いつか一点の曇りなき幸せを手に入れる君へ −月下草シリーズ09−
「NERVOUS NOVEMBER」から数年後のお話になります。
完全「私」の一人称です。
その日旦那が帰宅したのはいい加減夜も更けて、どころか今日は午前様になるのか?という時間だった。
基本的に睡眠時間の短い私は問題なく起きている時間だったが、世間的には“真夜中”。健康的な生活リズムを身に付けている娘は、とうに寝付いてしまった。
そう。つまりは、大騒ぎどころか、通常会話ですら無意識に声を潜めてしまうような、そんな時間なんだけど。
「おかえり」
鍵の開く音を聞いて玄関フロアーに出てみると、なんだかへしょん、と上がり框に小さくなっている人がいる。
「……どうしたの、飲みすぎ?」
「………ただいま」
やけに小さく見える背後に立って見下ろしながら言うと、地を這うような声が帰宅の挨拶を返してくる。
「どしたの、珍しい。今日はお友達の婚約祝いじゃなかったの?」
結婚前はともかく、結婚して三人で家庭を作ってからは、外で飲んだくれて酔いつぶれて来るなんてことをしなかった人に、純粋に疑問をぶつけると、目の前で小さくなっている旦那は一呼吸おいて、やけに重々しいため息を吐いた。
「だってさあ、おまえさあ、なあ、かんがえてみろよぉ」
常にない語尾を不自然に延ばす話し方に思わず眉をしかめる私に気付かないまま、旦那は続ける。
「なあ、なっちゃんがさあ、結婚するなんて考えたらさあ、いつかは、行っちゃうんだって考えたらさあ、なあ、なあ、俺どうしたらいい?」
思わずその場で旦那の背中を蹴っ飛ばさなかった私を褒めてほしい。
……大の男が酔っ払って真夜中帰って来て死にそうに深刻な声で出迎えた妻に対して言うことが、現在小学生の娘がいつかは結婚してしまうかもしれないという、気が早すぎる上に当然すぎる内容だった場合。
思わずくらり、としたのは不本意だが断じて気のせいではないと私は思う。
私たち親子三人に血縁関係はない。
私と彼が婚姻関係を結び、夏子ちゃんを娘として養子縁組をして、そうして私たち三人の家族が生まれた。
その頃既に家族をなくしていた私と、事情があって施設で育てられていた夏子が家族になるため――即物的に表現するなら、そんな事情から選択された方法だった。
でも、私たちが家族になるとき、「これだけは約束しよう」と彼は言ってくれた。
「誰がなんと言おうとも、自分たちは家族だ」
「俺は斎の夫で、斎は俺の妻。夏子ちゃんは俺たち二人の娘」
「夏子ちゃんにとって俺はお父さんで、斎はお母さん」
「例え最初はわざとらしくても、俺たちは家族なんだよ」
確かに、最初はままごとみたいかもしれないと思った。
でも“家族になる努力”は意外とスムーズに私たち三人にはなじんで。
たった数年で、私の旦那は誰の眼から見ても立派な“娘馬鹿”になってしまった。
正直、予想外です。あなたがこんなに娘にめろめろになってしまうなんて。
とりあえずじめじめとうっとおしい旦那をバスルームにおしこんで、約30分。
本当に日付が変ってしまいそうな頃、ようやく再び私の前に現れた旦那は、多少さっぱりしてはいたけど、やっぱりどんよりした空気を背負っていた。
リビングのソファで雑誌を眺めていた私の隣にどっかりと座った旦那は、まだ濡れたままの髪にタオルを乗せたまま、頬杖をついている。
そんな格好をしていると背中が丸まって、余計に情けない格好に見えるよ。そう思ったけど、とりあえず言葉を待ってみる。
「あのさあ」
タオルで隠れた横顔から、やっぱりいつもよりぼんやりした声が発せられる。
