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ベレー帽をかぶった猫

作者: 独楽



「もうお気づきのことかもしれないけれど」


 と、ベレー帽をかぶった猫は言う。


「俺はだいたいにおいて怠け者なんだよ」


 怠け者。

 そうかもしれない、と僕は頷く。

 ベレー帽をかぶった猫は、お気に入りのカウチに身体を預け、その頭にはふんわりとやわらかそうなベージュ色のベレー帽をかぶっている。その時々によって変わる体毛は、いまは落ち着きのあるペガサスのような色。


「君はだいたいにおいて怠け者だよ」


 と、また僕はそう言った。

 ベレー帽をかぶった猫はふふんと鼻を鳴らす。彼は得意げに話すとき、そのレーズンみたいな鼻をピクピクさせる癖がある。


「そう、怠け者だ。君もよく知るように、俺は日がな一日をぼうっと過ごすか、日向ぼっこして過ごすか、本を読んで過ごすか……いずれにしても、俺が“ここ”から出ることは後にも先にも起こり得ない」


 俺は根っからの引きこもり気質なんだよ――と、ベレー帽をかぶった猫は鼻をピクつかせる。まるで好物の魚でも匂いでいるかのよう。ぺラリとページをめくる指は淀みなく、一定のリズムで揺れる鍵しっぽは、右往左往と落ち着きがない。


「だけどな、それは俺が怠け者だから、ってわけじゃない。俺はこれまで色んな本を読んできた。おかげでこの世界の残酷な部分を知れたし、それと同じだけ素晴らしい部分を知ることも出来た」


 重畳なことだね、と僕は合いの手を入れる。

 僕は人の話――猫の話――にただ相づちを打つのが好きだった。中でもベレー帽をかぶった猫のような、具体性のない、毒にも薬にもならないような話が得に良い。


「俺は引きこもりの陰気なやつだけれど、本の世界を渡り歩く冒険家でもあるんだ」


 彼の鼻はピクついている。

 本の世界を渡り歩くとは、なんとも詩的な表現だ。

 そして僕はふと思う。

 ベレー帽をかぶった猫にとって、現実は創作の延長なのだろうか。

 それとも、現実の延長に創作があるのだろうか。

 あるいは、一方がどちらかの一部なのか。


「その顔」


 彼は眉をひそめ、見透かしたような目で僕を見た。


「またお得意のくだらない哲学チックなことを考えているだろ?」

「……なんでわかるのかな?」

「なんとなくだ」

「……君は何でも知ってるね」


 ベレー帽をかぶった猫は笑った。

 まるでチーズに化けた猫が、チーズを喰うねずみを喰うところを想わせるような――そんな笑み。


「俺は長靴を履いた猫に憧れているからな」


 長靴を履いた猫に憧れるベレー帽をかぶった猫はパタンと本を閉じる。

 これで話は終わりだ、とでも言いたげな仕草のあと、


「“駄作だな”」


 そう言って彼は本を放り投げた。

 本は地面を打つ前に火に包まれ、魔法のように煙も残さず消え去った。後に残ったのは一ページの切れ端のみ。それはひらひらと舞って、やがて僕の足元に落ちた。


「……なんで燃やしたの?」


 しどろもどろに、僕は問う。

 彼の体毛は落ちついたペガサスのような色から、悪戯なチェシャ色に変わる。


「テーマもドラマもなにもない、たとえるなら俺のような人生――みたいな作品だったからだよ」


 またケラケラと笑う。

 ベレー帽をかぶった猫は文字通り猫だ。

 猫の人生を人生と呼べるのか……それは怪しいところだけれど……少なくとも揶揄するところは理解できた。年がら年中引きこもって、本の世界に没頭する彼は、たしかに本の世界を渡り歩く冒険家かもしれないけれど、端から見れば華やかさからは程遠い。本のおかげでどれだけ心が富んだとしても、現実に陰気な彼のようなやつは、やはり陰気なそれにしか映らない。


「で、君はいつまでそこに突っ立ってる気なんだい?」


 ベレー帽をかぶった猫は、カウチに寝そべり伸びをする。ふわわ、と大きなあくび。

 そして僕は彼のあくびに呑み込まれる。

 夢のような闇がどこまでも広がり、浮き上がるようでいて沈んでいくような不思議な感覚にとらわれた。走馬灯のような一瞬。駆けめぐる映像は、フィクションのようでいてリアルでもあった。



