幸田露伴「対髑髏」現代語勝手訳 その(三)
(三)
聞けば聞く程筋のわからぬ
恋路のはじめと悟りの終わり
よくよくただして見れば世間に多い事
その時お妙は、長江を渡る風が軽やかに雲を吹き流し、おぼろに霞んだ春の夜の月が大空に浮かぶような風情で、満面は神々しいばかりに活き活きと、しかも柔しく、美玉の産地である藍田に籠った霞が暖かく草を蒸して、ほやりほやりと光り和らぐ玉に陽炎が立つ如く、両眼をちらちらとうれしげに動かして、
「お聞きください、露伴様。私は幼少から東京に育ち、両親は裕福で豊かな暮らしをしておりました。薄を象った銀の簪を挿しながら、露を見ては『これは何?』などと訊いていた幼い頃は、『蝶よ』と愛しがられ、風を嫌って縮緬の振り袖で顔を蔽うような頃には『花よ』と慈しまれ、目に映る世界を楽しんで長閑に一年を過ごしました。冬を送り、春を迎える度毎に買ってもらう羽子板と共に齢を重ね、背丈も大きくなっていったのですが、私が十四の時でした、思いもかけず父様が亡くなってしまったのでございます。その悲しさにやりきれなくなり、これまで芝居を見た時にしか涙を見せなかった私でしたが、ひたすら涙もろくなって、果敢ない野辺に父様を埋葬した時の一条の煙を見てからは、三度三度の食事の時にも父上の座っていた場所が空しく空いているのを見て、揃っていた前歯が一本抜けてしまったような気持ちになりました。また、母様もしょんぼりと心淋しく、食事を前にしても箸を持つ気力さえ衰えてしまったかのような召し上がり方で、私がそんな母様を見て悲しむと、母様もそんな私を見て、胸がつかえるのか、召し上がるご飯の量も少なくなり、いたずらに白湯ばかり飲んでは、そっと瞼に涙を浮かべられるようになりました。私も口の中のものの味がいつの間にか消えてしまい、奥歯を噛みしめたまま開くこともできなくなって、私はそれ以降、自然と閉じこもりがちになってしまいました。
普段は好きだった三味の色糸も引き鳴らそうともせず、琴のお師匠にも忌中で休みを取ったままにして遠ざかり、母様が持っておられた読み物のあれこれに馴染んで、あることないことが書かれた本の中にわずかな楽しみを見出していたのでございます。終にそれが癖となり、あれもこれも読み尽くした後、『薄雪物語』、『住吉物語』、『伊勢物語』、『竹取物語』を、そして三年のうちには、解らないままに『源氏物語』、『狭衣物語』まで読むに至り、その間につくづくと人情というものの濃い薄いを考えさせられ、世の中の真実と虚妄を覚えたのでございます。昔から、男というものはあさましく、気持ちも一時なら、情も一時。思い込みは強いけれど、辛抱に弱く、逢うのは悦ぶが、別れを悲しまない。媚めかしくて、へつらうゾッとするような女を好み、恋を単なる手練手管の勝利品とだけしか考えず、犬猫で言えば色合いの綺麗なのを好むように、髪型、容姿が整っただけの女を愛するのだと悟りました。
私には縁もゆかりもない男ですが、源氏、業平のような戯けた男を深く憎んで、決して嫉妬ではなく、そういう戯けた男に血道を上げる色んな女たちが歯がゆく、馬鹿だと心の中で思っておりました。
そんな中、私が十八の時、母様もまた老いの病により、余命も短くなってしまいました。兄弟姉妹のない私は気が弱くなり、朝に夕に神仏に祈り、心で泣きながら母様を介抱していたのですが、その甲斐もなく……。
臨終の間際に母様が言うには、
