エピソード85 街
最後の方に追加で改稿しております。サブタイトルは変えませんでした。
一方、街では平穏な歯車が緩やかに狂い始めていた。
とある一家では──
「あなた、昨日は何処ほっつき歩いていたのさ」
「…………」
「子供たちの世話もあるんだから、あまり心配させないで欲しいね。信心深いことはいい事だけども、限度ってものが──」
熟年夫婦のありふれた小言のやり取り。早朝から家事をする亭主持ちが皿洗いの途中で帰宅した夫にやるせ無い気持ちをぶつけていた最中であった。
しかし不思議なことに、夫から何も反応がない。いつもなら小言の一つや二つは言い返して当然だったのだが、返事すら無いのはおかしい。不自然に感じた女性は手を止めて振り返って夫の顔を見やった。
夫は、虚な表情で棒立ちしていた。暗い瞳の奥は奈落の底のように空虚なものに染められており、呆然と佇む姿は通常を逸脱して異様だった。
「あなた、どうしたんだい!?」
まるで心が奪われたような立ち振る舞いに焦る夫人。状態の異常を察して駆け足で近寄り、
「ちょっと、しっかりしてよあなた!」
気は確かかと肩を掴んで揺さぶるが、どうも反応が鈍い。
「────」
虚空を見上げるばかりの目が、ギョロりと、夫人を捉えた。
見つめられた途端、寒気を帯びてたじろぐ夫人。まるで魚のように見開かれた目が悍ましい。
少しの沈黙が流れた後、彼は再び虚空を見上げて口を開かせた。
「──神が、舞い降りる」
「……は?」
腕を上げ、眩しい何かを掴もうと手を伸ばす。しかし夫人から見れば、ただ虚空の天を仰いでもがき苦しんでいる様にしか映らない。
まさかの虚言に不審な眼差しを向けながらも、夫人は煩いから来る怒りを爆発させた。
「ちょっといい加減にしな! いくら信心深いあなたでも──」
言って良い事と悪い事がある。罰当たりな虚言も、日常生活にまで侵されるのであれば亭主持ちとして咎めなければならない。いくら何でも悪ふざけの度が過ぎている。子供に影響でもされたら堪ったものじゃない。
思い至った夫人が声をあげた途端、彼は椿の花が散る様の如く、ガクンと首を落として視線を交わした。首が座っていない。
「──神は告げられた。探せ、と」
「あ、あなた……?」
尋常じゃない雰囲気に、とうとう張り上げた威勢も剥がされてしまう。
相変わらず目は死んでいる。傾けた首の曲がり具合が、仕草が、纏う空気が、悍ましい。
まるで、生きた屍ではないか。
虚空に振り上げた腕をゆっくり降ろして、距離を取ろうと後退る夫人の目に向けて人差し指を差し出した。
その指先から、淡い闇を灯らせて──
「ママー?」
寝室から幼児が顔を覗かせる。微睡みから覚め、重たい瞼を擦りながら空腹を我が母に訴えようと登場したのだ。
しかし、目の前にいるのは変わり果てた両親の姿。虚な目をひん剥き、辿々しい足取りで家の外へ向かう背中を見て、幼児は反射的に口を閉じた。
「────」
かの家庭を一部始終覗き見していたのは、幼児の他にもう一人、とある少年だった。少年は咄嗟に物陰に隠れて身を潜ませ、青ざめた表情で膝を抱えながら混乱していた。
顔見知りの夫人に野菜を届けるよう頼まれた矢先、あの異様な光景を目の当たりにしてしまったのである。
「だだ、大丈夫、かい……?」
怯える足を奮い立たせ、少年は一家に足を踏み入れる。そこには呆然と独り、訳も分からないと喚く幼児の姿があった。
先の両親は死人の足取りの様に出て行ってしまったので今は大丈夫だろうが、この子を置いて逃げ去る訳にもいかないと少年は保護欲に駆られる。あの様子ではまともな判断なんて出来ようがないだろうし、ここは一つ気張って目の前の子供を安全な場所まで移動させるのが優先だろうと思考を巡らせた。
家の外、遠くから人の悲鳴みたいなものが次々と耳に触れる。少年も幼児も、異常事態の発生を本能的に察知し、動揺を隠せないでいた。
「立てる?」
「……うん」
不安なのはお互い様。だが、少年は微かな勇気を振り絞った。
頼れる周りの大人はきっと、先程の様に歩く屍となって伝播していっているのだろう。下手に動けばどうなるか分かったものじゃない。今は自分が出来る範囲のことを成さねば──
泣きそうな気持ちを押し殺し、少年は幼児の手を取った。
「おにいちゃんは、だれ?」
幼児は首を傾げて少年に問い掛ける。
見知らぬ人に着いて行く程、肝は据わっていないに思われた。だが、少年は背筋を伸ばして虚勢を張った。
「キノ。キノ・エスタル・ピオーネ。おばさんとは知り合いなんだ」
今は、この時だけは、なけなしの勇気を張り続けろと自分の中で繰り返す。
この子にまで不安が伝わってしまったらきっと、己の中にある強さが揺らいでしまうから。あの時に助けてもらった魔法生物のように、騎士の青年のように、強く在りたいと願う。その為には、己を奮い立たせて行動に移さねばならない。
