第57話:式
その日は、この時期には珍しいほど青く晴れ渡った空だった。
冷たさの中の澄んだ美しさがアリオスを包み込んでいた。何でこんな寒い時期にと思っていた者も雪が朝日に照らされた瞬間に、その美しさに見蕩れたことだろう。
華やかな、けれど疑心と剣呑な空気がねっとりと張り付くような奇妙な空間で式は行われた。
本日の主役が現れたとき、幾人もが目をむき、ため息とも唸りとも取れない複雑な音を喉下から搾り出した。
特に、普段の花嫁の姿を知っているものは、どこかから替え玉でも連れてきたのではないかと失礼なことを本気で考えた。
白を基調にしたドレスはアリオスでは珍しく丈が短く、ふわりと広がった裾からは健康的な足が伸び、新鮮さを感じさせた。
ドレスを飾る花は不思議な光沢と色を持ち、貴婦人方に何の花かと疑問を持たせたが、誰も答えを知らなかった。
複雑に結われた髪と化粧のせいもあるが、ゆっくりとした歩みもベールの向こうに見える柔らかな笑みも、目を奪うのに十分なほど美しかった。
視線を釘付けにしたのは花嫁だけではない。
隣を歩く人物にぽかんと口を開けた者も多かった。
魔物とはどんな人物なのだろうと好奇な笑みを浮かべていたものも、その顔から笑みが抜け落ちた。
「ほう」
「素敵ね」
国王夫婦は壇上へ向う二人へと素直な賛辞を口にした。
やはり白を基調とした服のジルフォードは、冬の化身と言っても過言ではなかった。
巨大な剣を模したモニュメントの下に花嫁と花婿が対峙し、朗々と誓いの言葉が述べられて、粛々と諾と答える場面だった。
けれど、小難しい言葉など右から左へと流れていき、目も眩むような照明の下では、他の色など見えなくなってしまう。
ベール越しに見える紅玉の色。
この瞬間、この位置にいなければ見えない色。
何百人という参列者の中でも誰一人として見る事は出来ないだろう。
「私はこの国の神の名を知らないから」
式を司っていたモーズ・シェリンの誓いの言葉は半ばでセイラによって中断されてしまった。一瞬、何が起こったのか分らなかった彼も花嫁が勝手に話していることに気づき、小さく咳払いをしたが効果は無かった。
「わが国の神の名を持つジンに誓おう」
その声は、伸びやかで参列者の耳にもしっかりと届き、辺りはざわめき始めた。
そんなこと意に介さないとセイラは笑った。
「一緒に幸せを掴もう」
誓いの口付けの代わりに、重ねた手のひらに力を込める。
離れないように、離さないように。
「セイラ様っ!」
進行通り動かないセイラへのシェリンの叱咤は、拍手によってかき消された。
国王が王妃が、両軍の将が手を鳴らし始めると、周りもつられ手を打ち始める。
その音が会場を埋め尽くすほどになったとき、シェリンは肩を落とした。
「これにて、ジルフォード殿とセイラ殿は正式に夫婦でございます!」
やけくそにそう叫ぶと、次に進むべき道筋を指し示した。彼らは、城の外の広場に集まる民衆に挨拶する必要があるのだ。
他国の使者よりもずっと因習に縛られている民衆が、どんな反応を示すか一抹の不安もあるが顔を出さないわけにもいかないのだ。
バルコニーからは街が良く見える。
城門の前には沢山の人が押し寄せ、それぞれ頭上を振り仰いでいた。
空の色に惹かれるようにセイラは一歩を踏み出した。
風がベールをさらっていき、下の状況が良く分る。
下からはセイラが背後を振り返り、誰かを呼ぶような仕草をしているのが目に入った。
民衆の中に奇妙な沈黙が訪れる。
この日が来るまで、生きた伝説を、アリオスの悪夢をその目で見ることになろうとは誰も思っていなかったに違いない。
セイラの姿が、ひょいと隠れる。
安堵の気配が漂ったが、その行動が呼んでいた相手を連れてくるためだと理解したとき、奇妙な沈黙が戻ってきた。
その人物が引っ張られるようにして現れたとき、広場はしんと静まり返った。息苦しい沈黙ではなく、大いなるもに出会ったときに訪れる自然な静けさだった。
白い髪が風に舞う。
ある者からは黒曜石の鋭さが見えただろう。また、ある者からは碧玉の輝きが見えただろう。
次の行動が取れずにいる大人たちの間で、子供たちが歓声を上げた。
「きれーい」
「本当に歌の人だよ」
「お城には美しい人がいる
髪の色はアリオスの初雪の色
冬の女神が祝福に雪の色を与えたの
その美しさに微笑んで月が瞳に千の色を与えたの」
