仕事にも就かずただ己自身が飾り立てた三十年間の偶像を払い切る意味においても今回の挑戦は最初の一歩なのである。三十年間の究極の結晶を本当は金筋二本の赤帽で飾りたかったわけだがここに来るとそんな最高位は何の値打ちにも見えないかもしれない。しかし結果、退職そのものが暗黙の肩叩きだったと置き換えて考えるならば陰鬱な屈辱が燻りつづけるのである。目指した飾りは三十年間常に己の心の神棚に祭ってあり、ただ手だけを合わせていればよかった。それが予期もしない突然の破局を迎えることになったのである。にたき森がそのものが息子と初めて極める最高峰の頂きで仰ぐご来光こそ一生に得がたい勲章となるのではないか。とにかく最初はそう思った。

 ここにはうだるような灼熱は既にない。連日三十五度を上回る猛暑もなければ喧騒な蝉時雨も聞こえない。都会とはまるで別世界の大地だ。失業中の重みも果せなかった名誉も静かな暗闇に降る雨足に流れいく。平坦な泥道はつづき、飛び交う周りの冗談や笑い声が濡れ渡っていく全身にかえって何となく心地よい。毎晩、ビールで喉を潤し一時だけの快感に浸る己の虚像が鮮烈に読み取れそうな気がした。おかげで運動不足の塊りは呼吸を圧迫し腹のせりだした中年太りを形成し、最早腕立て伏せすらろくに出来ない堕落者と化してしまった。最初、息子が富士山に登りたいと言い出したとき、正直言って一緒に登るのは到底無理だと思った。家人もその腹ではねと嘲笑して受けつけなかった。第一、登山なんてもう十五年ほどやってなかったし、普段この運動不足の塊りにいきなりの最高峰の挑戦は年齢的にも過激すぎた。

 確かにひとつのこだわりがあった。それは三十年間、飾りを大切にした己自身の軌跡である。大切にしたのは果たして飾りではなく飾りを目指す己の眺望ではなかったのだろうか。こだわりつづけるのは偽善的なその己の本心を徹底的に砕き切りその確信を得ることに他ならないと思いつづけるからではないか。それを今、別のかたちで獲得しようとしているのだ。                  

「はーい。散歩はここでお終い」           

 先頭を歩く山ちゃんの甲高い声が聞こえてきた。雨音に混じって次々と皆の影が止まり連鎖するように和らいだひと呼吸が流れる。

「ここからいよいよ登山道に入りまーす。暗いのでライトを準備して下さーい」

 周りの皆がめいめいに灯りを取り出す準備に取りかかる。傍にいた息子は素早くヘッドライトを取り付けた。雨の線がくっきりと照らし出される。大分登ったのかと思っていたが、とんだ勘違いだった。何しろ暗闇と降りしきる雨に打たれて早くも困憊の兆しが噴きつつあるのだろうか。嫌な予感が走る。重く濡れたリュックからヘッドライトを取り出しながら、出発前に濡れないようリュックにカバーを掛けなかったことを後悔した。息子はその点、抜け目のない方策を講じていたことに気づく。

「行くよー。浜ちゃーん、いいかぁー」

 山ちゃんは最後尾に付いている浜田添乗員に向かって叫び、それから皆に号令をかけた。

「しゅっぱーっ」

 頭上の灯りが各々左右上下に交錯し、一団となった黒い影が眼の前に拡がる闇のなかの急斜面に向かって動き始めた。雨の音が一段と目立って耳を覆い、それまでの周りの皆のざわめきが遠くに消えた。同時に再び嫌な予感が脳裏をかすめ、その慄きとの闘いがたった今から始まることを覚悟した。

仕事もなく六ヶ月のあいだ敗北者のように過ぎ去った三十年間の上前だけ眺めていると萎えた悔恨の裏側にまるで不燃焼の煙のような影を発見するのである。それが同じ登山でしかも入社したその夏、生まれて初めての白馬岳登頂にあえなく挫折した苦い思い出なのである。それが消すに消せない汚点となって無意識に棲みつき、常に目指す飾りの偽りと自失の念の根幹を形成したものと錯誤せざるを得なかった。退職した今、奇しくも同じ夏、登る山こそ違えど起こしている行動が異様にして巡りくる現実。まさしく予感とはその心細いばかりの慄きであった。