「私が亡くなった後は、これを見て、一生の身の程を知れ」と、流れる水に散り浮く花を青貝摺りした黒塗りの小箱を残してご往生。悲しいとか、辛いとか言う言葉さえ忘れてしまうほどの嘆きで、ようやく葬儀を終えてから、例の小箱を開いてみると、いつの間に書かれていたのか一通の書き置き。母様はこれほどまでに私を愛しく思っていたのだと、その気持ちに涙しながら読み進めれば……。あぁ、その時の心持ち、今思い出しても慄然とするほどの恐ろしさ、口惜しさ、悲しさ、情けなさ、味気なさ、胸悪さ、あさましい心細さ。これ以上はないという嫌悪の気持ちが一度にドッと込み上げてきて、全身に氷水を浴びせられたように、あるいは猛火に眉を焼かれたように冷や汗が脇の下に湧いて、身震いが止められず、気持ちが真っ暗になり、目もくらくらと暗くなって、命も果ててしまいそうになり、それから後はますますこの浮き世というものを嫌って……」
「イヤ、お話の途中ですが、その黒塗りの小箱に入っていた手紙、そこに書かれてあることがどうしてそんなにもあなたを驚かせたのでしょう」
「マァ、お聞きください。その手紙に書かれてあったことを私の口から話すのはとても辛うございます。さて、私は十九の春を迎えて、空しく時節を過ごします。今まで親類のように私の両親と付き合っていた誰も彼もが、私を嫁にしたい、あるいは自分の息子を婿に世話すると言い寄って来たのですが、すぐにこれはあさましい嘘の人情だと思ったのでございます。女盛りはせいぜい十年、結局は財産目当ての申し込みに違いないと勘ぐって、一つ一つきびしく我が家の使用人から断らせ、ひたすら母様を慕い、哀れなこの身など朽ちてしまって、魂だけになり母様の傍に行きたいと焦り、生命など惜しくもなく、世の中に何の楽しみも見い出せず、読みふけっていた数々の物語も捨ててしまって再び読むこともなく、男と顔を合わすことさえ忌み嫌うようになりました。蓮っ葉な下女たちが若くて綺麗な俳優の噂をするのまで苦々しく思うようになり、自然と自分は髪に油の香りも付けず、鬢に櫛を梳かせて形を整えることもせず、まして前簪にはどんな鼈甲が似合うだろうかとか、根掛けには鹿の子紋を使えばいいかどうかなど、訊きも尋ねもせず、紅脂白粉をつけることなどもまったく忘れておりました。どんな帯にしようかと悩んだは昔のこと、下駄の鼻緒を選んだのも昔のこと、羽織の色がどうであろうと、着物の取り合わせがどうであろうと、女のたしなみを一切捨てて、面白くもない心を抱えながら、目にはいつも涙を溜めているせいで世界も薄暗く見え、花は咲いても自分は萎れたまま、鳥は歌っても自分は喋る気にもなれません。白々と澄んだ月を見ても濁り水のような自分にはその姿は清く宿らず、ただぼんやり鬱々として、寝て起きて食べてなどしていても何にもしていないのと同じでした。我が身はもうどうなってもよいと自堕落に任せ、神を恨み、仏を恨み、人を恨み、天地を恨んで悶え苦しむ気持ちがますます大きくなるばかりで、遂には神を憤り、仏を憤り、もしも今この世に姿を現すようなことがあれば、針の先で突いてやりたい、とまでに気持ちも追い逼られ、道理など何も恐ろしくはなく、何を言われても別に怖くも何ともない。また、人情というものも、謂わば氷柱に一時だけ綺麗な色が彩られるのと同じで、夢にもうれしいものだと感じず、胸の中には霜や雪が寒く残るように、惨めな観念が絶えず占めている状況でありました。
そんなある日のこと、立派な蝋塗りの人力車が家の前に止まり、立派な髯を蓄えた役人風の男が訪ねてきたのです。差し出された名刺を見れば、『何某局長奏任一等』の偉いお方で、当時の実力者と評判の人でしたので、我が家の家事全般を取り仕切る後見人の老僕が応対して、『どのようなご用件でしょう』と尋ねますと、
