【1】 プロローグ
「お前って贅沢者だよなぁ」
昼下がりのリビングルームで、兄の連れてきた人にそう言われた。紫黒色の髪に凶悪な三白眼をした彼は、兄の友人だったはず。名前は知らないけれど、顔は私でも知っている。たしか……ストリートギャングの一番偉い人で、地元ではちょっとした有名人だ。
私は言葉を選んで答える。
不思議と怖くはなかった。目つきは悪いし、胡散臭い笑みを浮かべているけれど、理由なく暴力を振るってくるタイプの人には見えない。ストリートギャングの癖に、変な人だと思う。
私の答えがお気に召したのか、彼はニヤニヤと笑っている。
「そりゃあお前、品行方正な猫だなんていねぇだろ?」
その通りだけど、それは猫だからであって、人間には当てはまらないと思う。
「にゃあ」
彼が鳴く。あまりにも堂に入った鳴き真似に、まさか本当に化け猫なのだろうかと疑ってしまう。反面、彼になら猫耳や二又にわれた尻尾があっても可笑しくない気もする。それぐらい、違和感がなかった。
「俺の贅沢はな、無ぇものを欲しがるからだ。持ってないものって意味じゃねぇ。存在しねぇものを欲しがってんだよ、俺は。でもお前は違う。お前は何でも持ってんのに、何も欲しがらねぇ。それを贅沢と呼ばずに何て呼ぶ?」
それは買い被りすぎだ。私だって欲はある。欲しいものは欲しいと言うし、是が非でも手に入れたいものだって、多分ある。でも、つまり、彼の話の趣旨は、私を羨んでいる、という事だろうか?
「羨ましい、ねぇ。まぁ、心の底から憎いほど羨ましいかもな。だが、どーでもいいぐらいに興味もない。そうさなぁ、お前の持ってるものは羨ましいが、お前自身には一切興味がないって感じかね」
当然だ、と私は思った。
だって私すら私に不満を抱いているのだから。
これ以上なく充実している。これ以上なく満足している。
だけど何かが欠落している。だのに何かが不足している。
これはきっと夢がないのだと思う。
夢がなくて、目標がなくて、理想がなくて、希望がない。
だから、それ以外の何があっても物足りない。
「分かってんじゃねぇか。その通り、お前には熱情がちと足りねぇ」
彼は喉を鳴らして笑う。
「なんで足りてねぇのか理解してねぇあたり、お前は贅沢だよ」
貴方には分かるのですか、と私は無意識の内に身を乗り出していた。考えても考えて答えは見つからなかったのに、初めて会った彼に分かるのだろうか。
「分かるさ。何、簡単な話さ。お前が自分を受け入れてねぇから、見ねぇフリしてっから分からねぇだけだ。本当は不満なんざねぇくせに、勝手に不満を作り上げてるだけ。そうだな……ブラックボックスが許せないようなもんか。どうしてそうなったのかが分からねぇから、受け入れられねぇってとこだろ」
心臓がドキリと跳ねた。
彼には私の不安など取るに足らない悩みで、簡単に見透かせる程度のものなのだろう。だけど彼が初めてだった。何も知らないのに、全てを理解してくれた人は。
私は現状に満足している。一番欲しいものはとっくの昔に手に入れている。
だけど、何故か誇る事が許されないような気がして、素直に喜べないでいた。
こんなこと、誰にも話した事はないのに。
「だってお前さ、少しだけ俺に似てるもんよ」
人形のようだと揶揄される私と、自由の象徴として君臨する猫である貴方が?
「自由で象徴で君臨ね。中々過大評価をどうもアリガトウ。けどまぁ、立っている場所が違うだけで、俺とお前はそう変わらねぇよ。一つだけ明確に違いがあるとすりゃ、欲望の有無だけだ。欲しがってる俺と、欲しがらないお前。他人の目が煩わしいのは分かるがよ、せめて自分一人ぐらい自分を受け入れてやれよ。そしたらお前にも分かるぜ」
何が、とは聞けなかった。野暮な気がして。
彼はしなやかな動作でソファーから立ち上がる。遠くで誰かが彼を呼んでいる声がする。去り際に私の頭を撫でて、彼は「にゃあ」と笑った。
これは私にとって、初めての――