第48話:目覚め
リズミカルに刻まれる高い足音に廊下を行き交う人々は、その主を探し、見つけるとはっと息を呑んだ。高く結い上げた皇かな髪に透けるような白い肌。見事な体のラインをより美しく見せるドレスを完璧に着こなして、ユリザはタナトスの城の中を歩いていた。セイラが倒れたという知らせは、タナトスに入ると同時に伝わった。あの頑丈な娘が倒れたという知らせに半信半疑だったのだが、ただ倒れたわけではないらいい。
「こちらでございます」
寝室の扉を開くと、予想通りの姿があった。今にも死んでしまいそうなほど青ざめた顔のハナがベッドに張り付いているのだ。のろのろとユリザに向けた瞳の下には隈がくっきりと浮かんでいる。
「……ユリザ様?」
近づいてセイラの顔を覗き込めば、こちらのほうがよほど健康的に見える。
「貴女、ひどい顔よ。休んでいるの?」
ハナは弱弱しく首を振る。この三日間、ほとんどの時間を今のようにセイラの傍で過ごしているのだ。侍女仲間が何度か休むようにとすすめてくれたのだが、眠ればいくらもしないうちに自分の悲鳴で目が覚めるのだ。
「ただ眠っているだけなのでしょう。そんなに心配せずともよいでしょう」
話を聞くとただ、眠っているだけらいいのだ。医者たちも首をひねるばかりだ。
「ですが……」
「セイラとてエスタニアの娘、そう簡単に死んだりしませんわ。貴女が一番知っているでしょうに。貴女もエスタニアの、それもハナメリーの娘ならば毅然としていなさい」
セイラが挿絵に似ているかという理由だけハナメリーから付けた名が、エスタニアでは重要な意味を持つと知ったのは、ユリザがジニスに来たときのことだ。セイラがハナの由来を嬉々として語るとユリザは貴女も私の妹になるわけねと見惚れるような笑みを浮かべたのだ。
エスタニアの四季の女神の名を冠せるのは、聖母と呼ばれていた第二側室の娘だけなのだ。冬の女神のユノー、夏の女神のトゥーラ、秋の女神のフープはそれぞれ、聖母の産んだ第一王女、第二王女、第六王女の守護神となっている。もう一人の王女を産むことなく聖母が亡くなったので、ハナメリーを守護神に持つものはずっと現れていなかったのだ。
最初は、からかっているのだと思っていた。けれど、ユリザはセイラにするのと同じようにハナに接し、色々なことを教えてくれた。
「まずは休むことよ。そんな顔で人前に出るものではないわ。セイラが目覚めた時、その顔を見てなんていうかしらね」
「……はい」
頷いてみたものの、素直に眠れそうにはなかった。そばに入れないのならば、無性に働いていたかった。
「どうしても休む気が無いのならば、セイラを着飾る準備をなさい」
「え?」
「まさか、寝起きの格好で私に挨拶させるつもりなの」
「はい!」
駆けて行くハナを視界の端にとらえながら苦笑をもらす。自分が孤児だったことを、随分と気にしていた頃とは比べ物にならないほど良い娘になったと思う。立ち振る舞いは貴族の娘にも引けを取らないだろう。けれど、セイラに関しては必要以上に心配性になるのは変わりないらしい。視線をセイラに戻すと、さらに苦い笑いが漏れる。
「貴女って娘は眠っていても問題を起こすのね」
毒の心配は無い。エスタニアの王族は、長い歴史の中で非常に毒に強い体質を手に入れたのだ。多少の毒なら体調を崩すこともなく、毒見役も必要としない。その上、セイラの母は特殊な立場の人だった。彼女の娘ならば、他の王女よりも耐久性は強いはずだ。
毒で無いならば、眠り続けるというこの状態は何なのか。一つだけ心当たりがあるのだが、あまり乗り気はしない。
「こんなことで、あの国に貸しをつくるのは嫌だわ。さっさと起きなさい」
ぴしゃりと言い放つと、ユリザは扉へと視線を向けた。
「お入りになられたら?」
扉がゆっくりと開いた。誰かと問うまでも無く相手は分っていた。未婚の娘の部屋に入ってこれる男性は、父親か将来を約束した相手ぐらいのものだ。もしどちらでもないならば、たたき出してやらねばならない。
「お会いできて光栄ですわ。ジルフォード殿下。ユリザ・リューデリスク=トゥーラ・エスタニアと申します」
ユリザの挨拶にジルフォードは深く頭を下げた。
「我が名はジルフォード・アリオス。アリオスの地に連なるもの。大陸の知恵たる姫。炎に愛されし女神。司るは生命の息吹き。厳しき瞳で世界を見つめ、断罪の刃を振るうもの。貴女に会えたことを光栄に思います」
ユリザはジルフォードがエスタニア流の挨拶を知っていることに瞠目した。大貴族でも口上を考えるのに四苦八苦する、もっとも古い挨拶の形だ。己が何者か宣言し、相手を称え、会えた事を感謝する。
ユリザも長年外交にたずさわっているものだ。すぐさま、いずまいを正すと挨拶を返す。
最上の礼をとられたら、最上の礼を返すのが礼儀なのだ。気に入らないならば、それなりに。
「我が名はユリザ・リューデリスク=トゥーラ・エスタニア」
先ほど名乗ったが、この礼では最初になのることが必要なのだ。
「エスタニアの二番目の娘。炎の女神を守護に持つ者。」
次は相手を讃える言葉を述べる。
「瞳に千の色を閉じ込めし者。夜に愛され、月の口づけを受けた賢者。無限を与えられ、陽さえ慄く光を秘める者」
