蜘蛛
俺はかつて、蜘蛛と同居していたことがある。それもちょっと普通ではない蜘蛛と。
大学入学とともにこの町にやってきた俺は、安いこと、学校から近いこと、静かに暮らせそうなことを条件に、住みかを探した。学生街の不動産屋に紹介され、何軒かの候補を回ったあとに連れてこられたのが、その蜘蛛の部屋だった。部屋は六畳ひと間の風呂なしで、流しは簡易サイズ、洗濯機スペースなし、クーラーなし、網戸なし、窓は西向き、という、その界隈でもかなりランクの低い部屋だった。そして部屋に踏み込んだとき、俺は一方の壁に、差し渡し五十センチはあろうかという巨大なハエ取り蜘蛛が一匹、足をすぼめて張りついているのを発見したのだ。
「ちょっと環境は悪いですけど、家賃は一万五千円、共益費なし、大家さんは別宅で、電話もテレビのアンテナも通ってます。敷二、礼ゼロです。ブレーカーも三十アンペアですし、お風呂がないことを除けば、まあ値段相応ってところですね」
営業員がいう。俺は無論そんなことより、壁にいる蜘蛛のことが気になった。
「えーと、そこの、やたらとでかい蜘蛛は何です?」
「蜘蛛?」
「そこの、それです」
俺は蜘蛛のほうを目で示したが、指をさすのはためらった。指をさせば、何かこちらの意図を誤解した蜘蛛が、やにわに飛びかかってくるかもしれないという不安を覚えたからだ。
「ああ、蜘蛛ですか。まあこういってはなんですけど、どこのアパートにも虫はいますよ。普段は人の目につかないところに隠れてますけど、たまにこうして出てくるんです。気にしなければどうということはありません。ダニやゴキブリなら駆除したほうがいいかもしれませんが、蜘蛛はまあ……。駆除の仕方はご存じです?」
「ええ、まあ。そういう虫なら」
営業員による蜘蛛へのコメントはそれだけだった。土地が変わればこんなに大きい蜘蛛がいるものなのか。蜘蛛は自分が話題にされたことにも気づかずに、やはり壁にくっついてじっとしたままだ。
「どうなさいます? 次のところ、見に行きましょうか」
「あー、ちょっと待って下さいね。すみません」
その時、俺はふとこんなふうに考えた。こんな蜘蛛が安心して暮らしているなら、ここはそれなりに落ちついたところに違いない。値段も安いし、自転車を買えば大学までの時間もそれほどではなかった。蜘蛛がもし人間に害をなす生きものなら、営業員がそう言わないはずはないし、実際ハエ取り蜘蛛に噛まれたという話はあまり聞かない。
「じゃあ、ここでお願いします」
こうして俺の大学時代の住みかが決まった。
蜘蛛はどこにも行かなかった。見たところ蜘蛛が通れそうな壁や天井の破れなどはないから、留守中にいなくなることがないのは当然だったが、窓を開けないわけではないし、むしろ部屋にいるときなどは春先からほとんど窓を開けっ放しといってもよかったのだが、別にそこから外に出ていくというわけでもなく、とにかく蜘蛛は、部屋の中に留まった。何を食べて生きているのかは知らない。いや、ハエ取り蜘蛛というのだから当然小さな虫などを食べているに決まっているのだが、あの大きな体を蝿や蚊のようなもので養えるとは思えないし、とにかく、どうやって活力を得ているのかは、ついぞ分からずじまいだった。あるいは大食漢を想像する俺の考えが間違いで、極々たまに何かを捕食すればそれでよく、実際ほとんどの時間はじっとしているのだから、それで十分に暮らしていけるのかもしれなかった。
蜘蛛は太陽の光を嫌った。部屋は西向きだったから夕方まで直射日光を浴びることはなかったが、窓からの日差しが強くなりだすと、それまでじっとしていた蜘蛛は、光の縁辺を避けるようにじりじりと日陰へ回りこんでいった。そしてまた動かなくなるのだ。