『突然の訪問、誠に失礼とは思いましたが、他に伝手もなく、やむを得ず直接お伺いをさせていただいた次第』と前置きをして、『つかぬ事をお聞きいたしますが、当家のご主人はお年頃と思われますが、未だどなたとも縁談のお約束はございませんか。実は私の旧藩主の若殿が見ぬ恋に憧れておられまして、是非にと希望なさっているという訳なのです。と、こう言ってもお分かりにはならないと思いますが、今年の春、若殿が郊外を散歩しておられた折、ある墓地を通りかかった際、ふと物乞い達の話しを耳にしたところ、今帰って行ったあの娘、容貌が美しいばかりか、親孝行の心がいじらしく、滲み出るようで、母親の墓の前に蹲ったまま身動きもせず、涙は雨の降るほどに泣いて泣いて、若い身でありながら命も惜しいと思わず、早く母様のお傍に行きたいと話すなど、何と気立てのいい女ではないかと、一人が言うと、その話をまた一人が引き取って、お前は今日初めてあの娘に気づいたのか、あれは毎月のこと。去年の何月だったか、あの娘の親がここに葬られてからというもの、毎月の命日には怠ることなくここに来てあのとおりの悲哀振り、他所で見ても可哀想な有り様、今日などは殊更に顔も大分痩せて血色も悪い、大方家にいても始終泣いてばかりいるのだろうという噂。それを聞くなり若殿は鳥肌の立つような思いにとらわれ、その話に誘われて涙をほろりとこぼされた。この一雫が恋の源泉で、それから思いは泉のように湧いて出た。決して浮ついた気持ちではなく、その娘はどこの誰だろうと、恋がさせる探索が始まりました。それから後、お名前、ご住所までいつの間にかお知りなって、ますます恋い焦がれ、ついに父上の許しを得ることになり、これにより、とにかく私が中に立って、仲介のお手伝いをしようとわざわざ伺った次第。内々のお話では、まだどなたともご縁談がお決まりではないとのこと。そうであれば、この話、よくよくお考えになってはいただけないか。媒人口を叩く訳ではないが、ご本人は旧藩主のご嫡子、爵位や財産は世間の評判などでもご存じの通り。特に、先年ドイツに留学されて学位もお持ち。華族間でも行く末を嘱望されておられる方。浮わついた気持ちだとか、大名風を吹かせてのわがままで縁談を申し入れるのでは決してございません。四民平等の今日ではありますが、ご当家のご主人は、後々、実質の伯爵夫人におなりになって、我々もあがめるようになる方であると思っております。お話ししたような経過で恋が始まったという次第でもありますので、よくよくお考えいただき、なるべく色よいご返事を賜りたい』と申し立てて帰って行ったのでございます。
応対した老僕は小躍りするほど喜んで、いつものしなびた顔もその時ばかりは光り輝き、私に向かって、この縁談は是非お受けくださいと説いたのでした。私も一度は、そんな高貴な方に恋乞われたと聞いて、カッとのぼせたものの、しかしまた、これも男の一時の熱に違いなく、やがてはそんな気持ちも褪めてしまう好色から出た気持ちからなのだと蔑視み、そして、またもう一度母の書き置きを思い出して、たちまち身震いが生じ、『イヤ、イヤ、イヤ、イヤ、縁談の話など聞きたくない』と強く言えば、老僕は驚いて、『これほど結構な縁談を嫌だと言うのはあまりにも馬鹿げていますぞ』と理屈で諭し、言葉を尽くし、私を諫めるけれど、私の気持ちは少しも動かないので、やむを得ずその申し出を断りました。情けを知らない人間だと陰口を叩かれるのは別に厭わなかったのです。しかし、私はその時から何となく今までとは違う気持ちを持つようになりました。ひどく男を嫌うこともせず、厭でしょうがなかった気持ちもいつしか和らぎ、髪の形も気にするようになって、平常心を取り戻すようになりました。そんなところに、三ヶ月ほど経って、また例の『何某の局長』が来られて、私の後見人に向かいこう言ったのです。
