表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/60

第29話:母

王都から遠く離れた西の離宮は落葉した森に囲まれひっそりと立っていた。

もともと夏の避暑のために使われる宮殿は冬の景色の中寂しげである。

宮殿の前に広がる湖は凍てつき、人の訪問を避けるようだ。

こんな場所に前王妃サンディアは20年近く、静養と銘打って幽閉されていたのだ。

式も間近に迫ったある日のこと、セイラはジルフォードの母親に会いに行くと宣言したのだ。

今までサンディアの話など気にしていないような素振りだったセイラの言葉にハナが目を丸くしている間にたちまちに準備は整い、セイラはあれほど嫌っていた馬車に飛び乗った。

混乱しながらもハナも飛び乗った事は言うまでもない。

セイラがルーファに頼んだのはジルフォードの母に会わしてほしいというものだった。

こんなにも早く準備が進んだのは裏でルーファが口を利いてくれたためだ。

小さな馬車は裏門からそろりと出て行き、誰にも見咎められる事はなかった。


「寂しいところだな」


雪ばかりが目に付く、雪の白と建物とどんよりした空の灰色ばかりの色彩感の乏しい世界だ。

音さえも雪が吸収してしまう。

いくら雪が好きなセイラでも視覚も聴覚も触覚も麻痺した世界を好きになれそうにない。


「本当ですわね」


呟いた言葉さえも凍てついてしまいそうだった。

体中を毛皮で覆っても冷気はするりと入り込んでくる。


「さぁ早く中に入りましょう。」


促されて老人の後に続く。

眼前にはこれまた人を阻むように頑丈な鉄の扉がそびえている。

老人が押すとギィと錆付いた悲鳴をあげ、内側に開いた。

室内に入ってもさほど温度は変わらない。

風がない分ましといった程度であろう。

明かりもまばらにしか灯っておらず侘しさをかきたてるようだ。


「驚かれたでしょう。使用人もあまりいませんので、端々に手が回らないのです。」


老人は申し訳なさそうに頭を下げた。

少女たちにとってさほど驚く光景でもなかった。

故郷のジニスでは廊下に明かりなど灯っていなかった。

節約ということで、廊下を利用するものがめいめいに蝋燭を持つのだ。

だからいつも明るい廊下、どこでも暖かい室内そんなものはこちらに来てからだった。

けれども前王妃の立場にいる人の仕打ちとしてはどうであろう。

冷たい石の階段を上る。

螺旋の階段はぐるぐると終わりを見せず、反響する足音がさらに気を遠くさせそうである。

上りきった所で、人一人がやっと通り抜けれるほどの小さな赤い扉が目に付いた。

サンディアの部屋だった。

彼女は国の端の落ちぶれた宮殿の、さらに端の塔の最上階に部屋を構えていた。


「失礼いたします。サンディア様、セイラ様がお見えになりました。」


老人が開けた扉の先に椅子に座った女性が見えた。

顔は窓の外に向けられ、こちらからは表情を窺う事ができない。

結われていない髪は、無造作に背中に流されていた。


「お義母さま」


その言葉に女性は初めて振り返った。

書庫の片隅に置き忘れられたように、たった一枚残っていた肖像画のままの美しさ。

だからこそ虚空に向けるような目線が恐ろしい。


「セイラです。はじめまして」


「おかあさま……」


少女のようなあどけなさでサンディアは首をかしげた。


「ジルフォードの妻になります」


「ジル……」


サンディアは遠い沈めてしまった記憶を呼び覚ますように視線をめぐらせた。

彼女が息子に会ったのは15年も前の事だ。


「ああ、もうそんな年なのね」


彼女の中の息子は4歳の姿を保ったままなのだ。

いつまで経っても成長する事はない。

4歳の息子と彼女は凍てついた宮殿で暮らしている。


「あなたが……」


ようやく二人の視線はかち合った。


「可哀相ね。あの化け物の妻になるなんて」


彼女は淡々と自分の息子を化け物と呼んだ。

同行したハナは眉をしかめた。


「ふふふっ綺麗でしょう? 白く色を持たない私の魔物」


狂人めいた色の浮ぶ瞳をセイラの黒い瞳は正面から受け止めた。

彼女は自分だけの魔物を心から愛している。

けれど少女の中で青年はけっして魔物ではなかった。

人一倍思慮深く、それゆえに何もかも抱え込んで苦悩している