夜眠るときの蜘蛛の位置が、朝になっても変わっていないことがよくあった。外出から帰ったときもそうだ。まったく動いていないのか、その位置がホームベースのようになっていて、どこかへ動き回ったあげくに同じところへ戻ってきたのかも、俺には全然わからなかった。ただ蜘蛛が好んで留まる場所はいくつかあって、蜘蛛を観察して三カ月目くらいから、俺は大体その場所を把握できるようになった。そしてさらに観察していると、ちょっと面白いことがわかった。蜘蛛が好んで留まる位置は、毎日少しずつ移動しているのだ。それはまるで天球儀のうえを星座が動くように、相互に一定の間隔と角度をもって、直方体をなす壁、天井、床のうえに投影されているように見えた。それは約一年をかけて一回転し、巧みに窓の場所を避けていた。あるいは星辰のように、太陽の位置に規定される何かだったのかもしれない。
あるとき大学の友人が俺の部屋にやってきた。彼は部屋に入るなり、開口一番こういった。
「おまえって結構キレイにしてるのな。男の部屋なんてゴタゴタしてなんぼだっちゅうのに、逆にちょっと気持ち悪いわ」
「高校まではぐっちゃぐちゃにしてたけどな。なんかここ来てから、きちんとしてないと気が済まなくなったんだよな」
「なんでまた?」「わかんね」
そんな話をしていると、普段あまり動かない蜘蛛が、さっと身を翻して三、四歩壁のうえを後じさった。頭をこちら――直方体の表面に描いた、蜘蛛と俺たちとの最短経路に沿った方向――に向けて、警戒するように動いたのだ。俺はこの挙動に少し驚いた。友人はそこで初めて、この大きな同居人に気がついたようだった。
「うわ、おまえこれ何。キモッ。生きてんのか? これ」
「生きてるよ。ハエ取り蜘蛛」
「うわ、うわ、やばいんじゃねえのこれ。でっけー」
「ハエ取り蜘蛛は大丈夫だろ。俺がここに来たときから、ずっと部屋にいるんだよ」
「ってお前さあ、いくらハエ取りがおとなしいッつッても、こんだけデカイとやっぱ危険なんじゃねーの?」
「別に今まで危ない目にはあってないしなあ。それに、お互いあまり干渉しないし」
「お互いって、コイツの考えてることが分かるのかよ」
「わからないけどさ。でも、触ったこととか一回もないぜ」
「おまえヤバイってこれ、絶対ヤバイ」
「そうかなあ」
それから友人はちらちらと蜘蛛のほうを見た。蜘蛛は蜘蛛でいったん動いた位置が気に入ったのか、そこから再度動くということはなかった。ただ一度、友人が持ってきた焼酎をあけたときに、蜘蛛が体全体を僅かに震わせたのに俺は気づいた。普段部屋ではビールくらいしか飲まなかったから、強いアルコールの匂いなどにはこういう反応を示すのかもしれなかった。
友人は酔えないようで、二十二時を回る頃には帰っていった。門前まで送って部屋に戻ると、蜘蛛は友人が来る前の位置まで戻っていた。
一度だけ、蜘蛛が激しく飛び跳ねたことがある。いや、飛び跳ねたという表現が適切か、ちょっと俺には分からない。そのとき蜘蛛は天井に張り付いていて、俺は夕飯の支度をしていた。炊飯器が温まってコポコポコポと音をたて、上の通気孔から湯気が立ちのぼり始めたとき、急に蜘蛛が天井から落っこちて、炊飯器の蓋にぶち当たったのだ。炊飯器はひっくり返りこそしなかったものの、止まる寸前のコマみたいに数秒間ぐわらり、ぐわらりと回転し、電気コードに引っ張られてその動きを止めた。蜘蛛は畳の上でひっくり返ったあと、足を瞬間的に痙攣させるような動きをして、弾けるように起き上がった。そして脱兎のように壁に向かって走ると、低い位置にあるお気に入りスポットまでいって、そこで振り返った。俺は蜘蛛が火傷でもしていないかと心配になったが、外骨格生物の手当の方法など知らないし、また蜘蛛が興奮しているかもしれなかったので、しばらく様子をみることにした。結局蜘蛛はそのあと何もなかったように普段どおりの生活に戻って、一瞬見せたあの行動がなんだったのか、ついに俺にはわからずじまいだった。
