エピソード50 六堂理その2
その日の綾瀬は様子が違った。
いつもなら部活動が終わる頃には僕と帰宅するのが暗黙の了解だったはずなのに、今日は教室に来る気配がなかった。
待ちぼうけするのも退屈なので、自ら行動を起こす。たまには僕から帰りを誘っても構わないだろう。
教室を出て、僕は音楽室へ向かった。
この時間帯の音楽室は、通常なら吹奏楽部が使用しているはずである。
しかし、活動場所を移して行う時間が必ずあった。それもそのはず。綾瀬が音楽室でピアノを演奏しているからだ。
どうやって吹奏楽部を説得したのかは不明だが、部活動の半分を押し退けて、現在音楽室は彼女が独占している。
近づくとピアノの音色が耳を撫でた。
心地いい。彼女の指が奏でているというだけで、子守唄になる。
なんの曲かは分からないが、静かで心安らぐ曲だった。
「────」
戸を静かに開けて中の様子を伺った。
まず視界に入ったのは、黒板のすぐ横に佇むグランドピアノ。差し込む夕焼けに照らされ黒い光沢を放っている。美しい音色を鳴らし、奏でる細い指は鍵盤の上を滑らかに走る。暗記しているのか、瞼を閉じて己の音色に耳を傾ける綾瀬の姿がそこにあった。
目を奪われた。
何度見ても、彼女の横顔を見るだけで胸が締め付けられた。
幾度とコンクールに出場し、受賞してきた才女の音は、教室中に反響して僕の鼓膜を揺るがす。
そして、心までも揺るがしてしまうのだ。
(邪魔、しちゃいけないよな……)
そう思い、静かに教室を出ようとした時だった。
バン──
「っ!」
突如、演奏がデタラメの騒音で掻き消えた。
驚いて、戸に足をぶつけてしまう。
「……居たんだ」
戸をぶつける音に反応して、綾瀬は鍵盤を叩きつけた姿勢から直す。
「もしかして、聞いてた?」
「……ああ」
そう相槌を打つと、彼女は俯くように鍵盤を眺めた。
「コンクール、近いんだ」
彼女は目に見えて悩んでいた。
人前で演奏するなんてことは、きっと思っている以上の重圧なのだろう。
さっきの演奏に何が納得いかないのか、音楽に関して全くの無知な僕では検討もつかなかった。
「いい曲だと思うけど」
何か言わなくちゃならないと思って、分かったような口を滑らせてしまう。
「思った通りの音を出すの、案外むずかしいんだよ?」
そう言って、彼女は困ったように微笑む。
そして再び、鍵盤に指を置いた。
初めからの演奏が始まるが、それもすぐに、
バン──
と再び鍵盤を叩いて終わってしまった。
その光景に、既視感を覚えた。
こんな思い悩んでいる綾瀬を見るのは、記憶の中では初めてのはずだった。
何か、言いたいことがある。しかし、言葉の輪郭がぼやけて上手く纏まらずにいた。
「……今日は先帰ってて」
綾瀬が冷たく呟く。
静寂した教室で、やけにハッキリとその言葉が胸を刺す。
今は独りにさせて欲しい。そう聞こえて、何か言おうと開きかけた口が空気を噛んで押し込めた。
夕日の逆光で彼女の顔が影で覆われ、表情が読み取れない。
「わかった」
下手なことを口走ってしまう前に、短く返事をして教室を出る。
完全に影の中にあった薄暗い廊下を歩く中、来る途中で耳にした曲が再び流れることはなかった。
道中、一人の男子生徒とすれ違った。
音楽室に向かう様子から察するに、吹奏楽部の誰かだろう。
もう放課後。短針は五時を指しており、下校時刻を告げていた。
次の日。いつも通りに登校して授業を受け、帰宅する時刻と相なった。
(さすがに今日も一緒に帰れないよな……)
コンクールの日が近付いていると本人が言っていたのだ。
悪いが、自分ではどうしようもできない。こればっかりは綾瀬が乗り越えなければならない壁なのだろう。
本当はそばに居て慰めの言葉の一つや二つ掛けてやりたいところだが、余計なお世話だろうし、僕なんかが力になってあげられるのかという不安の方が大きい。
しばらくは独りで帰ることが多くなると予想する。溜息しか出てこなかった。
しかし昨日、あれだけ真剣に頑張っている姿を見せられれば、多少なりとも我慢する他ない。
(そもそも、彼氏彼女の関係でもないしな)
学校一の美少女の幼馴染み。それだけで世の男子どもは目に血の涙を浮かべて羨ましがっている。現に、一緒に登下校するような親しい友人なんていないのが何よりも証拠だ。
綾瀬と距離が近いという光景が、拍車をかけて距離を置かれている節が否めない。
(まぁ、そもそも僕が人付き合いが苦手ってのもあるんだろうけど……)
諸々の要因を抜きにしても、幼馴染みという立場に甘んじて綾瀬に貴重な時間を奪う行為なんて、愚の骨頂だ。
そう思って今日は夕暮れを待たず速やかに帰り支度を整える。
「へぇー、今日は居眠りしてないんだ」
途端に、後ろから声をかけられる。
「あ、綾瀬……」
驚いて振り返ると、綾瀬がカバンを片手に教室に来ていた。
いつもの眩しい笑みを浮かべて、昨日の悩みなんてなかったかのように晴れ渡っていた。
「かーえろっ」
「え、でも……」
練習は? と聞けなかった。
意外すぎる。昨日あれだけ必死だったのに、コンクールも間近だって言っていたのに、どういう心の変化だ?
