エピソード75 湖で その1
ゆっくりと落ちた意識の底から這い上がっていく。眠気から覚めるようにボヤけた視界が鮮明に外界を映し出した。
一体どれぐらい時間が経ったのだろう。空はもう夜を迎え、星々が各々輝いて散りばめている。
鈴虫の音色と、不規則にチャプチャプと滴る水の音が意識が戻る前からずっと耳に触れていた。
(そういや、マナ切れを起こして……)
倒れる前の状況を思い出して、すかさず頭の灯火を確認。いつも通り白銀の色が爛々と燃えており、ひとまず安堵した。
そして目を凝らして辺りを見回す。当然明かりがない為、暗い。しかし夜目も慣れれば薄っすらとだが見えてくる。
目の前に広がるのは湖だった。決して広くはないが、大きな水溜りと称するには小さ過ぎる。綺麗な円形を描いて視界いっぱいに水面が張られていた。
水面に反射する夜空の星々と大きな月明かりが何とも幻想的な光景を映し出しており、目を奪う。
(アドニスは……)
そういえば彼女は何処にいるのだろう。
綺麗な夜景にいつまでも心奪われている場合ではない。もし置いて行かれてでもしたら独りで彷徨わなければならない。心細くて寂しくなってくる。
不意に、水面に大きな波紋が打たれた。
ザパァ、と水飛沫をあげる音に驚いて目を向くと──
「む、火が付いている……起きたか」
(──ッ!)
アドニスが裸で水浴びをしていた。
真紅の長い髪が白い柔肌に密着して身体のラインが際立ち、滴る雫の一つひとつが月明かりによって宝石のように映えている。
分厚い軍服の下に収められていた弾力ある豊かな胸が男としての本能を刺激して止まない。鍛えられた腹は無駄な肉は無くくびれており、腕は細くも引き締まっていて力強さと儚さという相反するものが見事に織り成していた。腰から太腿までの曲線は美しく、おおよそ男の理想が形となっていた。
──意外と着痩せするタイプなんだ。
意図せず女性の裸体を拝んでしまったのはこれで二度目である。カナリアは年相応の身体をして可愛らしいが、彼女の場合は自然と成長した美と過酷な環境下で育った強かさが産んだ美の調和であった。
比べるなど僕の矜持に反するが、敢えて言うなら勝負は戦わずして決着している。ナムサンだカナリア!
そんなことを頭の中で繰り広げていると、アドニスは膝辺りまで浸かった水の中を歩いて近付いてきた。
裸体が、目の前の幻想的光景を遮る。
「急に倒れたから心配したぞ。ここに来たのは正解だったな」
恥じらいなく述べる彼女に、僕の心境は複雑だ。生前の姿であったのなら、違ったのだろうか。
そう逡巡するのも束の間で、彼女は僕の元まで辿り着くと本体である鎧兜を両手で持ち上げ始めた。
視界が高くなり、アドニスの目線と同じになる。切長の目に翡翠の瞳。淡麗な顔立ち。思わず頭の火が強火になる。
視線を逸らそうにも本能に抗えず、自然と下の方へ向いてしまう。
(あれ……)
暗くてよく見えなかったが、アドニスの身体には無数の傷跡があった。
肩、腕、脇腹に切り傷と刺し傷が、柔肌ゆえに痛々しく主張している。
アドニスは僕の視線を意にも介さず手拭いを片手に抱きかかえ、僕が置かれていた場所に腰を下ろした。
む、胸が当たって……
「こう見えても女だ。恥ずかしい感情も少しはある。我慢しろ」
慌てて手足を生やして逃げようとするが、がっしり捕まってて逃げられない。理性から来る抵抗も、虚しく終わってしまった。
声色からして恥の文字も見当たらないのだが、アドニスは言い訳がましくしながら鎧兜を濡れた手拭いで磨き始める。
手入れ自体はいつもカナリアにされているので慣れてはいるのだが、こうして違う人の手で磨かれると新鮮でくすぐったい。妙に慣れた手付きなのは軍人ゆえの癖なのだろうと勝手に補足する。
