第50話:寿ぎ
「こんにちは。姉様」
恐る恐る扉から半身を出すセイラを射すくめて、ユリザはさっさとお入りなさいと目で合図をする。彼女は明らかにアリオスに来た客に違いないのに、長年この部屋の主であったかのように、どうどうとソファで足を組み、また家具たちもそれが自然であるかのように、馴染んでいた。
「やっと、目が覚めたのね」
「……はい」
結い上げていない髪に、動きやすさを重視した質素な服装。ハナにせっつかれて挨拶に来たわけではなさそうだ。自主的にセイラが尋ねてくるなど、なにか用事があるに違いない。
「言いたいことがあるのなら、言いなさい」
きょろきょろと落ちつきなく、辺りを見渡すセイラは、その言葉に意を決したように、ユリザの正面に立つ。前置きなど、ユリザの機嫌を損ねるだけなので、最初から本題へ。
「姉様はどうして私を選んだの?ファナ姉さまでもよかったんじゃないの?」
セイラとファナは母親こそ違うものの、境遇は良く似ているのだ。彼女の母親は風の舞姫。旅の踊り子として絶大な人気を誇っていたけれど、貴族社会であるエスタニアでは身分は高くない。リューデリスクの三番目の妻となった彼女はファナを産みはしたけれど、一つの場所にとどまることを嫌い、ファナを置いていくという条件を飲み、王宮を出て行った。シオンの名をつけたのは彼女だ。旅の安寧を娘に託し、いつか娘が自由に旅することを願って。
二人とも母親の身分は低く、どんな相手に嫁がせても文句を言う後ろ盾もない。条件が同じならば、年齢の近いファナの方が適任ではなかったのだろうかと手紙を受け取って思ったのだ。
「選んだのは父上よ」
「そうかもしれないけど、仕向けたのは姉様でしょ?」
確信の光を宿した瞳に見つめられてユリザは仕方ないとばかりに頷いた。確かにセイラを選ぶように仕向けたのはユリザだ。もっと言えば、婚姻による和睦を受け入れるように促したのも彼女だ。
「ファナをここにやるぐらいなら、イベラかリベラを無理やりにでも引き離して嫁がせたわ」
セイラはあったことがないが、王妃の生んだ第4、第五王女だ。双子で傍から見ても区別できないほど似ていると聞いたことがある。常に共に行動する彼女らを引き離すのは難しいのか、ユリザは珍しくも、あまりやりたくはないと人前で顔に出していた。
「イベラ姉様……」
会ったこともない人物を姉と呼ぶのは変な気分だ。セイラが会ったことのある姉様たちは第1王女のルリザ、第二王女のユリザ、第三王女のファナだけだ。第6王女のアリザとは一度だけ手紙のやり取りをしたことがあるが、イベラ、リベラそして第7王女のサナメとは全くつながりがない。エスタニアには王子も3人いるのだが、こちらともつながりはない。
「あの娘には風の民の血が混じっているの。どこかにつなぐことなんて出来ないわ」
風に導かれて旅をしながら生きる民。その血を受け継ぐ娘に王家の血は重荷以外の何者でもない。その上、他国の血で縛り上げるわけにはいかないのだ。
「あの娘はいつか去っていくわ。慰めを与えても支えにはなれない」
「……そうかな」
「貴女の能天気さならば、何処へ行っても大丈夫だろうと判断したからよ」
「能天気……褒められてるのかな?」
「褒めているのではないわ。これから言うことをよく聞きなさい」
これから告げるのは姉から妹への叱咤の言葉。愛しい娘への寿ぎの言葉。
「貴女は良くも悪くも優しい娘でしょう。それは、時には幸をもたらし、時には嫉妬を呼ぶことになる。貴女の優しさは最も強い武器でありながら、もっとも弱い盾であることを忘れぬように。いつか、選択を迫られたとき、その優しさに苦悩するときが必ず来ます。いつも、いつも両方を選ぶことが出来ないことを知ることになるでしょう。貴女の周りに居てくれる人を決して離さぬようになさい。愛しいなら、大切ならそう告げなさい。」
「はい」
後悔を繰り返してはいけないと告げられているのが良く分った。
「ユリザ姉様のこと好きだよ。ちょっと……だいぶ礼儀作法とか煩いけど」
「貴女がしっかりしていれば、煩く言わなくてもすむ話です」
「……」
母が亡くなったとき、駆けつけてくれたのはユリザだった。王都からはそれ以外に弔問はなく、国王は手紙一つよこさなかった。土をかけられていく棺の前で涙を流すことも出来なかった。街の人たちが泣かぬように全身に力を入れて、歯を食いしばっているのが分ったから、縋り付くハナに寄り添ってずっと俯いていたのだ。母に朝の挨拶が出来なかった。目覚めて一番のおはようは大好きの代わり。それをセイラが言えぬまま母は逝ってしまったのだ。母は最期におはようと言ってくれたのに。
葬儀の時にも文句の付け所のなかったユリザが、セイラの前に立つと細腕を鳴らし、声を荒げた。
「泣きなさい! 貴女が泣かなければ、この街の人間は泣けないのよ。泣きたくないのならば、誇りなさい! これほど多くの人に見送られる人を母に持てることを」
空が割れたのかと思った。ぼたぼたと手の上にも足の上にも雫が落ちてきた、ハナも母も街も水没してしまったのだから。呼吸が出来ず、おぼれてしまったのだと思った。酸素が体に廻らなくて、頭の芯がしびれていく。指先の脈動が煩くて、悲鳴を上げたいのに声が出ない。大きく開けた口に塩水が入り込み、しょっぱさに目がくらむ。
その時のことを思い出すと、また口の中がしょっぱくなりそうだ。ユリザの言葉がなかったら、未だに悲しみにばかりとらわれていただろう。ユリザが厳しく礼儀作法を教え込んだのも、母親が身分の低いからと蔑まれないためだとセイラのにも分っている。
「ありがとう」
「感謝は態度で表して欲しいものね。問題を起こさないとか、ふさわしい格好をするとか」
「……」
「それと、貴女まだ自分の状況を把握していないようだから教えてあげましょう。式は一週間後に控えてますのよ」
「式って?」
何のことかさっぱり分らないといった表情に盛大にため息をつく。
「貴女とジルフォード殿の結婚式です。今更、ファナのほうが適任だったなんて馬鹿げたことを言っている暇などありませんよ。さっさと式の準備をなさい。」
「はいっ!」
慌てて去っていく小さな背中に笑みを一つ。
「貴女だから嫁がせたのよ。いつか解るわ」