それを表現する術を知らず崩れ落ちそうな体で踏みこたえている。

それを魔物と呼ぶのなら人間なんてなんとつまらない生き物なんだろう。


「ええ。とても素敵な色です」


それが紛れもない本心だった。

笑顔で答えた瞬間、サンディアの瞳がカッと開いた。

穏やかな様子を一瞬で変え、考え付かなかったほど俊敏な動作で少女に掴みかかった。

あまりの出来事に老執事もハナも咄嗟に動く事ができなかった。


「私の子よ」


結われていない髪が彼女の激情を表すかのようにユラユラと揺らめき立つ。

鋭い爪が少女の喉に食い込んで痛みを生じさせた。


「私だけの魔物」


細い体のどこに力があるのか。

圧し掛かるように締め上げられ、振り払う事もできない。

ハナも取りすがって指を引き剥がそうとしたが、更に力が込められる。


「セイラ様!」


「サンディア様―!」


悲鳴が彼女の行為を止める抑止力にはならなかった。


「また奪うのね。この泥棒猫め!」


「ジンはジンのものです」


「私のものよ」


セイラの首には赤い筋が浮ぶ。

そろそろ息が苦しい。


「あなたも私もあの人の苦しみを分かってあげる事なんてできないでしょう」


「愛しい愛しい私の子ども。私だけが分かってあげられる」


必死に抑える老執事を跳ね除けてサンディアは叫んだ。


「全てを憎むために生まれたのよ」


「……そんなこと!」


解放され咳き込むセイラの背を擦りながらハナは涙を流しながら、怒リ狂う女を睨んだ。

くっきりと残った爪あとからは血が滲んでいた。


「ジンはあなたのことを愛していますよ」


「……」


セイラのその言葉にサンディアは動きを止めた。

ひどく意外な事を言われ、理解できないように。

白い頬に指からセイラの赤が移る。


「ちゃんと愛する事も慈しむ事も悲しむ事も知っています」


「……そんなこと」


よろりと傾きかけた体を老執事は椅子まで導き座らせた。


「そんなことないわ。あの子は私を怨んでいるもの。憎んでいるわ。誰よりも」


顔を覆った指の間から漏れた小さな声は懇願さえ含まれているようだった。


そうであって欲しいと


そうあるべきだと


「一度だって母と呼んでくれた事なんて……ここに尋ねてきたこともないじゃない」


それは無用な疑念を生まないためだった。


「ジンが一番好きな食べ物を知っていますか?」


「……」


「マナです」


カナンがそっと教えてくれた。

料理をしたことのなかった彼の母が唯一作れた菓子なのだと。


「ジンが一番好きな本を知っていますか?」


「……」


ジルフォードの部屋で見つけた一番ぼろぼろになるまで読み込まれた絵本の名を告げた。

何度も修復されたそれは眠る前に彼の母が読んでくれたものだと。




ひび割れた瞳から涙が溢れる


とうに枯れたと思っていたのに


「うそよ」


サンディアは弱々しく首を振った。


「私、ひどいことを……」


一度として名前を呼んだことは無かった


「私だって愛して……」


二人だけの生活は穏やかで

いつのまにか愛しさが育ち、激情など忘れて暮らしていた。

けれど生まれながらに不幸な道を歩かせる罪悪感に苛まれるのが嫌で、息子が連れて行かれる、その瞬間でさえ名前を呼んでやらなかった。

自分しかいなかったのに。

「愛しい」と「生まれてきてくれてありがとう」と伝える事ができたのは。




「ジンを生んでくれてありがとう」


視線の先で少女が穏やかに微笑んでいる。

どうして、たった今その首を締め上げた相手にそんな表情が出来るのか。


「ジンに逢わせてくれてありがとう」


零れ落ちる感情の名前など、もはや判断できなかった。

誰一人くれなかった言葉を十九年後に貰うなど

嗚咽を洩らすサンディアの横でセイラは封筒を取り出した。


「これ結婚式の招待状。良かったらきて下さい。国王の許可はとりました。」


付き添っていた老人は驚きに目を見開いた。

サンディアがこの離宮を出てもいいという許可は今まで一度も出なかったのだ。

置かれた封筒には正式な国王の印が押されている。


「来てくれたら、とても嬉しいです。私もジンも。」


机の上にそっと置いて、部屋を後にした




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