 照らす足元に岩肌を縫って流れる雨の筋が幾重にもなって浮かび上がる。息遣いが既に荒くなっていよいよ運動不足の心臓に強烈な警鐘となって脈づく。それは登山道とは凡そ似つかずまるで岩石の泥濘んだ闇を渡っていく沢登りを連想させた。いつかは襲ってくるはずのその慄きを覚悟しながら今はただ少しずつ前へ進むしかなかった。三十年前のしこりは執念にも燻りつづけ己の魂の忘れかけた部分で確かにその出番を待っているかのように思えた。

 ふと気づくと前を登る小さな影がある。身にまとった小さな合羽が小刻みに黙々と動いているのだ。一瞬の差別と認知とが同時に屈辱として胸を貫いたがその確かな足取りに次第に感服した。参加中、たったひとりのあの小学生の姿だったのだ。付き添いの年配の女性はどう見ても母親ではない。年齢が離れ過ぎる。孫にあたると考えるのがどうやら妥当なようだが、それにしてもその初老の女性には健脚を漂わせる華奢ながらも特有の妖麗さが滲んでいた。登山歴のある貫禄がまさしくその孫を包み込み温かい励ましをかけているかのように見える。初老の女は絶えず小さな影に声をかけ、雨に打たれながら進むその小さな合羽の頭がその都度うん、うんとうなづく。周りを闇と雨に遮断され今や己の喘ぐ吐息だけに支配されていたとき、そのうなづく小学生の姿は暫し励ましとなって無作為のうちに乱れかけた歩調を復活させた。

 この四十五名のうちの十数名が富士山は初めてだと手を上げていた。勿論、息子だって初めてだ。息子の成長を思いやると、三十年の己のエゴは一方で融解するのだが、忽ち家人の世間体とやらに毒されると神経を逆なでされたような自己嫌悪に陥る。この六ヶ月間がその連続だったのである。新天地のあてもなければこのまま失業者でいるわけにもいかない。ましてやその屍ような生活に心身とも耐えられるだけの富もなければ寛容もない。息子が盆休みには一度富士山に登ってみたいと言い出したとき、冗談で家人の言った言葉に乗ってしまった己の野心とは一体どこにそれが潜んでいたのであろうか。三十年間の単に総決算とでも取り違えて決行する気になったのか、三十年間の貴重な忘れ物に魅せられてその気になったのか、あるいはその逆でその鬱憤を晴らすためか。   

同じ事を繰り返し考えながら、繰り返し迫ってくる岩肌を見た。前を行く一行は黙々と整列し、後ろに続く影は深々と迫り来ていた。自分の考えている魂胆など誰も干渉しなかったし、同情もしなかった。ただ無言で冷静にそして着実に小さな息吹だけが連なっていた。いつの間にか、前にいたはずの小学生の姿は消え更に息子の影もどこを進んでいるのか見当がつかなかった。

やっと六合目の山小屋に辿り着く。

「はーい、小休止しまーす」

山ちゃんの声が響き渡る。最後尾の連中もようやく落差のある最後の岩場の階段を登りつめて到着し悲鳴にも似た安堵の叫び声があがる。息子を探し出し早速一緒に休憩する。彼は空手をやっているのでさすがに呼吸に乱れがない。しかも、昨夜は呑んでいたらしく深夜の二時、奈良からタクシーを飛ばしての帰宅だった。装備の準備もそれから取りかかったので恐らく三時間ほどしか寝ていないはずだ。家人はこんな息子にほどほど呆れ果ててはいたがそれでも朝早く二人分のおにぎりを作って送り出してくれた。

「まだ、三分の一だなあ。あと二時間半か」        

息子の傍で真っ暗な大気に向ってつぶやく。しかし息子の方は表情に一変の険しさも見受けられない。何も答えず前哨戦の満足な手応えをまるで噛み締めるかのようにただ黙って微笑むだけだった。雨は小降りになっていた。発電機で起こす灯りに照らされて山小屋の前は眩いほどの明るさだ。狭い六合目の陣地が見る見るうちに登山者で埋まる。どこにこれだけの人間が登っていたのかと疑いたくなるような混雑ぶりだ。各ツアー会社の団体が入り混じっているのだ。