ユリザはそこで一度言葉を区切り、強くジルフォードを見つめた。黒曜石で作ったナイフの鋭さが、目を反らすことを許さない。
「闇が光を蝕むならば、私の炎で滅しましょう」
最高の祝辞と警告を。読み取れるかどうかはジルフォード次第だ。もし正確に理解し、実行するならば、各国が喉から手が出るほど欲しい人脈と手腕を惜しげもなく与えてやろう。深く頭を垂れる青年に、遠い昔の賭けの結果の一端を担わすのも面白い。一か八かの賭けなどしないユリザには結果は見えているけれど。せっかくの機会だ。負ける相手の顔を拝みにいこう。
「一つ、聞いてよろしくて?」
これはエスタニアの王女としてではなく、セイラの姉としての好奇心。
「セイラは貴方に何をもたらしました?」
「……怖さを」
意外な言葉が返ってきた。あの無鉄砲なだけの小娘が恐怖をもたらすなど信じられない。
まぁ無知は怖ろしいわねと、安らかに眠るセイラに視線を送る。
「もうセイが居なかった生活を思い出せないかもしれません」
セイラが、アリオスに来てからたった数ヶ月。その間に知らない感情が増えていった。いつの間にか、居ることが当たり前になって姿が見えないと探してしまう。
心地よさに自分の立場を忘れてしまいそうだ。
「そう」
「今回のことは」
「謝罪は不要です。今回のことはセイラが馬鹿だからです。もう少し、うまく立ち回ればよいのに、後先を考えすに突っ走ったのでしょう」
きっと他の妹たちならば、秘密裏にうまくおさめたに違いない。ユリザが着くなり、国王や王妃が頭を下げる事態にはならなかったはずだ。良くも悪くも賢い娘たちだから。けれど、心底心配され、愛されるのはきっとセイラだからだろう。毒舌を吐きながらも、これで良いのだと思う。
「セイラが目覚めたら渡してちょうだい」
ユリザが目配せすると、今まで身動ぎ一つしなかった彼女着きの侍女が小さな箱を三つ持ってきた。一つずつは片手に収まるほど小さい。
「右からセイラ、ジルフォード殿下。ハナだそうです。今日のところはこれで失礼いたします」
それだけ言うと、ユリザは流れるような動作で部屋を後にする。
「半端者のセイラにはお似合いかしらね」
閉めた扉の向こうで、ゆるりと微笑み、もう一度ジルフォードに告げた言葉を繰り返した。
「闇が光を蝕むならば、私の炎で滅しましょう」
ーお前の闇がセイラを苦しめるのならば、私はお前を罰するだろう。
ーもし貴方の光を翳らすものがいたら、取り払いましょう
セイラは、あの場所の階段を一人で下りていた。何度、上り下りしたかは覚えていない。数える気が失せるほど下り、気の遠くなるほど上った気がする。その度に思うのだ。どうして、こんなに中途半端な段数なのだろうかと。
「最初の一段はマルスのために。次の一段はエイナのために。一人のために一段を捧げよう。最期の一段は終焉を綴る王のために」
歌が聞こえてくる。墓守の声だと思うけれど、姿は見えないため明確には分らない。
「棺の数だけ段数を」
いつの間にか、棺の部屋にの中央に立っていた。
「216番目。覗いてみたいかい?」
目の前には、216と刻まれた棺が、ひっそりと置かれている。もし、頭をふとよぎった考えが本当ならば、この棺はジルフォードのものなのだろうか。
「それとも、どこまでうまっているか知りたいかい?」
どこまで?
何番目の棺まで使われているということだろうか。
「それとも、自分の棺を?」
私の?
この棺の中に、いつか自分が入るものがあるということだろうか。
「好きなものを覗くといい」
全ての棺の蓋がゆっくりと開き始めた。もう少しで、中が覗けそうなところで、閃光が走った。まぶしさに目を閉じる。同時に声の主が悲鳴を上げた。
「祓いの石か」
忌々しげにつぶやいた後、声はふつりと途絶え、棺の蓋も隙間無く閉まったままだ。呼びかけても返事は返ってこない。代わりに世界を揺らしたのは、一番恐れている人の声だった。
「ねぇ様!」
セイラは自分の叫び声で飛び起きた。夢の中にまで出てきて、説教をするとはユリザは怖ろしい。もう少しで、何かが分りそうな予感がしたのに、覚えているのはユリザの声ばかりだ。
「……ジン?」
何かをつかむ様に伸ばした手の先で、白い髪がふわりと舞った。ジルフォードの驚いて目を見開いた感が可愛らしい。珍しい姿に頬が緩みそうなのに、自分の置かれている状況が良く分らない。自分の部屋であることは家具から見て間違いなさそうだが、何故ジルフォードがいるのだろうか。記憶を辿るとユリザのお説教。それを振り払って、もっと先を思い出そうとすると甘い香りを嗅いだ気がした。
「寝てた?」
「眠っていた」
「ずっと?」
「三日間」
セイラは心の中で呻いた。それだけ眠っていたら、沢山の人に心配をかけただろう。心配性のハナなど眠っていないかもしれない。
「どうしたのかな? そんなに寝たこと無いよ……」
原因は分らないけれど、目も覚めたことだしまぁいいかと楽天的に考えておるセイラの頭の上を白い手のひらが撫でていく。その優しい手つきに、また眠ってしまいそうだ。
「心配かけてごめんね。おはよう。ジン」
「おはよう」