第40話:とりかえ1
ドアの隙間からそっと廊下を窺うと現在の見張りは珍しくケイトではなかった。
いくらはりついていろと言われても、ケイトとて生身の人間。たった一人で休みも無く、廊下に立ち続ける事などできるはずがない。
ドアから滑り出ると、代わりに立っている青年が瞬時に何事かと口を開いた。
「セイラ様のために本の続きを貸りに行きますの」
初めてみる顔の青年にそう言って微笑めば、すんなりと通してくれた。
柔らかい日差しが差し込む廊下を堂々と歩いても誰にも見咎められる事もない。
今日は書庫の前に行く場所があった。
普段は、あまり足を向けない一画にある豪華な扉の前で足を止めると、侍女を捕まえ、部屋の主に来訪を告げてもらう。
侍女は事前に連絡もなしに来たので、あまりいい顔はしなかったが、セイラ様からの言いつけでと強調すれば、仕方なさげに扉を叩いてくれた。
扉の先で部屋の主であるテラーナは、ついと視線を上げた。
訪問者に何用かと問いつめるために視線を上げたのだが、その姿が目に入ると別の言葉が口をついた。
「あ、貴女……」
瞠目したテラーナに少女はくすりと笑った。
テラーナはすぐさま侍女たちに退室を命じ、まだ信じられないものを見る目つきを少女に向けていた。
部屋に二人きりになったと確認すると少女は皇かな黒髪に手をやり、それをすべりおろした。
中から現れたのは亜麻色の髪だ。
瞳が細められ、唇が嬉しげに孤を描く。
「ふふ。やっぱり君は騙せないみたいだね」
綻んだ唇から零れるのは、紛れもないセイラの声だった。
ばれてしまったのだから大人しくハナのまねをしている必要は無い。
首もとをくつろげて纏めていた髪の毛を解いた。
「侍女の服って窮屈だね」
ふうと詰めていた息を吐く。
黒い髪とエスタニアの侍女の服、その姿はここには一人しかいない。
服を交換して、黒髪の鬘をつけると誰も疑わずに、セイラのことをハナだと認識してくれたのだ。
今頃、部屋ではハナがセイラの格好をして寝室に閉じこもっているだろう。
「貴女、何をなさってるの……状況が分かっているの?」
自分が狙われていると分かっているのだろうか。
確か部屋にいるように命じられているのではなかったか。
どうしてふらりと、しかも侍女の格好をして自分の部屋を訪ねてくるのか分からず絞り出した声は、驚くほど震えている。
喉元を押さえつつ、セイラを見やると、彼女はことりと首を傾けた。
その動きに合わせて、窓から差し込む光りの粒が亜麻色の髪の上で弾けた。
「テラーナは大丈夫?」
その言葉に、不覚にも光りの粒を美しいと思ってしまった思考は追いやられ、沈めたはずの想いが浮き上がる。
「何をおっしゃっているの?大丈夫に決まっていますわ。誰も私など狙うはずないもの」
「そんなの分からないよ」
「誰が私など狙うのです。何の意味も持たない、価値のない妹君など傷つける意味などおあり?」
何を言っているのだ。
そんな顔をしたセイラにさらに怒りが込みあがる。
思わず、立ち上がると椅子は大きな音を立て倒れたが気になどならなかった。
「私は貴女ほど重要だと思われていないの! あ、あの人ほど気にかけられる人物ではないのよ」
「あの人?」
「あの色なしよ! あの魔物」
悲鳴のような声の後、しんと静まった部屋に軽やかな笑い声が響いた。
「……何がおかしいのです」
「テラーナはジンが羨ましいんだ」
にこにこと笑みを浮かべる少女の言葉を理解すると、一気に顔に血が上っていくのを感じた。
「誰が、あんな人!」
「うん。うん。ジンはキレイだもんね。憧れるのは分かるよ」
納得するように何度も頷かれ、頬がさらに熱を持つ。
「貴女ね!」
「でもジンを羨ましがる必要は無いよ。君はとってもキレイだもの」
「なっ……」
「それは君だけの色だよ。誇るべきだ。」
まっすぐに向けられた瞳が、何を見ているのかはすぐに分かった。
膨れ上がった怒気は、急に行き場をなくし、開けたままの口をどうしていいのかも分からなくなった。
「何も知らないくせに……」
知っているわけはない。
己の色が嫌だと、比べられることが苦痛なのだと一言たりとも漏らしたことはないはずなのだから。
「うん。君の事、何も知らないね。テラーナも私のこと知らないでしょ? これから知っていけばいいと思わない?」
「私、貴女が嫌いです」
「じゃあ、好きになってもらうように頑張る」
威嚇するように睨み付けて、嫌いだとはっきり宣言したのに、深い色を湛えた瞳は目があったことを喜ぶようにふわりと細められた。
嫌な女だと部屋を出て行ってくれたらよかった。
先に目を逸らしたのはテラーナの方だ。
「私ね」
止めて欲しい。これ以上、言葉を重ねて中身など見せてほしくない。
誰からも愛されて、劣等感をかきたてる嫌な人であって欲しい。
「……帰ってください。早く帰って!これ以上かき回さないで!貴女の事を好きになんてなりたくないの」
言葉を遮るように叫んで、きつく瞼を閉じた。目頭を熱くさせるものを認めたくなど無かった。
痛くなるほど奥歯を噛み締めて、涙が零れるのを堪えていたのに、次の言葉で一瞬、力が緩んでしまった。
「私はテラーナのこと好きだよ。また手合わせしたいな」
「私は……嫌いです」
搾り出すような声を聞いた後、セイラは背を向けて扉に手をかけた。
「嫌いです。……けれど、まだこの間の勝負はついていません。貴女なんかに負けませんから」
その声に振り向いて、セイラは笑みを浮かべた。
「うん。私も負けない」
心からの笑みにテラーナはやはり嫌いだと強く思った。
拒絶したはずなのに、すんなりと次の機会を取っていく相手も、それに乗ってしまう自分自身も。
「……ノウチェスという人物を」
しばし考えを巡らせた後、テラーナは一人の名を上げた。
「え?」
「勝負がつく前に死なれては困ります」