二号車の連中は追いついたのだろうか。人混みでざわつく小屋の前に眼をやってぼんやりと眺める。今朝七時半、ツアー会社のバス二台は大阪・梅田を出発した。しかし途中の駒ケ岳SAや諏訪湖SAに於いて二台が合流した形跡はなかった。            

「ここからはちょっときつくなります。岩場ばかりの上りになりますので手袋をして下さい。コースの縁には鎖が付いていますが濡れて滑りやすいのでなるたけそれに頼らず、這ってもいいですので岩場を掴んで登って下さい」

山ちゃんは皆を集めて説明すると、鋭い眼つきを細めてにやりと笑い発奮を促すかのように大声を上げて出発の号令をかけた。またしても闇のなかの行進が再開された。雨は小降りになり、前半一時間よりも条件は緩和されそうだ。喉はさほど渇かないが背中から胸にかけて汗で冷たくなった体温を強烈に感じる。思うはひたすら本日の目標地八合目に早く辿り着くことだけだ。

眼の前の岩石がひときわ大きく変わってきている。立ち塞ぐような連続した影が迫り来る。荒い自分の呼吸が音を立てて反響し、立ち止まっては肩で息をする。家人の声が耳元で聞こえそうだ。そんな腹をして登れるわけがない。ばてないでよ。大気の闇のなかを彼女の笑い声が響き渡るのである。意地でも、這いつくばってでも登りつめる決心は依然と灯しつづけていた。これからの身の振り方よりも現時点での区切りに決着をつけたいと思った。その区切りこそ過去はどうあれ三十年の己の求めていた慰めに通じるものと信じた。疑う余地もなく敢えて挑戦した裏側には家人の言った世間体への抵抗心もあったかも知れなかった。苦境こそがいい薬になると思った。限界に挑戦することが今必要なことと真っ直ぐに考えた。心臓がはちきれようが、意識を失おうが無我夢中で進むしかない。息は早鐘のように波打ち、全身は汗と雨でずぶ濡れになりながら岩石の上に手を置き這うようにして進んで行った。やがて眼の前に七合目の小屋の灯りが照り、再び新たな小休止の砦へと近づく。その最後の到達となる落差のある岩の階段付近まで登りつくと、ここにもまた特有の発電機のむかつくような音と油の匂いとが冷気を伝って鼻を覆った。

再び夜店のような賑わいがあった。肩で息を弾ませながら濡れ落ちる額の汗を拭った。山ちゃんは煙草をふかしながら若い女性のグループと雑談をしている。普段なら煙草を欠かすことがないのだがさすがに今は吸う気にならない。浜田添乗員は一号車の名簿を手に持ったまま忙しそうに客の数を確認している。相変わらず遅れている二号車の一行については何も気に留めていない様子である。多分事情を知っているのであろう。バスのなかでしきりに携帯電話でやり取りをしていた様子が浮かぶ。

「集合っ」

 山ちゃんの号令がかかり、ぞろぞろと一行が寄り固まった。みんなのヘッドライトが交錯する。

「今度は後ろのグループと前のグループを入れ替えます。後ろの人は前へ来て下さい。そうしないといつも後ろの人は小休止の時間が短いでしょ。気の毒だから」

 山ちゃんは出発前に新たな提言をした。それは強力らしい思いやりだった。

「あと、きついけどもう少しだからね。頑張って行こう。ほら、元気に声出して」

「おおーっ」

 皆は応じるかのように腕を高く差し上げて気勢を上げた。

雨は小降りから一旦上がったが、その後降ったり止んだりを繰り返した。息子とは相変わらず離れて登ったし、歩調がどうしても遅れがちになるので前を歩く人は入れ替わり立ち替わり常に変わった。小学生と初老の女性はその後どの辺を登っているのか分からなかった。出発時見かけた二、三組の中年の夫婦連れの姿も登り始めてから一度もその前後左右に見かけることはなかった。頭に深く被った合羽のフードが眼の先まで垂れ、その下の帽子の庇の陰で視界は限られていた。前後左右を識別する余裕など殆んどなく照らされた下ばかりを見つめて登りつづけた。     