誰かだ歌い出せば、その歌なら知っていると合わせて歌いだす。
「満月の日には紫水晶の色
その美しさに春雷が喜んで知恵を与えたの
上弦の月の日には金の色
その美しさに暁が哄笑して力を与えたの」
その色の瞳を見たものは、はっと息をのむ。
自分たちが歌っていることが真実だと知ると、歌声は高らかになった。
「三日月の日には紅玉の色
その美しさに炎が激励に厳しさを与えたの
新月の日には黒曜石の色
その美しさに夜が感嘆し優しさを与えたの」
新たな色を発見したものは、新しく歌詞を作れる名誉を得たことだろう。
「泣かないでおくれ美しい人
その色を曇らさないで笑っておくれ
太陽よりも輝かしく」
広場にいた皆が歌いだす。
最後の一節を歌い終わるのを厭うように。
「泣いておくれ美しい人
その暖かい慈雨を降り注いでおくれ
月よりも麗しく」
いつのまにか始まった歌が広場を満たし、城壁を軽やかに上ると、セイラたちの耳のもしっかりと届いた。
歌は何度も何度も繰り返された。
「ジンのことだよ」
はしゃぐセイラを見ながら、国王夫婦も柔らかな笑みを浮かべた。
幾人かも微笑ましげに耳を傾けていたが、その歌は他国からの使者に脅威を抱かせた。
名も知られていなかった王子の影響力がこれほどならば、ルーファ王の力はどれほどなのか想像も出来ないと。
また、アリオスの貴族たちをも心底驚かせた。
今まで邪険にしてきた王子がこれほど、民衆に受け入れられているとは。もしも必要があるならば、ライバルより先に王子に取り入らなければと。
「いい歌だね」
セイラの言葉を肯定するように、わずかに微笑んだ。
陽光のもとでみる微笑は透けるように儚くて、けれど、つないだ手に確かさが安らぎを与えてくれる。
メロディーはすぐに耳に馴染み、セイラの口からも歌が零れ落ちていく。
「泣いていいよって、笑っていいよって。幸せな歌だね」
歌を続けようと思っていたら、額に暖かなものが触れて意識を取られてしまった。
驚いてジルフォードを見上げるも、彼は民衆のほうを見ていて視線が合わない。
もしかして、額に口付けされたのだろうか。
額を撫でてみても分るはずもなく、勘違いだろうかと首を傾ける。
「ジン!」
間違えでもいいと思った。
勢いよく名を呼ぶと、こちらを向いたジルフォードの襟をひっぱり、自分は思いっきり背伸びをする。高い踵が少しだけ役に立った。
子供同士がするまじないの様に額に口をつける。
よく眠れるようにとか、幸せになるようにとか意味がちゃんとあったはずだが、今はただ、嬉しいと伝えるために。
「あら、額に口付けなんて可愛らしい」
二人を見守っていたダリアは、その瞬間を見逃さなかったらしい。
「ねぇ、サンディア様」
ダリアは物陰に隠れるようにして二人を見つめる女性に声をかけた。
前王妃だと思えないほど格好は質素だった。
ここにいることを知っているのは、ダリアとルーファだけだ。
サンディアは深々と頭を下げた。
側室の息子なんかにという気持ちなど、とうに霧散していた。
涙があふれて、顔を上げることなど出来なかった。
「サンディア様には、離宮からヤガラの別邸に移っていただきましょう」
それは離宮よりずっと都に近い位置にある屋敷のことだった。のどかな田園が広がるその地域には、いかな貴族でも自由に立ち入りは出来ない。
幽閉をとくと同じ意味の言葉に、サンディアは瞠目して言葉を失った。
どんな処罰をも覚悟してやってきたのだ。
「そのような……」
「私にも、ダリアにも、セイラ殿にも。そして、ジルフォードにも貴女以外母親はもういないのですよ」
「母親などと」
ルーファの言葉に、ぎりりと心が痛む。今まで、何一つとして母親らしいことなどしてやらなかったのだ。このはれの舞台でも物影に隠れ、来たことを告げることも出来ない。
「今からでも十分に間に合いますわ。どうか、この受け入れをのんでください」
サンディアの嗚咽と決断は歌声にまぎれ、二人にしか届かなかった。
その日、都からは日が落ちても歌声が消えることは無かった。
このときのことを、『アリオス記』ならびに『ササン大陸年代記』には、若き二人を祝福するために、地を揺すり、天に届くほど歌声が捧げられたたと記されている。そして、『ササン大陸年代記』にはこう続く。「……これがササン大陸二度目の変革期のはじまりである」と。