『先だっての話がまとまらなくなってからといいうもの、さすがに活発で聡明な若殿の様子もすっかりと変わっておしまいになり、外出もされず、かと言って本も読まれず、花を見ても月を見ても、「はぁ~」と、ため息ばかりをつかれるようになりました。
「望みが絶たれてしまったこの世に、まだ絶つことのないこの命があるのは悲しいこと限りない」「あっても何の甲斐もない命は一体誰のためにあるのか分からない」と延々と嘆かれ、次第次第に三度のお食事も進まなくなり、昼はウトウトとお眠りになって、夜は夜で寝床で寝付けずに寝返りばかり。お可哀想だと、お付きの者はお慰めし、父君などは、愚かというのはお前のそういうことを指すのだと、お叱りになりますが、
ただただ消なば消ぬべき露の身の散りなば人のあわれとや見ん
つれなき人は恨めしからで疎まれし我こそうとましき
などと、朝に夕に、早く命を投げ捨ててしまいたいとの独り言。そんなご様子を耳にして、母君はお堪えになることができず、再び私を呼んでこの度のお使いとなりました。そういうことでありますので、なにとぞその辺の所をご推察いただき、もしもご不足な点がございましたら何なりとお申しください。一つ一つ、お指揮に従う所存でございますので、この恋がどうか成就いたしますようお願いをいたすところでございます』と情を尽くし、道理を責めての話でありました。
その時、私はふすま越しに聞いて、思わず泣いてしまいました。老僕が私に向かってどう返事をするのかを相談した時、またもや母が残した書き置きのことが頭に浮かび、ただただすげなく、多くの人から呆れられるのも構わないとの思いで、この縁談は厭であるとキッパリ言い切りました。それ故、もう、これでこの話は終わったと思っていたのですが、また一月ほど経った後に例の人がやって来たのです。
『若殿は終にこの世を果敢なく思われるあまり、うつらうつらと病の床に打ち臥せられ、その後は枕を上げることもお出来になれず、治療の方法もない状態となられました。父君、母君も今となっては、最愛のご嫡子の有様に心弱くなられ、お二人がご心配されますご様子は傍で見ているものにも痛ましく感じられるほどであります。願わくば思い返していただき、良いご返事をお聞かせいただくよう、おとりなしいただきたく参上した次第でございます。これは、若殿のご病床の中で、書き捨てられていた反故でありますが、恋の切なる事情が表れて隠せず、せめてこれだけでもお見せして、少しは哀れを汲み取っていただければと思い持ってまいりました。また、これは若殿がまだご病気におなりになる前のお写真で、これも一緒にお持ちしました。ご返事は明日またお伺いに上がった時にいただきますが、その時のお返事がいかなるものであっても、若殿が命をかけて焦がれなさった方のお写真、それを一枚だけでもいただければと思っております』と言い残して帰って行ったのです。
老僕はまた私に色々と説き諭して、「是非、是非この縁談をご了承なさいませ。これは浅からぬ因縁なのでしょう」と泣いて勧めましたが、私は剛情に突っぱねて承知をいたしませんでした。老僕は怒って立ち去ってしまいましたが、その時残していった写真は、見るに気高く美しいお顔立ちで、愛しさも湧いてきたばかりか、短冊に筆の跡も弱々しく、
燈火も暗うなりゆく夜半の床に こゝろきえぎえ人をしぞ思う
と、覚束なくお書きになっているのを見て、私の魂魄もゆらゆらと揺らぎましたが、やはりまた、母君の遺書を思い出して、このような高貴な方に近づくべきではないと、翌日もつれない返事をさせて、写真も渡さずにいたのです。
そうして十日ほど過ぎた時、家の門に慌ただしく車を寄せて、例の何某が今にも転びそうな足取りで走ってきて、眼付きさえいつもとは違って涙ぐみながら、
