第31話:痕
「こちらにセイラ様はいらしていませんか?」
軍人であるケイトにとって書庫は頻繁に訪れる場所ではないのだが、最近ではよく顔を出すようになった。
カナンの名前を知ったのはつい最近のことだ。
「いいえ、今日は来られておりませんよ」
一日に一度は何処かしかで出会って挨拶をするのだが、今日はまだ一度も顔を見ていない。
日も暮れかかる頃合なのに珍しい事だ。
届け物があったので部屋を訪ねてもハナすら姿が無い。
書庫にすら居ないとなるとどこに行ったのか。
「そうですか」
「もうお勤めの時間も終わりでしょう。お茶を淹れますからどうぞ」
優しげに微笑んでカナンは中へと促した。
「あ、いえ、そんなご迷惑でしょう」
「いいえ、新しくブレンドしたお茶の味見をしてもらいたかったのです。そのうちセイラ様もくるかもしれませんし」
うまく誘導されながらケイトは室内に入ることになった。
はっきり言ってカナンのお茶はとてもおいしいのだ。
茶葉の種類も良さも判断できないケイトだが彼の淹れたお茶は好きだ。
数回しか飲んではいないのだが、いつも丁度よい温度、濃さで出てくる。
部屋に通されるとジルフォードの姿があり、慌てて居住まいを正しと頭を下げる。
「おっお邪魔します。ジルフォード殿」
頷かれギクシャクとしながら席につく。
考えてみれば三人だけで会ったことがない。今までは必ず、セイラかハナが間に居たのだ。
―どっどうすればいいんだろう
カナンはお茶を淹れる事に専念し、室内には薪の爆ぜる音ばかりがする。
上司のように軽く話しを振ることも出来ず、セイラのように明るく笑みを向けることも出来ないケイトは自分の心臓の音に急き立てられ混乱し始めていた。
ジルフォードが怖いわけでも嫌いなわけでもないのだが、あまりにも感情も行動も示さないからどうしていいのか分からないのだ。
同僚たちは感情表現が豊かなのだ。
怒れば喚くし、時に殺気まで滲み出す。
嬉しい時は大声で笑い聞けと無理やり話を始める。
そうされれば此方の身の振り方も考えれるのだが、ジルフォードにはそれも無い。
もちろん同僚には無口な者もいるが、そこは長年いっしょにいれば多少は分かるし、仕事という共通の話題がある。
―ジルフォード殿に調練の話をしてもナァ……
話しかければ聞いてくれそうだが、特に興味もなさそうだ。
―ああ、セイラ様来るなら早く来てください〜……
ケイトの祈りが通じたのか、書庫の扉が開けられた音がし、二人の少女の声が聞こえてくる。
「もう、ハナは大げさなんだよ」
「セイラ様はもっと気にしてくださいませ!」
「いくらなんでも目立つもの」
「それだって十分人の目を引きましてよ」
呆れを含んだ声と怒りを含んだ声。
救世主の声が近づいて来て、扉の向こうに明るい色がのぞいた。
「あ、ケイト」
「あら、本当ですわね」
眼を大きくする二人に感謝の視線を送り、挨拶を交わす。
「いらっしゃいませ。どうぞ……」
早速、カナンが進み出て部屋に招きいれたのだが不自然に行動が止まった。
ケイトからはカナンの背中しか見えないが、彼が息を呑んだのが分かった。
何事かと近づくとケイトの目にもしっかりとそれは映った。
「どうしたんですか!」
細い首には引掻いたような傷と赤い痕が付いている。
「うっ……うん。ちょっとね」
ほらごらんなさいというハナの視線と原因を問いただそうとする二人の視線をかわしながらセイラは曖昧に笑った。
サンディアに絞められたなど言えない。
「ちょっとじゃありませんよ。どうやったらこんな痕が付くんです」
明らかに人の手で付けられた痕にケイトは眉を怒らせた。
セイラが両手と髪を使って覆い隠してみるも、もう無駄だった。
「いっいろいろあったんだ。でも、もう大丈夫だし」
じりりと逃げ場を確保しようと後ろに下がっていったのだが、いつのまにかカナンの部屋と書庫を仕切る扉が閉まっている。
―カ……カナン〜
ちょっと喉を潤しに来ただけなのにどうしてこんな目にあうのだろう。
ハナの言うとおり包帯でも巻いてこればよかったのか。
扉の前にいるカナンは珍しく笑っていない。
包帯を巻いていても結果は同じ気がする。
前にケイト、後ろにカナン、横にはハナ……
「大丈夫だもん。ケイトもカナンも心配しなくていいよ」
セイラは隙を突いて逃げ出し、ジルフォードの影に隠れるように座り込んだ。
周りを囲まれたらそれこそ逃げようが無いのだが、二人は追ってこず標的をハナに変えたようだ。
「どうなされたんです?」
「ハナ殿!」
カナンが優しく問いかけ、ケイトが厳しい目を向ける。
けれどハナはあくまでセイラの味方だった。
「秘密でしてよ。心配なさらずとも解決しましたの。それよりセイラ様に包帯を巻くように言ってくださいまし」
ハナとてサンディアがセイラの首を締め上げたと言って話を大きくするつもりは無い。
しかも今回の訪問はルーファ以外には内緒なのだ。
「ですが……」
「せっかくのお茶が冷えてしまいますわ」
言い募るケイトを無視して、ハナは茶器を取り出し始めた。
痛い視線を注がれつつも何も言わなくなった二人にほっとしていると、首を押さえていた手をゆるりと外された。
「ん?」
「あら」
珍しいジルフォードの行動にハナも声を漏らした。
首を覆っていた髪も白い手にはらわれてしまい、問題の痕が露になった。
それを見下ろすのは緑色に暖炉の火がうつり金が混じる色。
その色に暫く呆けていたけれど、首もとにはしる微かな痛みに我を取り戻す。
―次はジンか
手を持たれたままだと逃げ出すことも出来ない。
しかもその瞳の色から目を離す事もできなくてダラリと冷や汗が垂れてくる。
けれど青年の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「消毒はした?」
ジルフォードの行動を見守っていた三人は目を丸くした。
言われた本人もぽかんとしていたのだが、鼻にツンとくる匂いを嫌でも思い出した。
「消毒? したよ。ハナがすっごく痛い消毒液を塗りたくってくれたよ」
恨みがましい視線をハナに向けるとにこりと微笑まれ、慌てて視線をジルフォードに戻した。
「そう」
痕を一撫ですると納得したのか手を離し、元の位置に戻るジルフォードに声をかけたのはケイトだった。
「ジルフォード殿! 先に何があったか聞きませんか?」
少しばかり前の混乱をきれいに忘れて、ケイトは詰め寄った。
「セイは教えたくないようだし、ハナ殿が心配ないと言うなら大丈夫」
「そっ……」
「信用していただけて嬉しいですわ。あなたにも信用してもらいたいですわね」
ハナの視線を受けてケイトは口ごもった。
ジルフォードの言葉にカナンもこれ以上聞かないことにし、ハナに任せきりになっていたお茶の準備に戻ることにした。
それにハナからの目配せで、聞くのなら困り顔の青年が居ない時のほうが良い気がしたのだ。
セイラの首に残る痕は細い。
あの痕を付けたのが誰なのか大方の予想が出来ていた。
「さぁどうぞ」
人数分のカップが机の上に並び、一人だけ納得していないようだったがささやかなお茶会が始まった。
ケイトがセイラへの届け物があったことを思い出したのはお茶を飲み干して、セイラを部屋まで送り届けた後だった。