第30話:黒い想い
「今日はこの辺で終わりにいたしましょう」
マキナは相手の手から剣が滑り落ち、床とぶつかり甲高い音がした後そう告げた。
己も相手も全く息の上がっていない状態で切り上げることなど無いのだが、珍しく相手に覇気が無い。
「何か気にかかることでもありますか?」
向かい合う相手はマキナの一番の教え子といっても過言ではない。
いつもは嬉々として向かってくるのに今日は思いつめた顔でやってきて、刃を合わせるたびにその色は深くなっていった。
落ちた剣拾おうともしない姿に本格的におかしいと思い近づき、碧色の瞳が伏され、唇が何事かを紡ごうとして二三度失敗するのをマキナは見守った。
目の前に居るのはテラーナだ。
銀の髪は一本に結われ、いつものドレス姿はない。
「マキナは……手合わせをしたのでしょう? その……あの人、エスタニアの」
「ああ、セイラ様ですか」
ジョゼが連れてきた後も、セイラはたまに現れては何度か手合わせをしたことがある。
テラーナとセイラが鉢合わせた事はないので侍女の誰かから聞いたのだろう。
「……どうでした?」
そう聞いた後、テラーナは唇を噛み締めた。
「不思議な方ですね。傍から見れば美しい動きなのに、あの動きは確実に人を殺すためのものです」
同じく剣を嗜むもの同士気にかかるのだろうとマキナは告げた。
「ですがセイラ様の剣はひやりとはしますが怖くはありませんね」
急所を捉える瞬間に動きが鈍るのだ。
その間に此方は新たな攻撃を繰り出せる。
「手加減をされていると?」
「いえ、手加減ではないでしょう。おそらくセイラ様は相手を殺すために刃を振るった事がないのだと思います。」
だから躊躇いがでるのだ。
ジョゼとの攻防が恐ろしく冴えて見えたのは、どんな攻撃をしても相手が軽くいなせる事を無意識に感じ取っていたからだ。
平和ボケしていると思っていたが、誰かを傷つけなくとも良い生活は幸せなのだろうとマキナは微笑んだ。
マキナは大切なものを守るために戦うのも相手を傷つけるのも厭わないけれど、しなくていいならそれに越した事はないのだ。
「……」
「気になるのなら手合わせを願い出てみてはいかがです?きっと快く承諾していただけますよ」
「……ええ、今日はこれで失礼します。ありがとうございました。」
一度も暗い表情を変えない教え子を心配げに見つめたが、テラーナは振り返ることなく訓練所を後にした。
自室に着くなりテラーナはきつく結んでいた髪を解き、乱暴に愛剣をベッドに投げつけた。
己も同じように沈み込み、天蓋を睨み付ける。
どうして誰もが隣国からやってきた小娘のことをよく言うのだろう。
兄も義姉も師までもが彼女を称え、やってきて一月と経たないのに末端の侍女までがその名を呼びお優しい方だと言う。
自分は「国王の妹君」だというのに。
どこに行ってもそれは付いてくる。
名で呼ばれることよりも妹君と呼ばれるほうが多いかもしれない。
兄妹だというのに容姿でも兄に劣ってしまう。
侍女たちに美しい銀の髪と言われようとも兄の横に並べばくすんだ色だ。
華やかな金色が隣に居ればなお更、己の髪は色を失っていく。
兄のものより濃い碧の瞳も裏で「暗い」と何度言われたか。
兄も義姉も大好きだ。
けれど時に二人の存在は劣等感をかきたてる。
だから剣の腕を磨いたのだ。師の賞賛は己のものだった。
それなのにあっという間に奪い去られた。
「あんな人大嫌いよ」
口に出してみれば、ぞろりと己の中に渦巻く黒いものが動き出す。
「いつもあんな格好」
髪も結わずに自由奔放に歩き回る。
それは幼い自分の姿だった。
王の妹君なのだからを窘められ重いドレスを義務付けられる前の。
「アイツも嫌い」
誰もその名を呼ばないのに名前を知らないものなど居ない。
色を持たないくせに、とても強く存在を主張する。
父も母も「兄を見習いなさい」の後は「あの子はどうしているか」なのだ。
母の最期の言葉は「あの子と仲良くしてあげて」だった。
父の最期の言葉は兄に「国を頼む」と「あの子には悪い事をした」だった。
テラーナの名前はどこにもない。
身に潜む黒い思いに引きずられまいと記憶を深く深く沈めようとしているとおずおずと声がかかった。
「何用です」
当分の間誰も近づくなと言ってあったのに。
少々語気の荒いテラーナに申し訳なさそうに侍女が来訪者を告げた。