「今日さ、呑みにいって、奴の話聞いててさ、なんか、考えちゃったんだよ」
色々と説明の足りない言葉だが、つまり、こういうことだろう。
今夜は、旦那の職場の同僚さんが今年度中に結婚するということが決まったとかで、ひとまず婚約祝いと称して仲の良い者同士集まって呑んでくると言っていた。
つまり「奴」とはその婚約したという同僚さん…のことなのだろう、多分。
「奥さんになる人、奴と同い年らしいんだけどさ、なんていうか、いい人らしいんだ。ずっと家族と一緒に暮らしてて、今度初めて、同棲するんだと。ていうか、籍はもうすぐ入れるから、同棲っていうんでもないのか。まあいいや」
酔っ払ってるとはいえ、一応今が深夜で、娘はすっかり寝てしまっている時間だということは自覚しているのか、ぼそぼそと抑えた声で話す旦那に、私は麦茶のグラスを差し出す。
準備のタイミングを間違えて、いいかげん生ぬるくなってはいたが、どうやら旦那はあんまり気にしていないらしい。ほとんど反射的な行動っぽかったが、一口飲んで、そのまま続ける。
「なんてゆーか、うん、あんまうまく言えないんだけどさ、仲いいんだよな、話聞いてると。いい人なんだろうな、奥さん。そんな感じするんだよ。お父さんやお母さんに対しても、きっといい人なんだろうな、ていうね」
そこで旦那が深い深いため息を吐いた。
「なんかさあ、話聞いてると、身につまされちゃってさあ…………」
「あの〜〜もしもし?」
それでなくとも「がっかり」した姿勢でソファに座っている旦那が、更に「がっくり」と肩と頭を落とした姿勢で呻く。
ちょっとまってよ、意味わかんない上に支離滅裂に聞こえるよ?
どうしてそこであなたが「がっくり」しなきゃいけないの?
「なっちゃんもさあ…いつかは、嫁にいっちゃうんだよなあ……」
「え〜〜〜〜〜〜…」
どうしよう。酔っ払いのたわごとと思って聞き流すべきなのか。
それとも何とか慰めるべき?
正直、私には全くわかりません。
彼が、娘を大事にしてくれるのは、とてもうれしい。
正直、結婚前はこんなに子煩悩な人だとは思わなかったから。
私が他人からはどちらかといえば「クールだ」と言われるので、その分とてもバランスの取れた関係なんじゃないかと手前味噌に思ったりなんかして。
「血の繋がりはないけど、愛情の繋がりは誰にも負けないよ」
いつだったか、そんなことを話した記憶もある。
そもそもは私と夏子ちゃんが仲良かったわけで。
だから、私の愛情も、彼の愛情に負けていないと自負しているのだけれどもね。
そうか。
寂しく思うのね。
それがどれだけ先なのかわからないのに。
て言うか現実にならない可能性もあるのに?
ああ、それはそれでよくない想像なのかもしれないけれども。
他の家の事情を聞いて、想わず想像して、それで自分の想像に打ちのめされるほど。
あなたは、寂しく思うのね。
じゃあ、ねえ。こう言ったら、あなたはどんなカオをする?
「ねえ、私の方からも話があるんだけどな」
沈黙が続いた後、そっとささやいてみる。
やや気を取り直していたのか、さっきよりは少しましな表情で、旦那が顔を上げる。
わずかしかこっちを向かない旦那に、私から顔を寄せて、覗き込むように何とか視線を合わせて。
とっくに雑誌を放り出していた両の掌を、自分のお腹に当てて見せて。
「子供がね、できたみたいなのよ」
今日一番にひそめた声は、確実にあなたの耳に届いたよね?
目んたまが、今まで見たことないほど大きくなってるよ?
ねえ、想像だけでこれだけ感情を動かせるあなたなら。
きっと私もなっちゃんも。あなたのこと、ずっと好きでいられると思うんだよ。