三十年間の己の姿はまさしくこの有様ではなかったか。かたくなに固執し己の足元ばかりを見つづけた。眼に映るものといえば己が囲った領域だけの飾りではなかったのか。噴出した汗は全身を覆いたちまちそれは凍りつくようにして背中にのしかかってきた。心臓は張り裂け闇のなかの大気が一瞬凝縮した。敢えて苦境を容認し歩を進めようとするもうひとつの魂に翻弄されながら肉体は既に限界に達していた。しかしこのとき、まさに虫の息寸前の喘ぎのなかに瞬間として走る轟きがあった。それは何十分の一秒かの速さで脳裏を貫き更にそれは常に瀕死の肉体を支えた。最早、登山そのものの目的ではなかった。三十年間の敗北に対する征服が鬼気となって噴き上げていたのだ。

約三時間半の登山は修了した。眼の前に東洋館の眩いばかりの灯りが拡がっている。今夜の仮眠宿となる八合目の山小屋である。案内のスピーカーが騒がしくがなり立て皆を迎え入れようとしている。入り口で息子と一緒に靴を入れるナイロン袋と明日の朝食弁当を受け取り、へたりこむようにして板敷きの大広間に腰を下ろす。とにかくびしょ濡れになった身体を早く着替えたかった。広間の半分近くを使って先客の団体が何やら酒盛りを上げている感じだった。次から次と到着する宿泊者で玄関口のその広間は見る見る埋まっていく。こんなときに広間の大半を占領して宴会をやっている非常識な団体に対して腹が立ってきた。それとひっきりなしに耳をつんざくスピーカーの音が何とも騒がしい。がなり立てる従業員の声である。        

疲れ切って暫く板の間で足を伸ばす。息子はリュックを開け着替えの準備に取りかかろうとしていた。

「だめだ少し濡れてる」

「最悪だな‥」

 交わす言葉が終わらないうちに、たちまち例のがなり立てるスピーカーが飛んでくる。

「はいお客様、もう少し奥へと寄って下さい。はい、東急観光の団体様、靴の袋と弁当を受け取ってなかにお入り下さい」

 繰り返し繰り返しそれは玄関口で鳴り響きそれは広間に居る皆の耳をつんざいた。休憩する間もなく皆は遂に立ち上がって各々リュックを持ち少しずつ移動せざるを得なかった。宴会をやっている十数人の団体はそ知らぬ顔で依然として騒ぎ、悠々と飲み食いをつづけた。リュックのなかを見ると案の定、着替えの全部がびっしょりと濡れていた。肌を温める夢は無惨にも砕かれ奈落の底に突き落とされたような悲壮感に覆われる。

 やがて従業員が広間の奥の戸を更に開けて皆を誘導し、仮眠場所へと案内した。長い廊下の片側に薄暗い部屋がつづき、それは二段式になっていた。よく見ると既に上段は既にぎっしりと先客で埋まっている。恐ろしく天井が低く窒息してしまいそうな寝床である。皆は案内されるままその下段の奥から順に寝場所を指定されていく。まるでがらくたを仕舞い込むような手順で宿泊客を指定していくのである。頭を交互に並べさせ一寸の隙間もないようにして埋め込んでいった。直立不動の格好で寝かされ左右は違う他人の両足が耳の傍にあるという状態である。

 奇遇の直感が全身を襲った。三十年前のそのときの山小屋の光景が今眼のあたりにする現実と同一の幻として展開しているのである。何もかもが奇しくも重複する。まるで解決されないままの三十年の区切りがこの薄暗い灯りの下に益々巣くっているようでその不安な色を浴びずにはいられない。極端に集中する雑魚寝の場合必ずといっていいほど他に空いている一角があるはずである。こんな状態で仮眠どころではない。息子を促して他を探そうと考えたが、どこに押し込まれているのか暗くてよく分からない。息子は結局、着替える時間もなく押し込まれてしまったようだ。仕方なく便所に行く振りをしてひとり窮屈な群れを抜け出した。条件が最悪になった。雨に打たれた身体と仮眠もろくにとれない肉体を考えると愈々自信が菲薄くになってくる。          