「痒い所はないか? そもそも痒みとかあるのか……?」
実は鎧兜自体に痒みはない。しかし、自分の手ではどうにも行き届かない所もあるにはある。こう見えて綺麗好きを自称しているのだ。
なのでここは観念してお言葉に甘える。後頭部辺りを指差しして答える。
擦られる度、綺麗になる感覚に身を委ねた。
アドニスは普段怖くておっかないが、差し引いてもあり余る美人だ。そんな人が裸で、しかも一部とはいえ身体を洗って貰えるというのは……背徳も相まって頭の後ろがゾワゾワする。
しばらくお互い無言でいると、アドニスが徐に口を開いた。
「……私は、弱い人間だ」
何ともはや急な流れだ。
そのまま首を傾げて待っていると、磨き終わったと言わんばかりに彼女は両手で抱えながら立ち上がった。
「少し冷えた。こっちに火がある」
困ったように微笑むアドニス。またも弱味を見せまいと硬い甲羅に埋まろうとしているのが見て取れた。
焚火をしている場所に移り、アドニスは軍服に着替えながら薪を焚べた。眼福だったと心の中で合掌して着替えもちゃっかり拝ませてもらった。
パチパチと火の粉を巻き上げながら灯る仄かな明るさと温もりが伝播する。森の中での予期せぬ遭難。そんな状況も相まって、焚火の存在は非常に頼もしく思える。
「……昔、ここに来た覚えがある」
唐突に、彼女は独り言のように語りだした。
一本の丸太に並んで腰掛け、アドニスは遠い彼方を見て思い馳せる。
「もう二十も前だったか──両親に連れられて来た私は、湖を見て妖精がいると言って笑われたものだ。厳しい家系だからこそ、たった一度だけの家族旅行が本当に楽しかった」
幼少期の思い出。二十年も前なら来た道を戻るというのも難しい話だろう。記憶はそこまで鮮明に描いたまま残してはくれない。
彼女のエピソードを聞く限り、本当に純粋だった頃なのだと想像に固くない。今の彼女はそれほどまでに”軍人”であり”軍神”であったのだ。むしろそんな時期もあったのだと驚く位である。
彼女はそのまま続けた。
「ここなら貴様も起きるだろうと予感がしていた。何故だろうな。まさか本当に妖精がいるとも限らぬだろうに」
確かに、あの湖にはマナが豊富に漂っていた。マナと言っても毒々しいものじゃない、何か神聖な雰囲気も兼ね備えていた。
こうして起き上がれたのも、ひとえに彼女がここまで連れて運んで来てくれたことに他ならない。
彼女自身は自嘲するように述べているが、もしかしたら本当に何かしら潜んでいるのかもしれない。そう期待させるには充分だった。
「アドニスは──」
僕は青火に変えて素朴な疑問を口にしようとして──
ぐるるる……
と腹の虫の声によって遮られてしまった。
「す、すまない……朝から何も食していなかったことを思い出した」
お腹を押さえて赤面するアドニス。
どうにも、彼女が”らしくない”行動を取る。気を失う前のような鋭く刺々しい雰囲気がまるで感じ取れないのだ。
今の彼女は、大人びた少女。そんな角の取れた可愛らしさがあった。
「待ってて!」
「あ、おい──」
僕はすかさずに答えると、トテトテと湖の方へ駆け足で向かった。
手を伸ばして制止しようとするアドニスも、空腹故か、それ以上何も言ってこなかった。
湖へ再びやってきた。
依然と青い芝生に囲まれており、静かに夜を反映させる水面。
僕は、鎧兜を上げて青火を晒す。
("青"なら、こういう使い方も出来るはず……)
それは喩えて言うなら超音波機。水中に向けて音波を放ち、遮蔽物や生物を探知する能力。
水面に波紋を生みながら僕は静かに獲物を探した──
