第51話:墓守
セイラの少し後に、書庫を出たジルフォードは暗い階段を下りていた。何度も訪れたことのあるこの場所は光がなくても自由に歩き回ることが出来る。最後の一段を下りて広場に入ると、ぞろりと暗闇が蠢いた。
「墓守。セイに何をしたんだ」
意識を失う前に甘い香りがしたのだというセイラの言葉が気になっていたのだ。ジルフォードはここに入るとき、甘い香りなど一度もかいだことがない。セイラのすぐ傍にいたジルフォードに気づかれずに、彼女だけに甘い香りを嗅がすなど、あそこにいた人間にはできそうにない。もしも、そこに人ならざるものがいたとしたら。
闇の中からぼうと老人が現れた。
「そんなに怖い顔をするんじゃないよ。216番目の王子様よ。するもなにも、これからって時に邪魔が入ったんだからさ」
腰をしきりに擦りながら墓守は言った。
「だから、お止めって! お前さんだってあの娘っ子を嫁に欲しいんだろう。アリオスの王家に入るなら、知らなきゃならないことは山とあるんだよ。手っ取り早く夢の中で教えてやろうってのに、本当にひどい目にあったよ」
「知る必要のあることって?」
「そりゃぁ、色々だよ。表の歴史は上の連中が教えてくれるだろうさ。裏の歴史はワシらの仕事さ」
僅かばかり曇ったジルフォードの顔を見て、墓守は口元を歪めた。
「アリオスの闇はお前さんばかりじゃないんだよ。アリオスの墓の中は真っ黒さ。確かに、お前さんは毛色が変わってるよ。けど、それだけさ。99番目の王様のように残虐非道ではないし」
老人の背が急に伸び、質量が増えたかと思うと剣を持った男の姿に変わった。落ち窪んだ瞳には、暗い思考が渦巻いて、血塗られた剣は地が見えぬほどだ。
「134番目の王子のように放蕩して国を食いつぶすこともない」
もう一度質量がかわった。現れたのは線の細い男だった。至る所に装飾品を身につけて、全身から酒のにおいがする。
「ちっとばかし、見た目が華やかで特別な名を貰っただけさ」
気がつくと、もとの老人の姿に戻っている。
「お前さん、どれだけこの大陸の話を聞いている?魔女の治めるジキルド、神話の国エスタニア、見放された地のタハル、そしてわが国。島国まで合わせればもっとあるさ。いいかい? これがワシの仕事なんだ。入ってくるものに教えることが。この国、この大陸の過去を今を、時には未来を」
「兄上も知っているの?」
「ああ? 男はダメさ。知れば妄想をかきたて、ありもしない未来を勝手に作り上げるのさ。破壊はしても創造できない。女はいい。よく考え、必要なことだけ寝物語として子に伝えるんだ。時には例外もいるがね」
最大の例外は目の前の青年の母なのだ。
「お前さんの母親は全くの予想外さ。まさか、一度もここに下りてこないとはね」
下りてきたならば教えることも出来たのに。お前が授かるのは特別な子だと。形なき魔物の本当の意味を。
不思議な力を持とうとも、この空間でしか発揮されない。これほどまでに無力感を感じたのは墓守になってから初めてだ。
「今の王妃様は知っているよ」
「姉上が?」
けれど、三日も寝込んだなどという話は聞いたことがない。
「あの王妃様はいいね。ふわふわと雲の上を歩いているかのような娘なのに、ちゃんと芯がある。要領がいいもんだから、すぐにいるものだけを取っていった。おまけに美人だ。お前さんの想い人は……変な娘だね。一番本質に近い場所にいるのに、自分から遠回りさ。未だに、何であんなに馬鹿みたいに階段を上り下りしていたのか分らないよ。思わず、歌う羽目になったよ」
「お前さん、まだその瞳を捨ててしまいたいかい?まだ、その髪に色を持たせる方法を探しているのかい?」
墓守はジルフォードの姿をとった。ただし、銀の髪と碧玉の瞳のジルフォードの姿だ。かつて一番なりたかった姿。
「それなら、あの娘は帰しておやり、幸せになんかなれやしない」
墓守の口の端が吊り上る。
兄のようにアリオスにいても良いという証拠が欲しかった時期もある。いつの間にか、その想いは諦めに変わり、人の目に触れないように生きることを覚えるようになった。けれど今は……
「もしも違うならば、絶対に離すんじゃないよ。あの娘ほどお前さんに寄り添える者はいないよ」
墓守の姿が、また少し変わった。銀の髪は白く、瞳の色は赤へと。もう少し、年を重ねたらこうなるかもしれないと思わせるほどジルフォードに似ているけれど、違う者。老人の声が潤いを持つ。
「手助けぐらいはしてやろう。だが、幸せになれるかどうかはお前次第」
それだけ言うと、すぐさま元の老人の姿に戻った。最後の一人だけ、全く違う圧力を感じたのは気のせいだろうか。曲がった腰を擦る老人からは、その圧力は微塵も感じられない。
「ああ、そうだ。あの娘を連れてくるときは祓いの石を置いてくるように言っておいておくれ」
「祓いの石?」
「虹色に光る石のことだよ。アレとは相性が悪いんだ」
今日、セイラに届いた月の雫のことだろうか。様々に色を変える石は虹色といってもいいかもしれない。
「わかった」
その言葉に鷹揚に頷くと、墓守はふっと姿を消した。