外に出てみると相変わらず賑やかで騒がしくスピーカーは鳴り響き、続々と到着する一団が玄関口でナイロン袋と弁当を受け取っている。登山口を出発してから初めての煙草を口にした。煙が真っ暗な大気に吸い込まれていくのを眺めながら征服は意地でもやらなければならない課題だと持ち直した。背負わされた三十年の区切りであり己自身の固執した飾りでもあった。それは己自身の魂に対して何にも増して眼に見える正直な勲章と思われた。征服以外はすべて挫折でありその魂は残る生涯最も卑屈な烙印を残すであろうとさえ信じ切った。時計を見ると二十三時になろうとしていた。登頂開始は夜半の一時半の出発予定だった。元の仮眠場所に戻ってみると狙いどおり下段の入り口に近いところが空いていた。わざとここを残しているかのように思われたが誰の指定席でもない。広々として最初の位置と比べると雲泥の差だ。早い者勝ちだと潜り込んだ。

 頭のなかは色濃く迫る予兆に慄き同時にその奇妙さに震えていた。三十年前の山小屋でも途中で抜け出し別の安息地を他に得た。今まさに己のとった行動が寸分違わず履修されつつある。単なる偶然か。根本的に己の魂は過去と同じ影を追っていくものなのだろうかと思いつつ、深い眠りの淵の到来を待ちつづけた。案の定、一晩中そのスピーカーの騒音は仮眠を妨害した。出発する団体の起床を促す案内、その準備で混雑する玄関口での誘導、そして相変わらず到着を案内する内容は途切れることなく響き渡った。同室の上段で仮眠をとっていた一行が次から次とその案内に促されて起き上がり、出て行った。その都度狭い廊下で準備が始まりその騒音が耳元で鳴った。同時に凍るような冷気がいきなり入ってきて仮眠場所はまるで吹きさらしになった。出発する一行が出やすいように閉めてあった雨戸を全部開けているためだった。

冷たい突風が吹き荒れていた。時折それに雨が混じっている。山ちゃんは出発前、高い岩の上に立って説明をし始めた。

「これからは、正直いってきついです。絶対無理をしないで下さい。高山病の症状も出てきます。もし体調が不良になった場合、無理をしないで下さい。途中で棄権する方はこれから先、まだ宿がありますのでそこで休養を取って下さい。その際には早めに申し出て下さい」

 山ちゃんの眼つきに鋭い真剣さが宿っていた。その言葉のひとつずつにそれは悪夢の兆しを暗示かのような響きが混じっていた。何故かそれは己の魂に強烈な不安を与えた。寝不足と濡れたままの冷え切った肉体が明らかにそれを象徴していたとはいえ過去に引き摺ってきた挫折癖の戦慄が無気味に頭をもたげ始めていたのである。いつのまにか別の添乗員が一団を連れて合流しており、二号車の連中がこのときやっと追いついたことが分かった。

「行くぞおー」

「おおーっ」

 一時五十分。頂上を目指して八合目からの登山が開始された。

 ものの十分も進まないうちに最早、心臓は高鳴り立ち往生をせざるを得なかった。斜度のきつい岩場が連なり同じ速度では到底歩けなかった。少し踏み出してはその都度呼吸を整えなければならなかった。そうしなければ心臓は確実に破裂してしまうと思われた。己の吐く息が大きな音を立てて暗闇の大気のなかにこだました。次から次と後ろから来る人に追い抜かれ、瞬く間に最後尾を表わす赤色灯を持った浜田添乗員と合流する羽目になる。

「大丈夫ですか?」

 浜田添乗員はまるで挨拶を交わす感覚で声をかけてくる。出発してから二回目休憩までは何とか持った。しかし体力は限界にきていた。二回目の休憩の山小屋に着いたとき山ちゃんが心配するような眼つきで近づいて来た。百戦錬磨の強力の眼は既に崩壊寸前の信号を読み取っていたかも知れない。大丈夫?と顔を覗き込んだ。だが気力だけはまだ残っていた。区切りとしての飾りがどうしても欲しかった。征服した絵を自分の手中に収めたかった。愛用するデジタルビデオを持ってきたのもその意味である。体力は消滅していたが魂の奥でその気力だけが棲みついていた。しかし、山ちゃんの険しい眼はその魂が装飾された誤謬であることを要求していた。