しばらくして焚火の所へ戻ると、アドニスが心配した表情で迎えてくれた。
「どこへ行っていた」
「これ」
両手に掲げた丸々と肥えた魚。それを焚火の近くに置いて見せびらかす。魚は生き生きしており、体を逸らして跳ねていた。
アドニスは驚愕の表情を浮かべて一拍、僕の方へ視線を移して一言。
「これを、お前が?」
頷いて答える。
ソナーで岸まで近寄って来た魚。両手を網に変形しながら生捕りにしたのだ。
”青”の魔法は戦闘には特化してないにせよ、こういう生きる為に必要な術には秀でている。使い方にもよるのだろうが、”時止め”なんかより使い勝手がいい。
アドニスは生きた魚を見つめたまま、一向に動く気配を見せなかった。
空腹のはずなのに、どうしたのだろうか。
「獲ってきて申し訳ないが、私は生き物の捌き方が分からないんだ……いつもは部下やシエルに任せっきりでな。昔は独りでも生き抜く為に生ですら喰らい付いていたんだが……」
首を傾げる僕に察したのか、そう呟く彼女の瞳はずっと揺れていた。
翡翠の色は変わらないはずなのだが、奥に潜む野生染みた向上心というべきだろうか。または執着と喩えるべきだろうか。何かそう言った信念みたいなものが揺れていたのだ。
「切れるもの、ある?」
致し方ない。僕はアドニスに向かって手を出して刃物を申請した。
「……剣ならあるが」
「……もっと短いので」
「では予備の短剣を」
土が付かないように大きめの葉っぱに魚を置いて調理開始。
生前やっていたゲームの中にサバイバルものが記憶に残っている。それを頼りに魚を捌いてみる。
……やはりゲームと違って上手くは行かない。だが、それとなく形にはできた。
「あとは適当な棒で刺して──」
焚火の近くに刺して、焼き上がるまで放置。
よく見る魚の丸焼きである。
「お前は凄いな」
一通り調理を終えたところでアドニスが褒め称える。
”軍神”に褒められるとは恐れ多いと他の兵士たちは思うだろうが、僕の場合は何で褒めているのかがよく分からなかった。
またも首を傾げていると、彼女はポツポツと本心を語り出した。
「私は元々、極々普通の貴族令嬢だった。厳しい家系に生まれ育った故に、いち早く何かに秀でた才能を身に付けなければならなかった。気付けば私に出来ることと言えば、戦争に関するもののみとなった……料理など、自分の可能性を広げることは、何もして来なかった人間だ」
揺れる火を見つめて、アドニスはまたも自嘲気味に溢す。
貴族令嬢ってだけでも結構凄いことをサラッと言う。しかし、彼女の半生は物心ついた頃から色々と強いられるものばかりだったのだろう。
学園の生徒も然り。ある者は剣を、ある者は魔法を、ある者は政治を。己の才を更に磨く為に必死であった。それがおそらく貴族として生まれたものの宿命。
自由にやりたいことを選んで過ごしてきた僕とは違う価値観に、何か遠いもののようだと哀愁すら感じた。
「その点、お前はそんな形でも、出来る出来ない関わらず挑戦している。し続けている。私と違ってな」
「……自覚ないけど」
魚の調理にしろ何にしろ、僕は成り行きで行動を起こしているばかりだ。彼女にそこまで褒められるようなことは何もしていない。
首を横に振っても、彼女は「それでもだ」と言って賞賛を取り消さない。
「お前だけじゃない。リール・ヴァルヴァレット──彼も賞賛に値する。レヴィ副官も、シエルも、皆須く賞賛しよう」
アドニスは、溜息混じりに自分の唇を摩る。
「対する私はどうだ。タバコが無ければ己も偽れない、弱い人間だ──」
湖で言っていた言葉を再び、口にするのであった。
昨日は更新できず申し訳ございません!