 目が覚めるとそこは遊園地だ。

 僕はお気に入りのベレー帽をかぶって、母親の笑顔を見上げている。


 目が覚めるとそこは工場だ。

 僕はラインオペレーターとして、精密機械のコンデンサを作っている。


 目が覚めるとそこは森の中だ。

 僕はチェーンソーを片手に、住宅用木材の原木を調達している。


 目が覚めるとそこはドバイの海だ。

 僕はハリウッド俳優さながら、夕焼けに沈む海岸を眺めている。


 目が覚めるとそこは病院だ。

 僕はボケてなにもわからなくなってしまった母親の手をぎゅっと握っている。



 連続性のない映像にうろたえる。

 けれど、これらすべてはまぎれもなく現実だったもので、外でもない僕の過去だ。

 僕はかつてラインオペレータ―として工場に勤めていた。外国の大きな会社が倒産して経営が難しくなるまで働かせて貰い、その後は大々的に森林伐採を営む製材会社に入社した。ドバイの海なんてアラビアンなところにいった覚えは実はないのだけれど、ツタヤで借りてきた『セックス・アンド・ザ・シティ』で見た風景があまりに綺麗だったもんだから、ちょっと見栄を張ってみた。

 現実は小説より奇なり。

 未来は、いつだって僕の想像を軽く凌駕する。

 いま現実そこにいたら気がつけないけれど、現実ここから過去そこを振り返って見ると、あまりの連続性のなさに自分でも驚きを隠せない。


 自分がいまどこに立っているのかわからない。

 自分はいまどこに向かっているのかも、どこに向かえばいいのかも。


 僕はいつからか、明確な指針がない人生に嫌気を覚えた。

 地に足着かない不安定な現実が怖くなったんだ。

 そんなとき、僕は猫の生涯について考えることで気を紛らわした。

 秒でも分でも時間でも日でもなく、現実いまを好きなように好きなことをして生きている猫を想像した。それは自由で羨ましいと思った。お腹が空いたときにご飯を食べて、昼寝をしたくなったらお気に入りのカウチに寝そべって、人肌が恋しくなったら主人の足に頬ずりをする。

 もし、僕がそんな猫になれたなら、いったいなにをするだろうか?

 きっと日がな一日を、大好きな本を読むことに費やしているだろうな、と想像した。

 なんて素敵なんだろう。

 なんて怠け者なんだろう。

 そう自嘲気味に笑ったのを覚えている。



 目を開くとそこにはベレー帽をかぶった猫がいた。

 その体毛は落ち着きのあるペガサスのような色に戻っている。


「とりあえず」


 彼は言う。


「とりあえず、今も昔も変わらないものがあるとすれば――それはいつだって俺をささえ、励ましてくれた大好きな物語たちだけだ。俺はそういった生き方を好んでいるし、他の何かが欲しいとは思わない」


 僕もそれはおおむね同意だ。

 だいたいにおいて、僕も彼と同じような怠け者だったから。

 だから、


「それは違うんじゃないかな」


 と、僕は言った。


「……なにが違うんだい?」


 と、彼は目を細めて訊き返した。

 なんだか苦しんでいるような表情。

 僕は残された物語の切れ端を拾いあげる。


「強いて言うなら、見えかた、かな」

「……へえ?」


 ベレー帽をかぶった猫は聞き流すように笑った。


「一度読んだ物語だって、時が経てば見えかたが変わる。経験が見えかたを変えるんだよ。君は変わらないまま、ずっと何かを待っている。どこか遠くへ連れて行ってくれる何かを。それが何かはわからない……けれど君は、それが君が望むどこかへ連れて行ってくれると信じている」


 拾い上げたページの切れ端は、やがて本のカタチになって、風景いまを彩っていく。

 僕とベレー帽をかぶった猫を隔てるように扉が形作られた。

 その隙間からは、光と闇がたゆたうように漏れ出ている。


「運が良ければその何かに出会えるかもしれない。……でも、こちらから歩いていけば、出会える確率はずっと上がると思わない?」

「そりゃあ重畳なお考えで。傷つくことを恐れなきゃ、まあ、ありかもな」


 嘲笑的な台詞ではあったけど、彼の顔はめずらしく真面目のそれだった。


「それも、だから、見えかたの問題なんだよ。もう傷ついたっていいんだ。だって、振り返れば君がいてくれるからね」


 彼はカウチに寝そべったままだ。

 僕は扉のノブに手を掛けた。


「じゃあ、そろそろ行くよ」

「そっか」

「こんなことを言うのもなんだけど、僕は君の無気力なところが意外と好きだったよ」

「俺は僕のこんな無気力なところがたまらなく嫌いだけどな」

「だいたいにおいて君は怠け者だからね」

「俺ことを言えた義理じゃないだろ。そら、さっさと行け」

「ん」


 促しに僕は頷きノブを引く。

 未来が僕をつつんだ。


「なあ」


 呼びかけに顔を向ける。


「辛くなったり、苦しくなったりしたらまた来いよ」


 ベレー帽をかぶった猫は、照れくさそうにベレー帽をかぶり直してそう言った。

 その声は聞きなれた誰かの声に聞こえた。


「うん。そのときはまたお願いするよ」


 言って、僕は扉をくぐった。


 目を開くとそこは病室だ。

 連続性のない現実。

 握り返してこない母親の手に、ようやく僕は向き合うことができる。


 そんな、気がした。




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