第35話:逃亡
完全にふて腐れてしまったセイラは寝室から一歩も出てこなくなった。
ジョゼの言いつけどおりケイトは今まで以上に厳重に扉に張り付き、ハナ以外の侍女ですら近づけない。
城全体にも暗雲が立ち込め、どこか冷たい空気が包んでいる。
お茶を用意してもお菓子で釣っても出てこないセイラにハナはすっかりしょげてしまった。
寝室への扉に鍵なんてかかっていないことは知っているが、それでも入ってくるなという気配を感じてどうする事も出ない。
セイラのほうはハナに悪いとは思いつつ寝室でこっそり準備を始めていた。
裾の短い服に着替え、髪を一つに束ね音を立てないように慎重に窓を開ける。
頬を切りつけるような冷たい風が襲うがかまってなどいられない。
ジョゼもケイトもハナでさえあまりの事態に彼女がとんでもなくお転婆で規定外のお姫様だと失念していたのだ。
―ジニスの女をなめないでほしいな
そこが二階であろうが三階であろうが体重を支えることができる紐があれば地面に辿り着ける自信はある。
その上に地面にはふかふかの雪もたくさんあるし見張りもいない。
取り合えず書庫に行こう。
カナンはきっとセイラの行動に賛成はしてくれないけれど欲しい情報は与えてくれる気がしたからだ。
降りた後のこともしっかりと考えている。
ここ数週間の探検は大きな成果をもたらしてくれ、誰にも見つからないまま書庫まで辿り着けるルートはしっかり頭に入っている。
ベッドの上には置手紙を一つ。
『書庫に行くから協力してくれるなら来て』
セイラは自分の意地悪さに苦笑した。
今この場で告げないくせに、必ずハナが自分が抜け出したことを誰にも話さずに来てくれることは分かっているのだ。
「ごめんね」
小さく呟いてセイラは窓の外に身を投げ出した。
至る所に見張りの兵士たちが居たがセイラの進行を妨げる役目にはならなかった。
自分が作った雪像が今、身を隠すのに役立つとは思いもよらなかった。
幸いな事に一つきりしかない書庫の扉の前には誰も居ない。
「カナン。カナン」
中に入り呼びかけると驚いたようにカナンが現れた。
「セイラ様……大丈夫ですか」
どうやらここまで情報は伝わってきているらしい。
優しく自室に押しやってカナンは扉を閉めた。
「大丈夫だよ。怪我っていってもこんなもんだ」
包帯をむしり取ってみせると、細い腕に一筋の赤が走っていた。
痛々しいには違いないが想像していたよりもずっと軽い傷に安堵してカナンはため息を付いた。
「そうですか」
カナンはセイラを椅子に座らせると新たな包帯を巻き始めた。
いらないと駄々をこねてみてもやんわりと叱られ、痛々しい傷を見てはいられませんと眉を下がられると大人しくするしかなかった。
「今、部屋から出てはいけないのではありませんか?」
「窓から抜け出してきた」
包帯を巻き終えたカナンにありのままを告げると仕方ない人ですねと苦笑された。
「危険な事は重々承知していますね? 貴女の身が傷つくのがどういう意味を持つのかも」
いつもは優く薙いだ瞳がこんなに厳しさを湛えるのを初めて見た。
今はもうジニスに居た時のように唯のセイラでいることはできない。
セイラ・リューデリスク・リーズ=エスタニア。
名の通りエスタニアを背負っているのだ。
頷きその瞳を見つめかえすとカナンの瞳の色がふっと和らいだ。
「とても心配しているのですよ。私もジン様も」
扉の前にはジルフォードが立っていた。
「心配かけてごめんね」
近寄ってきたジルフォードはセイラの頭を撫でた。
「大丈夫だよ」
手を伸ばし背中を叩くとジルフォードは撫でるのを止めた。
「何故ここまで来たのです?」
もちろん暇を持て余して本を借りに来たわけではない。
カナンもセイラがそこまで軽挙な行動に出るとは思っていない。
セイラは服の首もとを開いて見せた。
そこには微かにかさぶたが残っているだけだったが、数日前を思い出すには十分だった。
「この傷が出来たのはサンディア殿のところに行ったときなんだ」
驚くカナンにもちろん国王の許しを貰っていったことを告げ、あらましも簡単に教えた。
僅かばかり強張るジルフォードの背をもう一度叩き大丈夫だと繰り返す。
今話したいのはそれじゃない。
「そのことをジョゼに知られちゃって、彼女が今回の事も関係あるんじゃないかと疑われてるんだ」
「……それは」
「彼女じゃない」
きっぱりと強い口調で言ったセイラに驚きの目を向けた。
今しがた首を絞められたと言ったばかりだというのに。
「どうしてそう思うんです?」
「勘!」
「……勘ですか?」
もっともあやふやで確証の無いものに命を委ねようとするのか。
「うん。なんて言ったら良いのか分かんないけど、絶対彼女じゃないよ。私はそれを証明したいの」
カナンは闘志を燃やすセイラに一概に賛成だとは言えなかった。
「昔話こうだった、噂話はこうだからなんてもう止めにしよう。アリオスはいつまであの冷たい牢獄に彼女を閉じ込めれば気が済むんだ。それに本当の首謀者を逃がしちゃうほうが大変だと思うよ」
ジョゼもサンディアばかりを疑って動いているわけではないと理解しているけれど、何もせずになどいられないのだ。
「セイラ様の勘は良く当たりますわ」
「ハナ!」
飛びつくセイラににこりと笑みを見せた。
「ケイト殿を納得させるのに時間がかかりましたわ」
ハナがセイラが抜け出したことに気づいたのは二十分ほどしてからのことだった。
叱責を覚悟して向かった寝室は微かに開いた窓から入り込んだ冷気で凍えるような寒さで主の姿は無かった。
急いで見つけた置手紙をポケットに納め、平常心を保とうと深呼吸を繰り返した。
廊下に出れば案の定、何事かとケイトが尋ねてきたので「セイラ様を慰めるために本を借りてきます」と言うとダメだと首を振られたのだ。
「それが私の仕事ですの。あなたに口出しされることではありませんわ」
それでは護衛をと言うケイトに眉を吊り上げた。
「狙われているのはセイラ様なのですよ!私に割く人員がいるのならさっさと大元を捕まえてくださいませ」
悪いとは思いつつも怒鳴り返すとケイトは口を閉じ、小さな声で謝ってきた。
良心が痛んだがそのまま逃げるように書庫へとやってきたのだ。
「さすがハナだね」
二人の少女に呆れと感嘆を混ぜたため息を付き、カナンは頷いた。
「分かりました。微力ながらお手伝いいたしましょう」
それは少女たちのためばかりでなく、俯いて表情が窺えない青年のためでもあった。