エピソード61 アドニス
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軍に仕えて十数年。昔の少女時代のことを思い返せば、今は随分と毒されたと己を顧みる。
全てはあの英雄たちの姿に憧れを抱いてから。今日までひたすらに勤めてきたつもりだ。
王都を救った英雄、ユース・ヴァルヴァレットとその仲間達。彼らにとっては王都の危機も世界救済の通り道だったかもしれない。それでも、彼女──フルール・フラムチェインの、あの包みこむような笑顔に何度励まされたことか。思い出す度に、釣られて笑みが溢れてしまう。
少しでも彼女たちのような沢山の笑顔を守る為、はたまた近付く為に、あらゆる研鑽の日々を送った。剣技、魔法、体術、戦略、軍術、社交、人脈……人界戦術の限りを尽くしてきた。
鼻にかけるつもりは毛頭ないが、自分の容姿も恵まれていることも相まって今の立場にまで上り詰めた。女という身でありながら軍部で少佐という肩書きを得られたのも、ひとえに優秀な家系あっての結果だ。両親には感謝しかない。
今では”軍神”なんて持て囃される有様だ。多宗教が入り混じるこの国で、”神”と付く二つ名は恐れ多いことこの上無い。
出世街道まっしぐら。しかして実りがあるかは、これから分かるというもの。
暗雲立ち込める早朝の中、見渡す限り草木しかない街道を魔法生物として生きる首のない馬に揺られながら行軍する。前には先陣を切る精鋭を馬に乗せて取り揃え、歩兵は後ろを整列して歩む。
アドニスは、変わり映えのしない景色を眺めながら思い馳せた。
討伐軍として抜擢されたこと自体は栄誉なことだ。我が家系の誉れである。
しかし、どうにも腑に落ちない点が幾つかあり、それが彼女の不安要素となって燻っていた。
上層部の不穏な動き。道理にそぐわぬ魔物の行動──
この村だけじゃない。もっと何か、大きな歯車が動き始めていると頭の中で告げていた。
「どうされました」
そばに寄ってきたのは右腕にして旧友のシエルだった。
数々の武功は、彼女なしでは語れない。
「いや、昔を思い出していただけだ」
「……にしては随分と眉間に皺が寄ってましたが?」
「許せ、性分だ」
捨てるように言いながら、アドニスはお気に入りのタバコを取り出して火を灯す。
昔はもっと頼れる朋がいた。だが真っ当に殉職した者や、立場や思想の違いで離れていった者も少なくない。
こんなやり取りも、今や彼女だけが許されている節がある。
「いや、つい先日、生意気な小娘にも言われてしまったな」
煙を吹かして、己の中で訂正する。
思えば、かの小娘は自分に臆した様子は微塵も無かった。先に弱味を見せたのは自分だとは言え、物怖じしないあの態度は素直に称賛する。
”軍神”と呼ばれるようになってからというものの、皆アドニスに頭を垂れる者ばかりだった。聞けば暴虐無人を体現した悪鬼だとか、冷徹非道に服を着た魔人だとか、噂に尾鰭が無限増殖ばかりで、否定するのも火に油を注ぐと思い黙っていたら、いつの間にか”軍神”は恐怖の象徴となっていた。
教員の牽引を引き受けた初日、生徒たちがこぞって平伏したのは良い思い出だ。
それに比べ、あの小娘はいつも堂々と誰かと接する。分け隔てなく自分の意見を述べられる今時珍しい人種だった。
だからなのだろう。かの英雄の娘と知って、心躍る自分がいた。
「もう少し優しい笑顔は浮かべられないのですか。それでは兵士たちの指揮にも関わります」
「……笑っていたように見えたか?」
「ええ。噂に違わぬ類のものでしたが」
「お前には恐れ入るよ。占い師に向いている」
心を読んだのか、再度シエルから小言が飛んできた。旧友の仲とはいえ言われっぱなしは性に合わない為、咄嗟に言い返す。皮肉のパイ投げはお手のものだ。
だが、今この場において不用意な緩みは命取りになる。
わざわざ口にこそしないが、彼女みたいな堅物では先ず言わないだろう一言に違和感を持つ。
いや、違和感は自分にこそ向けられているのだと悟った。
「シエル」
「はっ──」
短く返事をする彼女に、端的に伝える。
「この作戦には正直、疑念が絶えん」
「それは……」
昨晩、カナリアとの対話を掘り返す。
そうだ。自分には心強い部下がいる。弱味を見せまいと躍起になっていたが、今この時だけは自分で塗装したメッキを剥がした。
「聞け、貴様ら!」
シエルが口を開きかけたのも束の間、アドニスは行軍する兵士全員に向かって叫んだ。
「善良な民を救うべく磨き上げた剣こそ、我々の誇り! だが貴様らもこの”軍神”の手足であることを忘れるな!」
声は街道中を轟き、兵士は静かに耳を傾ける。
「敵前逃亡など兵士として一生の恥だ! 逃げ帰った者は一人残らず鍛え直してやるから覚悟しろ!」
聞いていた兵士たちがざわつき始める。本来なら処刑だと言って逃げ道を塞ぐのが通例なのだが、今回ばかりは違う。
逃げてもいい。恥を呑んで生にしがみ付け。檄の裏には兵士一人ひとりに願いが込められていた。
最後に、
「それでも勇敢に立ち向かう我が私兵よ、死ぬことは許さん。心して掛かれ!」
と締め括った。
兵士たちのざわつきが一斉に止む。そして各々が胸の中で檄の内容を反芻し、理解する。
──少佐殿は、暗に自分たちの身を案じている。それほど今回の作戦は鬼一口なのだ。
逃げてもいいとはつまりそういう事だ。わざわざ”軍神”の二つ名を使ってまで粋な計らいのオマケ付きである。
「……素直じゃないんだから」
わざとらしく紫煙を吐く彼女を見て、シエルは小さく微笑んだ。
珍しく少佐が自分たちを頼ってくれている。今の言動には、そう思わせるには充分だったのだ。
久しく、シエルの手に力が籠もった。
「──止まれ」
「行軍やめぇ!」
しばらくして、アドニスが馬の足を止めると隣にいた指揮長が急いで声を張り上げた。
釣られて後ろに続く歩兵たちの歩みも止まり、皆一斉に警戒心を高めた。
「少佐──」
「ああ、ご丁寧にお出迎えのようだ」
シエルが異様なマナの空気を逸早く察知し、馬を寄せた。だが、それには及ばんとばかりにアドニスはタバコの火を強く握り締めて消す。
淡い翡翠の瞳が鋭く捉える。
その矢先には、この世界では奇怪で奇形。鉄と思しき塊がある形を成していた。
竜。巨躯な体には翼があり、羽ばたく度に異音を轟かせ、首ながの頭にはトカゲのような頭と怪しげな光を放つ眼。うねる尾はバラバラと鉄屑を撒き散らして地面に降り注ぐ。
報告にあった”鉄の竜”。それがまさしく空の彼方から舞い降りたのだ。