「本当につれないこの家の恋れ人よ、今日はもう何が何でも返事の如何にかかわらず、お屋敷までお越しいただきます。若殿のお命、明日まで持たないだろうとの医師の判断。父君母君はもちろん、我らまでの嘆きを察していただきたい。特に今朝若殿の口ずさまれた一首、
厭はれし、身をうきものと知りながら 尚捨てがたき……
と、後の一句を残して、血をお吐きになられたお有り様。肺病もつまりは恋故のこと。仮に女は鬼であるとしても、これほどまでに思われながら、まだこれ以上辛く当たるお心算か」と、半ば恨み、半ば怒って私を引っ立てて行こうとするのを、私はまた身を切られるよりも切ない思いでいましたが、ますます剛情に行こうとはしないでいるところへ、また車の音がして、お付きの人を後に、形振り構わず、取り乱したように家に来られたのは上品な夫人。言葉も狂おし気に
「お妙様とはあなたか。我が子が今臨終の際に一目おまえ様を見たいと、効かない舌を無理に動かしての望み、この通り、手を合わして願います。お厭かも知れませんが、もう、是が非でも来ていただきます」と伯爵夫人とも言われる尊い人に拝まれて、心は洪水に漂わされたみたいにウロウロしているところを、無理に引き立てられるようにして車に乗りましたが、何だかもう、夢路を辿っているような心持ちでした。
立派なお邸の中に入れば、人々が声を限りに呼ぶ声が響いてきます。早くも切々と悲しみ泣く女の声も聞こえる中、夫人は慌てて幾間か通り過ぎられれば、私も引かれる手を振り払えず、その後について病室に入りました。見ると、本当にお痩せになったお有り様で、今、まさに危うい命を呼び戻されたように母君のお顔をご覧になって、さめざめと泣かれるおいたわしさ。
これは誰のせい? これは私のせいなのだ。そう思うともったいなくて、もう消え入りたい気持ちになりましたが、そんな私を夫人は若殿のすぐ前に押し出しました。若殿のお傍に参り、もう我を忘れて涙を包みきれず、お手を取ったままなぜか分からないまま泣き伏せると、若殿も涙ながらに私をご覧になって、お言葉はありませんでしたが、私の手を微弱い力を籠めて幽かに握り返されました。そのまま私は気を失って夢に落ちるような状態になりましたが、気づけば、若殿は終に蘇生られることなく、お亡くなりになっておられました。
私はもうこの世に生きる心地もなく、帰ってからはその人のことだけを思い続け、なまじ自分が生き残っているのを口惜しく思うようになり、ますます天地を恨み、憤りを感じて、気も狂うほどになりました。
若殿の初七日の夜、家で一人、我が家の仏前で看経していたのですが、その時、朦朧と目の前にお現れになられた若殿のお姿の後を慕うように後を追い、家を脱け出て、どこかわからぬ場所を彷徨い歩きました。迷い歩く眼には実在するものは映らず、ただただ幻影を見るばかりで、はしたないほど半狂乱になっていましたが、気がつけばいつの間にかこの山の中に来ていたのです。そして、たまたま徳の高いお坊様に出会い、一念発起して坐禅の庵をここに結ぶことにしたのです。
それからは、渓の水かさが増えたことで春を知り、峰の木の葉がひらひらと翻っていることで冬を悟るという住居で、もの静かな生活を送っていますと、世の中の不思議が見えてきます。思えば世の人々はみんなそれぞれ面白いものだと、おどろおどろしかった昔の胸の固い氷が砕けていきました。東風が吹く空に陽炎が立つか立たないかくらいの果敢ないこの身も面白く、仏も可愛く、凡夫も可愛く、あなたも真に可愛く、憎いものなどこの世にはなし。木々の間に巣を作っている鳥も可愛く、土の中の狐も可愛い。清らかな心が生まれ、世界の至る所に薫ばしい匂いが立ちこめます。