第27話 呪縛都市のアリス
九月。残暑がきつい。エイダはいたずらに郊外を放浪していた。
理由はいくつかあり、湾口地区や都心は暑さが特にひどく、耐え難かったためと、呪いが最近急激に激化しており、解呪公社が激しい攻撃を連日行っているためだった。銃弾や爆弾、火炎瓶が飛び交い、光学兵器や刃物、拳、呪いによる攻撃、その他強力な機動人型抗呪兵器による乱闘が日々続いており、それでもつとめて無視して平穏に暮らす市民と違い、東側出身のエイダにはどうも居心地が悪かった。
これに乗じた浄化機構の攻撃も毎日公然と続いていた。
もはや彼らは影からひそかに市民を操るのではなく、電波ジャックによって人々を扇動したり、実体を得た幹部クラスが傭兵を雇ったり、他の呪いとの融合を意図的に生じさせ物理的な市街戦を開始していた。
これも、エイダが一枚噛んでいる。暇なある日、隊長の呪いを模倣したところ幹部十五人が一度に実体化し、これが攻撃の嚆矢となったためだ。彼らは全員、ハイネマン隊長と同じ顔をしており、本人も一時拘束されてしまった。
これがエイダの仕業と露見したのなら激昂どころではなく本気で殺害されかねなかったので、ほとぼりが冷めるまで避暑活動と称して田園地区へとエイダは手ぶらで赴いた。
都市部を離れるとそこは畑が延々続き、地平線の向こうまでひび割れたアスファルトの道路と電柱が伸びるばかりだ。
降りたバス停から徒歩で移動し、次のバス停まで来たところで疲弊し、待合所へ腰掛けて息を整えていると、ひとりの少女がやって来た。
白い日傘を差した、白く長い髪の人物ということは分かったが、呪いに耐性がない人がウィルヘルミナを見たときそうなるように、全身がぼんやりとしていて顔を伺うことができない。相当に呪いへの耐性が強い自分でもそうなのだから、得体が知れない、とエイダは思った。
「こんにちは」と不可解な少女が挨拶したので、エイダも会釈する。「あなたは待っているのね?」
「いえ、私はバスを待っているのではなく休んでいるのです」
「分かっているわ」少女は日傘を閉じながら言う。「つまり回復するのを待っているのでしょう」
「ええ、まあそういうことです」
「全員が何かを待っているのよ、適切なタイミングを。接続点を」
「接続点?」
少女がじっとこちらを見ているのは分かったが、もちろん顔は判然としない。どのような表情なのか、目の色が何色か、そして声の調子も分からない。「白い日傘を持った白く長い髪の少女」という役名の相手が、印刷された無機質な文章を提示しているかのようだった。
「次の場面への接続点。問題は接続詞なのよ。『待っている』だから『そのときが来る』のか、『待っている』しかし『そのときは来ない』なのか。まず我々は接続詞を制御しないことには望む次の章へたどり着けないということね。さしずめその場で全力で走り続けるような努力をしなくちゃいけないのよ。動かなくとも、時間が過ぎなくとも物語は進む。それは時としてひどく無慈悲に」
相手が何を言っているのかエイダにはよく分からなかったが、ウィルミアの解呪師たちに比べると理知的な気がした。彼女の言うとおり、もう少し回復を待つ必要があったので、話に付き合うことにした。
「つまり、人生における心構えについての話ですか? それを私にご教授いただけると」
「それほど大層な話ではないわ。それに、あなたの人生を、人生観を動かすことは神でも難しいのでしょう、だってあなたはアデレード・ボマーなのだから」
少女が自分を知っていることにエイダは驚いたが、高等遊民としての自分を、会ったことのない近所の解呪師の多くは知っていた。不可解な容貌と合わせると、眼前の相手が解呪公社関係者であることは想像に難くない。制服を纏っていないので、非番の日なのだろうか。
「いいえ、あたしは解呪師ではないわ、エイダ」
「え? なぜそれを? 私の心を読んだんですか? テレパシー的な」
「あなたの内面に描写されたのならこの場の風景と同等に目で見ることができるからよ。あなたが誰かはすでにあたしは把握しているので、次にあたしが誰かという話だけれど、あたしはアリス。アリスというからには二種類あって、翻弄される探索者としてのアリス、怪異へ、不思議へと導く白兎と混成されたかたちの先導者のアリスがいるけれどどちらにしても誘発装置ではあるわね。いずれの象徴としてのアリスも、そこにいるだけで接続点足りえるのよ」
「これから何かをするということですか、アリス」
「あたしは、何もしないわ。するのはウィルミアのほうよ、エイダ。竜はまどろんでいる。決して目覚めることはないけれど、その眼球が目蓋の裏で動くなら現実にさざなみが立つ。それが呪い。あの人は竜を倒せなかった。だから眠らせておくことを選んだのよ」
この都市の建造にまつわる伝説の話をしているのだとエイダには分かった。アリスは、こちらが声を出さずとも意思を汲み取ってくれることをエイダは理解していたので、面倒だから喋らないでいようと思っていた。
「そう。夢というのは荒唐無稽だけれど法則にしたがっているわね? 例えば起きてから鑑みてみると恐ろしく滑稽なものが怖くてしかたがなかったり、自分の体がホトトギスに変わっていくから夏の朝日を浴びて止めなくてはならないといった使命が提示されていたり。だからあたしはあの人に、レミュエルに夢を制御する方法を与えたのよ」
それは杖と剣だろうか。かの皇帝が願ったときにそこにあったという。
「杖と剣はそれほど重要ではないわ。肝心なのは解呪師。呪いを解く彼らがいれば呪いは解ける。その法則こそがあたしがあの人に、この国に与えたものよ。怪異が現れれば、誰かがそれを狩る。解呪師は夏の朝日だから、皆がホトトギスに変わらずに安心して暮らせる。この先千年だろうと」
バスがやって来た。アリスもエイダも席を立たないのでバスはそのまま走っていく。しばしの沈黙ののち、アリスはエイダを見て言う。
「あのバスもまた接続点のひとつだったけれどあなたはあれに乗ろうとしなかったわね」
「はい、まだ回復を待っているので。それにアリスの話はあんまり意味が分からないけど面白いので」エイダは声に出してそう言った。「アリスは神的な存在なんですか? それでこの国と、まだ眠っているとかいう竜の呪いを見守っていると、そういう話だった?」
「あたしは神ではなく観測者。観測者としてのアリス。アデレード・ボマーの独白ではなしえないことをなすための、助けとなるもの。第二の登場人物。一人と二人では、ゼロと一くらい違うでしょう? 二人いるからこそ会話が、物語が生まれる。それは宇宙が生まれるのと同じことよ。レミュエルも、〈豪雨帝〉ジョナサンも、〈野分けのハンニバル〉も、夢の中で夢を見るオーウェンも、あるいはあなたの上司ハイネマンも、一人ではできないことが多すぎるわ。あたしは彼らと話し、埋没された接続点を掘り起こす。ともに泥にまみれようとしているだけよ」
結局アリスが誰なのかは分からない。
エイダはいま少し、ここに腰掛けていようと思った。