すべての見栄を捨て心身の極限状態に素直に従うことに決めたのはそれから十五分後の三回目の休憩地に辿り着いたときだった。時計は三時半を指していた。浜田添乗員にその旨を告げ、登頂をつづける息子にデジタルビデオを渡して頂上の光景の撮影を依頼することにした。浜田添乗員から下山についての段取りを聞き、標高三千二百メートルの標識の傍に建っている白雲荘という山小屋に宿泊する手続きをとった。一行を見送ると、迷いに迷ったあとの清々しい解放感が屈辱の敗北感を制して穏やかに鼓動していた。

 仮眠部屋に入るとそこは東洋館とは打って変わったような別世界だった。既に上段に一組だけの夫婦連れが横になっていたが、他は空っぽだった。静かで広々とした空間が終わったばかりの闘いの余韻を奏でる。横になってもしばらく眠れなかった。必死になって闘い抜いた苦痛の目的は何であったのだろう。三十年間の区切りとして挑んだ自負心が今まさに崩れた。そしてそれは益々その挫折に対する恥辱に満たされようとしているのだ。しかし、やがて布団のぬくもりは麻痺した苦闘の喘ぎを回復させつつあった。それは徐々ではあるが自分の本心の襞に究極的な結論を豊かに注ぎ込む気配が感じられた。張り詰めた静けさが眼の前にあった。それは己の眼に映る外観の虚飾の本質とは見えないものがその温かさを啓示しているかにみえた。               

四時五十分。予め聞いていた時間に起き上がり白雲荘の前で昇ってくるご来光を仰ぐ。闇は明け大気に光が拡がっていく。あたりは眩いばかりの雲海で見渡す限り神秘の世界と化した。無限の躍動が射し込みそれは荘厳に焼きついていった。一夜明けるとまさしくすべてが光のなかで存在していた。挫折ではない。昨夜とった決断はそれ自体新しい芽を葺いていた。昨夜の布団のなかでその透明な魂が誕生しているかにみえたとき闇と光を超えた自我の眼が開かれつつあった。風が激しく吹きつける朝日のなかで改めてその眼に見えない永遠の息吹を確認したのだった。

 上段にいた夫婦と下山を共にする。偶然に同じツアーの人と分かりしかもその人たちが遅れて着いた二号車の客だった。

「いやあ、参りましたよ。出発直後交通事故でっせ。接触した乗用車側が同じ車を用意しろってごねたようでね。そこで三時間ですわ。お蔭で昨夜東洋館に着いたのは大方十二時をまわってましたさかえ」         

中年とはいえほぼ自分と同じ年齢に見えた。

「ほとんど寝てまへん。しやから、女房の方が参ってもうて。私達はあそこで諦めましたけど、娘は登ってます。もうかれこれ頂上に着いてる頃だっしゃろなあ」

 しばらく立ち止まって三人で雄大な彼方を振り返った。赤褐色の岩石の斜面は遠く大気のなかに拡がり頂点は永久の神秘を隠すようにしてその姿を現わさなかった。

「しかしあれで活火山でっしゃろ?いつ又火を噴くか。不思議なものでんなあ。しかし雄大でんなあ」               

彼のつぶやきがのどかに聞こえた。足元には雲海が煌き三人の影は不動の自然のなかで凝固した。その夫婦も娘だけが挑戦している。何となく幸せな気分になって歩を進めて行く。息子も多分今頃は頂上に到達していることだろう。代わりに征服してくれればそれでいいような気がした。三十年間の終止符よりこの過ぎ去った六ヶ月間との闘いに区切りをつけるべきではないか。足取りに弾ける黒い砂が小躍りして舞う。その音は昨夜の重荷に対する悲壮感から解き放たれた軽やかに響く鐘の音に似ていた。区切りはついた。           

果てしなくつづく下山道に黒い火山灰の光は拡がりそれには一点の曇りもなかった。そして昨夜までの岩影の群れが嘘のように消えていた。




                          






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― 新着の感想 ―
[良い点] 壮大でよかったです。人生の一部というか、肝のようなものをうつした物語なのだなと思いました。 [気になる点] 回顧のシーンが少し多く感じ、ところどころ読み飛ばしてしまいました。
2021/10/04 18:00 退会済み
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