一切の事物は心の外にあるのではなく、心の中にあると言う素晴らしい唯識の妙理の味わいは更に濃くなり、泥と水が相分かれて清らかに澄めば、天上の月を宿すという瓔珞経の趣がますます興味深く感じられ、私を哀れだと人が言うのも面白く、私を嫌いだという人も興味深く思えます。あなたを愛おしいと思ったからこそ抱いて寝ようと申しましたのに、それを厭がられたのはそれこそ面白い。私は昔、死ぬほど人に恋われても、その人に辛く当たったものなのに、今では死ぬほど人に厭がられています。けれど、それも愛おしいと思います。心は一つなのにそれが変化して、同じ世界を恨んだり楽しんだりするとは、本当におもしろいもの」と、女は長々と語るけれど、なぜそうなったのか私にはさっぱりわからなかった。
「もしもし、お妙さま、その話の中の骨となる大事な部分、流れる水に散り浮く花を青貝摺りした黒塗りの小箱の中の書き置きは一体どういうものだったのでしょうか。それを知らずにはこの話はよく理解できません」と言えば、
「ハテ、本当に野暮なことをお聞きなさる。そんなことを聞くようでは、あなたもまだ人情というものをご存じないお方としか思えません。その書き置きを読んで、心が酷くなると言えば言わずと知れたこと。世を捨てよという教訓、この浮き世を捨てなくてはならない理由を書いたのに決まっているではありませんか」
「それはどういうことでしょう? この世を捨てねばならない理由などどこにもありません」
「イヤイヤ、私たちのような者はどうしても世間から身を隠さねばならず(†後書き参照)、そうしなければ心安まることがないのです。だからこそ、最初は神をも仏をも恨んだのです」
「それにしても、よくわからない話です」と私が言うと、
「イエイエ、よくわかった話ではありませんか。深い山奥で野垂れ死にをしなければならない私たちの身の上。世間の人はぼんやりばかりで、様々のあわれは知っていながら、私たちには降り注ぐ月の光も太陽の輝きも、まったく暗いものとしか感じられず、花にも鳥にも心が動かされるということがないことを知らないのです。だから、あの若殿に早く我が身を任せなかったのも、若殿の子孫を自分と同じ酷い運命にしてはいけないという真実の気持ちがあったからなのです。その時の私の苦しさを想像していただかねば……」と、お妙は沈んだ調子で答えたが、急に語気を変えて、
「ホホホホ、面白くもない長話し、もう止めにいたしましょう。これ以上言うのも煩わしいし、語ることは言い尽くしました。恋と恨みは隣同士。はい、これまで、これまで。恨み節もこれまでにしておきましょう」と言いながら、木の切れ端を居炉裏に焚べる顔の美麗しさ。水晶のような醒めた色ではなく、瑪瑙の持つ酔ったような艶っぽい美麗しさであった。
やがてまた、かすかに私を見て、
「あら、余計なことを言っている間に夜は短くなってしまって……、お名残惜しゅうございますが、明るくなってしまえば一時の縁もこれまで。あなたは片科川に浮く花、その香りは急流を伴いながら速やかに十里を飛びます。私はその川の岸に立つ柳。影は水底に沈んで一歩も動くことさえ出来ません。逢った喜びと別離の辛さは何も戯けた男女の翌朝だけではありません」と言えば、その時まさに朝日が紅々とさし昇って、家も人も雲霧となって消えてしまい、枯れ残った往年の萱薄の中に、雪沓の紐を繋ぎかけたまましゃがんでいる自分がただ一人。見れば、足下に白髑髏が一つ。
見てわからない時は聞いて知るべし。聞いてわからない時は想像してみるべし。想像してもわからない時は感じるべし。
私が彼女を憐れめば彼女は私を愛おしみ、互いに相憐れみ、相愛おしめば彼女の中に私が、そして私の中に彼女がいるという風に、もはや二人の間には隔てなどなくなり、それぞれの情意を悟ることができる。すなわち、二つの世界は一つになったのである。