そんな戸惑いもお構いなしに、辺りがざわつき始めた。
ホームルームが終わった直後なため、教室にはまだ生徒が残っている。突然、学校一の有名人が教室に来て僕なんかと帰路を共にしようと言えば、嫌でも目立つ。
「いこっ」
袖を掴まれ、教室から引っ張り出される。
クラスで変な噂が流れるのではないか、なんて自惚れた考えは過らなかった。
不自然なほど自然な態度の綾瀬に、僕は困惑するばかりだった。
校門を抜け、僕たちはいつも通りに肩を並べて歩く。
違うのは景色だった。まだ日も明るいうちにこうして下校するのは、いつぶりだろうか。
しばらく、お互いに会話もなしに歩き続けた。未だ沈黙が許されているのが嬉しかったのだが、今だけは気まずい空気だ。
「なーんかね、思い詰めすぎちゃってたみたい」
ふと、綾瀬が口にする。
まだ明るい空を見上げ、季節にはやや早い積乱雲を眺めている。
何が、なんて言わずも知れていた。
「昨日、あのあと教室を閉めに来た先輩に言われたんだ。ツライなら一度やめるのも手だぞって──」
昨日すれ違った男子生徒のことだろうか。
薄暗くて容姿はよく見えなかったが、あの時間に音楽室へやってきたのなら、彼しかいないだろう。
綾瀬は続けた。
「そう言われて、肩の荷が降りたっていうか、楽になったの。ああ、頑張らなくてもいいんだって」
尻目に彼女の瞳を覗く。
今ある空のように曇りない瞳。鏡みたいに澄み切っていて、その奥には彼の先輩の姿を思い浮かべているのが見て取れた。
「そんで昨日ずっと考えてたんだけど、なんか時間の無駄かなって思って。ピアノ辞めることにした!」
衝撃だった。あれだけ頑張っていたのにも関わらず、時間の無駄って言って切り捨てようとしている綾瀬に、内心で焦った。
「そっか……」
努めて平然を装えたのは、頭の片隅でどこか安堵している自分がいたからだ。
あれだけ苦しんでいた彼女が救われた。というのは建前で、本音はもっと暗い根にある。
優秀な才女も、諦めることもあるんだ。高嶺の花だった彼女が、今はとても身近に感じる安心感。
同時に、なんで簡単に諦めてしまうんだという気持ちが醜草となって地を荒らす。
「うん。ここのところ練習ばっかだったから色々やりたいこと出来そうだし、今は精々してる」
「それは良かったな」
良くなんかない。
なんだよ時間の無駄って。僕たちのあの時間も無駄だって言いたいのかよ。
綾瀬が決めたことに、僕が口出しする権利なんてない。当然だ。誰も個人の意思を捻じ曲げることなんて許されるはずがない。
それと同じように、あの男子も綾瀬の頑張りに口出しする権利なんてないはず。なのに──
どんどん心が掻き乱される。
「あーでも、お礼は言わないとね……なんていう人なんだろ」
季節外れの積乱雲。
見れば綺麗な白の綿菓子だが、僕にはどんよりとした暗雲にしか見えなかった。