彼は過去の経験から学んだことを頭の中で振り返り、胸にあるペンダントを握り締めて意思を固めた。
「まずはレラちゃんの所に向かおう」
最近知り合った女の子。事情があってドーラ家に移り住んだと言う彼女の豪邸なら、匿って貰えるかもしれない。
キノは、空いた手で自分の頬を叩く。気合入魂。意を決して、幼児を連れて家を飛び出したのだった──
◆◇◆◇◆◇
ミラとクリスは屋敷を出て街へと繰り出した。
動きやすさを重点に武装は最小限に抑え、服装も屋敷にあったものを進呈。
皇女らしく拵えた服は丁寧に折り畳まれ、現在はメルヘンタンスの奥深くへ。今、纏っているのは短いスカートを基にした学園の制服となっていた。クリスも同様、体型に合わせた制服を着こなす。
所属としては間違ってはいないが制服は制服で街に出歩けば目立つし、何故クリスの部屋に制服があったのかは謎である。しかし全てにツッコんでいては埒が明かない為、ミラは敢えて無視を決め込む。
「本当に彼女の兄の方へ?」
クリスと駆け足で表通りを渡る最中、彼女は疑問を口走る。
先程出会った少女──レラの事情を耳にして決めた方向性であった。
「ええ、収容所には兵士ではなく特殊な刑務官が配備しているはず」
この国の刑務官はそこら辺の兵士とは訳が違う。人が多く通うアラバスタ国には魔法使いの犯罪者の比率も多い。その為、刑務官はより強者に託される。
噂に拠れば、かの"軍神"とも対等に渡り合える程の実力者だと聞く。味方に率いれれば戦力が増す所の話ではない。勝算は大いにぶん取れる。
「収容所にも敵の手が伸びていたら?」
「それなら大丈夫です」
クリスは”たられば”の話を繰り出した。
確かにその可能性はあり得る。多くのクーデターは、騒ぎに紛れて収容所を襲う傾向にある。理由としては抑え込まれた有力貴族を解放するのに打って付けの手であるからだ。
しかし、いくら昨晩の間に兵士を斃されようとも、わざわざ収容所を襲撃するようなリスクの高い真似はしないとミラは確信していた。クーデターの主犯、エルウィン王子なら尚更である。
彼を後押しする反社会的貴族は誰もいない。ある意味で孤高で孤独な王子様だった。
「それに──」
レラの頼み。あんな幼気に懇願する少女を、誰が蔑ろにするだろうか。
行先を告げると真っ先に頭を下げて涙する少女の顔が目に浮かぶ。以前、カナリアやヴァンと繋がりがあるのであれば、聞き入れない道理は皆無であった。
ミラの思い詰める表情を横目にして、クリスは短く息を吐いて視線を前に向けた。
民の為に翻弄する皇女。その意思は固く、容易に覆されない事を意味していた。
「上手く行けばいいけどね……」
クリスの中で腑に落ちない点が幾つか燻っていた。
収容所を襲わない理由も、収容所に赴く理由も皇女として立派なもので賢明だ。だが、なら何故、かの王子に付き従う駒が信徒として現れたのか──
良からぬざわつきが胸を占めて、二人はやや霧が掛かる街を駆け抜けて行った。
「────」
「────」
しばらくして二人は同時に疑問を持った。
街に人が少なすぎる。いや寧ろ、人が居なさすぎるのだ。
確かに人気の少ない道を選んだ。それはそうなのだが、まさか大通りですら人っ子ひとりもいないとなると不気味である。
静寂に包まれた街。霧が濃くなりつつあり、昨日まで活気あふれる様子が嘘のようだった。
「せん──」
「静かに」
ミラがクリスを呼ぼうとして制止させられる。走る足を止め、街の異様な雰囲気を目だけでなく耳と肌で感じ取る。
──何かが、いる。
大通りの真ん中、二人は背を向き合って警戒した。周囲を見渡し、何か異変がないか隈なく探す。
だが、霧は時間が経つに連れその濃さを増していき、道行先すらも覆って隠してしまう程の濃霧へと姿を変えていた。
緊張する。
湿気で肌がベタつき、息苦しい。
背中に伝う雫は、もはや汗なのか霧による露なのか判別し難い。
「ミラちゃん──」
背中越しにクリスが呼びかけた。
声が若干震えており、さらに不安を煽らせる。
依然とミラの目の前は霧に包まれて何も見えないままであったが、彼女の目には何かが映ったようだ。
「不味いねこれは」
後退りをして、ミラの背中を、背中で押す。
前方の警戒を解くのは忍びないが、堪らずミラは振り返った。
「──これって」
濃霧の中、横一列に現れた黒い影。
目を凝らすと、虚ろな目をした住民が死人の足取りで行軍していたのだ。
「探せ」
「神は仰った」
「探せ」
「かの者を」
「探せ」
「神は求めておられる」
探せ。探せ。
ブツブツと呟く声に混じって聞こえてくる単語。
他宗教が入り混じるこの街の中で、一つの神を崇め奉ような言葉の羅列。
何を探しているのか──真っ先に脳裏に過ったのは皇女ならびに貴族の身柄。
「行くよ!」
「は、はい!」
ゾワっと背筋に冷たいものが走り、二人は行軍する住民たちを背に駆け出した。濃霧のせいで距離は一寸先まで縮まっていた。