人里離れた山中の髑髏が、寂しく一人旅する私の心を牽き寄せ、私は牽かれるままに、その髑髏の前世を観た。これは前世の宿縁によるもので、自分は現世では捨て置かれることなく、出会う縁があったということだ。その縁により、一本の樹の下でお互い一夜を過ごしたのであった。一連の話を聞き出すべく水を向ければ、巫女が用いる梓の神の弓のように魂魄をどうこうすることは出来ないけれど、彼女の語る話に私がその思いを受け止め、心の絃を響かせたことによって、亡霊は成仏し、後に一つの髑髏だけがポツンと残されたのである。
私はその髑髏を土中に埋め納めて、合掌し、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、お陰さまで昨夜は面白うございました」と礼を述べ、徐々に川縁を歩いて小川村に出て、そこの温泉宿に入った。
そして、そこの宿の亭主に、
「この山奥に入ったまま出てこなかった人はいなかったか」と訊けば、亭主は怪訝な顔をしてしばらく考え、
「不思議なことをお訊きになりますなあ」と言った後、思い出したように、
「オォそうそう、去年のことでしたが、物乞いの女が、はしたないくらい狂い狂って、山の奥深く入ったことがありました。日光の方へは出ていないようなので、どこへ行ってしまったのかと、今もその噂がありますが、そのことをお尋ねか」と言うので、
「それよ、それ。その女の様子を知っているだけ詳しく教えて欲しいのだ」と逼れば、老父は苦い顔をして、私をジロジロ見ながら、
「歳はおおよそ二十七、八。どこの者かも分からず、色目も見えない程汚れて、垢の付いた襤褸を纏い、破れ笠を背負って裸足で、竹の杖に弱々とすがり、話をするのも忌まわしい有り様。全身、色は薄黒赤く、身体の所々に紫色がかって怪しく光るものがある。手足の指は丁度生姜の根っこのように曲がって筋も見えない程膨れ、殊更左の足の指はわずかに三本だけ残っておりましたが、その一本の太さと言えば、普通の人の二本分はあって、それが足の甲までむっくりと浮腫んでいる。右足は親指を失った痕がかすかに見え、右手の小指の骨も無いくらいに柔らかそうに縮みながら、水を含んで気味の悪い大きな蚕のようでした。左手の指はほとんど落ちてしまい、拳頭のようにずんぐりと丸く、顔はと言えば、いよいよ恐ろしく、銅で作った獅子が半ば熔ろけたようで、眉の毛は尽く抜け落ち、額は一体に凸く張り出して、所々に凹んだ穴が空いており、その穴の部分は褪めた紫色の上に溝泥を薄くなすりつけたよりもまだ汚く、黄色を帯びて鼠色に牡蠣が腐って流れたような膿汁がジクジクと溢れ、その膿汁に覆われていないところは赤ん坊の舌のような赤い肉がむごたらしく露出し、鼻柱は欠けて、そこにも膿汁をしたたか湛え、上唇はとろけ去って、そこに現れた疎らな歯の黄ばんだのと痩せ白んだ歯茎が互いに照り合って、すさまじい形相。口の右方は段々と爛れ流れ、頬の半ばまで引き裂けて、奥歯が人を睨んでいるように透いて見え、髪の毛など全くなく、朱塗りの賓頭盧が何年もその頭を擦り摩られてすり減ったように妙に光を放って、今にも潰れそうなテラテラとした熟し柿を思わせる気持ちの悪さ。それさえ見るに気味が悪いのに、さらに右の眼は腐っていて、そこにも膿汁が乾かずに溜まり、左眼の下瞼はまくれて血の筋がありありと紅く見えるほど裏返って、白眼は黄色く、灰色に曇り、黒眼は薄鳶色にどんよりとして、眼球は半ば飛び出て、人も神も仏も逆目に睨みつける瞳はゆっくりとしか動かさず、時々ホッとつく息は全身の毒を吐くかと思えて、犬も鳥も逃げ避ける。