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第55話:月

カナンの部屋では、すでにハナが目を覚ましており、ぼろぼろの姿のセイラにあんぐりと口をあけた。怒りの対象は一緒に入ってきたジョゼになり、彼は理不尽な怒りに肩をすくめたのだが、髪の乱れ具合の半分は彼のせいなのでセイラは何も告げずに二人の漫才を放っておいた。

ぐるりと見渡してみても、そこにジルフォードの姿は無い。

どこに行ったのだろう。

暖かいカナンの部屋を出ると、書庫の中はひっそりと静まりかえっていた。

セイラの靴音だけが高く響く。

日没からだいぶ時がたったこの時間では、本を借りるために書庫を訪れる者はいないので、明かりもともっていない。

けれど、書庫の中は不思議な光で包まれていた。

やっと上ってきた大きな月から降り注ぐ光が天井の色ガラスを通り抜け、青い世界に文様を描き出す。

陽光の下で見るよりも神秘的な空間。

賢人たちの像も厳しげな表情を和らげて、微笑んでいるようにさえ見える。

星の渦に呑まれたようだ。

文様の上でくるくると回っていると、影がさした。

見上げた天窓の向こうには影になりそうなものなど無かったが、何者かが其処を横切ったのだ。


「ジン?」


いつもの場所にいるとばかり思っていたのだが、まさか屋上にいるのだろうか。

三階まで駆け上がれば、窓がほんの少し開いており、そこから身をさすような冷たい風が入り込んでくる。

冷気が入ってこないように襟を立てると、セイラはゆっくり窓をあけた。

外壁を良く見れば、やっと足をかけられるほどの小さな出っぱりが上へと続いている。

手すりなんて親切なものはなく、一歩一歩慎重に進めば、一気に視界が開けた。

月光によって青く浮かび上がった街のところどころには暖かそうな光が煌いている。

視線をめぐらせれば、屋根の隅にジルフォードが座っていた。

風に舞う髪は不思議な光沢を持ち、月光が与えた輪郭が淡く光る。

時折見える、鮮やかな色彩は彼の耳を飾るピアスだ。

夢の中を彷徨う心地だから、足元への注意は疎かになり、一際強い風が吹き荒れて、思っても見なかった方向に体を押されれば簡単に体勢は崩れ、危ないと思ったときには屋根の上を滑っていた。

体勢を立て直すことができぬまま、重力に従って下方に落ちていく体を押し止めたのは、背中に回された二本の腕だった。

あっという間もなく、体が浮くと、暖かなものに包まれ、視界が真っ黒になる。

ジルフォードに抱き込まれているのだと気づいたのは、滑った衝撃で踊る自分の鼓動とは別の音が、額を介して伝わってきたからだ。

自分以外が奏でる生命の音に包まれると、どうやら落ち着いていくらしい。

鼓動の音も正常に戻り、お礼を言う余裕も出てきた。


「ジン?」


お礼も言って、体勢も立て直せる状況なのに、背中に回された腕は外れず、視界も翳ったままだ。


「兄上のようになりたかった」


「うん?」


頭上から降ってきた言葉に、体勢を立て直そうと入れていた力をふっと抜き、全身をジルフォードに預ける。

それと反対に背中にかかる力が僅かばかり強くなった。


「色なしと呼ばれているうちに、本当に魔物になれればいいと思うようになった。……だけど、どちらになる方法も見つからなかった」


「うん」


「諦めることを知ったとき、随分と楽になった」


求めるほど辛いから、いつしか気づかないフリをすることを覚え、それが当たり前になっていく。

セイラはただ、ジルフォードの言葉を聞き逃さないように、耳を澄ませた。

ゆっくりと刻まれる心音に、随分長いこと、ジルフォードが彼の言ったとおりの生活をしていたのだと気づかされる。


「セイは怖い」


「……怖い?」


そんなことを思われているなんてショックだ。

静かに聞こうと思っていたのに、つい口を挟んでしまった。


「全部諦めたはずだったのに、望んでなんていなかったのに……」


そう思いこんだはずだったのに、一番深く沈めた願いを簡単に呼び覚ましてしまう。

自分の無力さを知っているから、守るものは母だけにしようと誓ったのに、どうして一緒にいたいと思ってしまうのだろう。

セイラに危機が迫ることは分っていたのに、その思いは薄れなかった。


「セイといると苦しい」


「そんなこと言われると私は悲しい……」


ジルフォードの姿を見たとき、ファナの方が良かったのではないかという思いなど瞬時に霧散した。

一緒に戦うと約束し、アリオスに残りたいと思い、ジルフォードの傍にいようと決心した。

まさか、その相手に怖がられ、一緒にいると苦しいと言われるなんて。

回された腕の感触が優しいほど、悲しくなっていく気がした。

体を離そうと、力を入れるとジルフォードの心臓が高く鳴った。


「……ねぇ、ジン」


その一音に意味はあるのだろうか。


「それって私のことなんて嫌いってことか? 一緒にいると苦しくて仕方ない?」


答えは無かった。

けれど、戸惑い、何度か口を開いては閉じしている気配が伝わってくる。


「私はジンのこと好き」


見上げたジルフォードの髪も瞳も、月で染まり、近づきがたいまでに美しいのに、泣き出す寸前の子供のような雰囲気が、ふっと心を緩ましていく。


「だから、一緒にいてよ」


器用に両腕を抜くと、ジルフォードの背に回す。

自分が与えられたのと、同じほどの安心を伝えられるように。


「……怖くないからね」


されるがままのジルフォードに安堵するのは、むしろ自分のほうでセイラは唸りように告げた。

ジルフォードが反応を返す前に、ハナが二人を探す声がする。


「下りようか。……満月、落ちてきそうだね」


すくりと立つと、月に手が届きそうなほど近くに見える。


「こんな夜には“ジルフォード”が願いを叶えてくれるんでしょ」


カナンに聞いた満月の夜に現れる“魔物”の話。

こんなに神秘的な夜ならば、何が起こっても不思議ではない気がする。


「ジンなら何をお願い事する?」


絡まった髪が、いつもとは違うシルエットを描き出し、月が背後にあるために、表情がよく分らない。


「セイは?」


「ん〜。カナンの部屋には、美味しいお茶と甘いお菓子がありますように」


白い吐息が漏れたのは、問いの答えが、あまりにもセイラらしかったからだろうか。


「結果を見に行こうよ」


その願いが叶っていることを知っていながら、二人は小さな階段を下っていった。

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