大学三年の夏のことだ。その蜘蛛が死んだ。ある日突然壁に登らなくなって、部屋の片隅に背を向けて、じっとうずくまっているようになった。翌日見ると、それまで脚の先端を突いて立って(坐って?)いた蜘蛛が、第一関節から先をしんなりと畳につけて、関節でもって畳に立つようになった。それは裾を引きずって歩く、平安時代の女性を連想させた。その翌日、蜘蛛は腹だけで坐っていた。脚はもうそえてあるだけだった。そしてさらにその翌日、蜘蛛は腹を上にしてひっくり返っていた。死んだのだ。
立つほどの力もなくなっていた蜘蛛が、どうして死に際にひっくり返ったのか、そのとき俺にはわからなかった。死んだあとの筋肉の収縮の関係で、蜘蛛の意志とは関係なく、いわば化学的なエネルギーでもって、そういう動きをするのかもしれないと思った。死んだ蜘蛛は動かないという点で普段の蜘蛛とあまり変わらなかったが、心なしか体の表面が乾燥しかかっているように見えた。
どうしよう。生ゴミとして死体を処分すべきだろうか。あるいはアパートの前庭にでも穴を掘って、埋めてやるべきだろうか。俺はしばらく考えた。そして結局、そのどちらも思い直した。
新聞を見ると、向こう数日は晴天が続くようだ。俺は蜘蛛の背に両手をあてがい、そっと死骸を持ち上げた。重いような軽いような、一リットルのペットボトルくらいの重さだった。ブラシのように強い毛が、掌にごわごわと当たった。
俺は死骸を持って廊下に出た。アパートは二階建てだが、屋上には誰も使わない物干し場がある。誰も使わないというのは、皆コインランドリーで乾燥までやってしまうことが多いからだ。俺は屋上に出ると、その片隅に蜘蛛を置いた。脚を下に置こうとすると、蜘蛛は後転するようにひっくり返った。重心の問題だったのだ。仕方なく腹を上にしたまま蜘蛛をそこに残し、俺は部屋に戻った。
翌日見に行くと、蜘蛛の死骸は鳥につつかれて、すでに半分バラバラになっていた。近くまで行くのが忍びなく、俺は屋上の入り口からそれを見るにとどめた。
さらに翌日見に行くと、蜘蛛の死骸は皮と脚の一部を残して、ほとんどなくなっていた。
さらに翌日見に行くと、蜘蛛の死骸はきれいさっぱりなくなっていた。
俺と蜘蛛との関係は、このときをもって終了した。あの蜘蛛がなんだったのか、俺にはいまだに分からない。ほかにあのような蜘蛛を見たことはないし、いるという話も聞いたことがない。自分の妄想かとも思ったが、不動産屋の営業員も、部屋を尋ねてきた友人も、あの蜘蛛を見ている。だからやっぱりいたのだろう。
この話をすると、たいがいの人は気持ちが悪い話だという。だが俺に言わせれば、それは全くの的外れだ。確かに蜘蛛との暮らしには困難もあった。でもその困難とは結局のところ、相手の考えが分からぬ不安、かりそめの安定が突然闘争へ変わる可能性への不安、そういったものにすぎなかった。それはありふれた不安にすぎない。
適度な関心と適度な無関心、ひとは、いや、ひとに限らず、そういう不安定なものに寄りかかって生きていくしかないのだ。
そして、そのうえで敢えていう。俺はやはりあの蜘蛛を愛していた。