まして、人間なら一目見ただけで、気持ち悪くなって、そのどうしようもない臭い匂いを飯食う時に思い出しては、味噌汁もうまく啜ることも出来ず、膿汁を思い出しては大事にとって置いた塩辛も捨ててしまうほど。そんなことですので、誰も彼もにぎり飯を与えるだけの慈悲も施さず、その女のなすがままに任せていたのですが、女は呂律のはっきりしない歌のようなものを哀れに唸っており、それを聞いておりますと、『世に捨てられ、世を捨てて……』と、何やらブツブツとはっきりとしない細々とした声で繰り返しては、急に息づかいも激しくなって、苦しそうにハッタと空を睨んで竹の杖を振り上げ、道傍の石といわず樹ともいわず、叩き回しては狂い回り、狂い跳ねては打ち叩き、炎が燃え立つような激しい怒りを露わにして、狂い狂って、そのまま行方知れずになってしまいました」と話した。
(了)
† 「私たちのような者はどうしても世間から身を隠さねばならず」……原文は「妾等一類の者是非とも浮世を捨てねばならず」である。
「新日本古典文学大系」の関屋 博氏による脚注では、この部分は次のように解説されている。
『これは続く文脈から考えて癩病(ハンセン病)を病んだ私たちのような人間はすべて、の意味とするしかない。この言葉の基底には、癩病を「天刑病」(天がくだす刑罰としての病い)、「業病」(前世からの悪業の報いとしての病い)などと呼んでいた江戸時代以来の、宗教的・社会的偏見が横たわっている』
(P.283)
また、同書巻末の同氏による「解説」では、次の記述があるので、参考までに記しておく。
『……この作品で露伴は、現世のあらゆるものを「可愛し」と言い切る、髑髏の超越性を強調しようとする目的で、現世の苦の象徴として、一疾病を利用した。作品成立当時、癩-ハンセン病は、まだ有効な治療法がなく、「浮浪癩」としての生を生きる者が多かったのは事実である(今日は完治される病いであり、元患者は当然無菌である)。癩者に対する殊更な差別意識が、露伴にあったとは思わないが、しかし、彼が己の文学的欲求の為に、癩を現世の苦の象徴として選んでしまった誤りは、仏教自体が孕んでいた癩への偏見に抗する術を、露伴が持っていなかったことに起因する。――(略)――現世のすべてが可愛いとうそぶくお妙は、癩に関してだけは口を閉ざし、その存在を黙殺しようとしているのだ。この時期の露伴文学の超越志向は、要するにそれに都合の悪い現実を隠蔽・抑圧することによって成り立っていたのである。癩差別は、このような文学的姿勢が必然的に招き寄せた、錯誤の一つであるといってよい』(P.538-539)
塩谷 賛氏は「幸田露伴 上」(中央公論社)の中で、「最も美しいものは最も醜いものであったというのがこの小説の主題である。髑髏は単に髑髏であるにとどまらない。それは天刑病の髑髏である。しかしお妙の美しさはあくまで照り輝くのである」と述べているが(P.108)、それを表現するためにハンセン病という一疾病を利用したのは、社会全体がそれを差別であると気づいていない時代背景があったからであろう。この作品からも、当時ハンセン病患者がいかに世間から迫害されていたかが窺える。
現在、ハンセン病は治療法が確立されており、完治可能な疾病で、遺伝することはない。私たちはこのことはしっかりと頭に入れておかねばならない。
◆拙い現代語勝手訳でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。冒頭に書きましたように、今回全面的に見直し、手を加えました。しかし、まだまだ原文の訳として相応しくない個所もあると思っています。読者の皆さまには、お気づきの点がありましたら、お教えいただきますようお願いいたします。