第27話:涙の理由
最近セイラを見る侍女仲間たちの視線が変な事に気がついた。
前々から良い印象をもつ者が多かったのは知っていたが、最近ではそれがちょっと違うのだ。
セイラを見る目には尊敬の念が混じっている。
「セイラ様何かやりましたか?」
まさかあの雪像のすばらしさに目覚めたなんてことはないだろう。
そんな失礼なことを思いつつハナは出かけようとする主に上着を渡しながら尋ねた。
「何を?」
それを聞きたいのはハナの方だ。
「まぁよろしいですわ。夕飯までには帰ってきてくださいな」
カナンがいるから安心だが、一応忠告をして送り出す。
「うん。行ってきます」
元気にかけていく姿を廊下を行き交う他の侍女たちも微笑みながら送り出した。
―本当に何をなさったのかしら?……あの人がらみかしらね
あの人とはジョゼのことだ。侍女たちに変化が現れたのはジョゼが書庫に乱入してセイラを連れ去った日からだった。
悪い事ではなさそうなので、ハナは軽く息を吐くと今日の仕事に取り掛かった。
書庫の石造りの賢人の衣に隠れるように小さな扉がある。今まで気づかなかった秘密の入り口。
誘われるままにドアノブに手をかけると鍵がかかっている。カナンに話すと小さな鈍色の鍵を手渡してくれた。
光りが差し込むと横を向いた女性が居る。それは円形の小さな部屋にかかる肖像画だった。
燻った色の中で一人の女性が口を引く結び前方を見据え、その挑むような視線はりんとした美しさがある。
けれどふわりとしたドレスや髪飾りに反してどこか頑な印象を与えていた。
額縁に彫られた名前はサンディア。
前王妃でありジルフォードの母親。
「きれいな人だね」
「ええ。サンディア様は美しくて聡明な方でした」
後ろに居たカナンが懐かしむように目を細め賛同した。
「でも、悲しそうだね」
絵の中のサンディアはどこか泣くのを懸命に堪えている少女のようにセイラには見えた。
「サンディア様は他国から嫁いでこられたのです。……あの方にはアリオスの国風が合わなかったのかもしれません」
サンディアが嫁いできた時には今より軍事国家の色合いが強かった。
雪に閉ざされ自国との連絡もままならず、剣を手に取ることなど無い生活をしていた彼女にとってアリオスの生活は苦痛だったのかもしれない。
その上、王妃という重荷が押しかかり、いつも気を張っていたのだろう。セイラが悲しそうだと言った表情が常だった。
そして側室が出来、最初に子どもを身ごもったのも側室のほうだった。
ー彼女はいつ嫁いできたのかな?
肖像画の中の彼女はダリアよりも年下に見える。
ダリアと同じくらいでジルフォードを産んだとして、四十歳にも満たない彼女はたった一人で離宮にいるという。
城に残っている彼女の肖像はこの一枚だけだという。
「寂しいね」
「……そうですね」
「お母さんもジンも」
「……はい」
この人に会いに行こうと密かに決めながら鍵をカナンに返し、階段を駆け上る。
三階に着くとジンの部屋によじ登り、いつものクッションを手に取る。
最近は机と小さな本棚の間に入り込むのが好きだ。丁度ぴったりと入り込める広さで正面にジルフォードがいる。
「ねぇジンはカエデっていう人知ってる?」
ジルフォードは手元の本から顔を上げた。
「ジョゼがね、私とジンの剣の型が同じだって」
もう一度、尋ねるとジルフォードは頷いた。
「軽くって、お酒大好きで、うへへって笑う?」
セイラの言葉に戸惑いながらも心当たりがあるのだろう、ジルフォードは再び頷いた。
カエデという響きはここら辺ではあまり馴染みがない。その上、笑い方まで一緒ならほぼ同じ人物だろう。
「髪の毛もっさりしてて、自分勝手で、急に現れて同じくらい急にいなくなっちゃう……でも強くて、優しい?」
頷きが返される。
「口癖は」
「「なるようになるさ」」
重なった言葉にセイラは笑い出した。
ジルフォードとセイラの師は一緒だ。あんな人二人もいるはずがない。見た目は不審者なのに、子どもにも動物にも好かれる人だった。
「じゃぁジンは兄弟子になるのかなぁ〜」
隙間から抜け出してジルフォードに近づいて手を差し出す。
その行動の意味が分からずジルフォードは僅かに首を傾げた。
「手見せて」
セイラの手のひらに白い手が重ねられる。
細く長い指先。傷一つなく豆もない。どこのお姫様だって泣いて悔しがりそうだ。
ジョゼじゃなくとも争いごととは無縁だと思ってしまいそう。
どんな思いでカエデに剣を請うたのか。セイラのように美しさに惹かれたわけではないのだろう。
「カエデは何処に行ったのかな」
帰る場所は無いのだと言った。
ジニスにも留まる気はないと言った。
きっとアリオスにも彼はいない。
「……何処にでも」
ジルフォードの言葉に笑みが浮ぶ。
「そっか。何処にでもか。またふら〜と現れるかもね」
頷きながら白い手を突きまわした。
抵抗されないものだから指を引っ張り、曲げたりして遊んでみる。
「今度一緒に手合わせをしない?」
ジルフォードの首は静かに横に振られた。
「ジョゼも一緒だよ?」
ジョゼとのこの間の手合わせも力量には雲泥の差があることも知っていた。
確実に遊ばれていた事も。
ジョゼが強いというくらいだからきっとジルフォードには歯も立たないだろう。
だからジョゼもいれば力的にも大丈夫だろうと判断したのにジルフォードは頑なに首を横に振る。
―仲良しだったんじゃないのか?
セイラの知っている数少ないジルフォードの仲良しさんということですぐに承諾してくれるものだと思っていた。
―ジョゼの一方的仲良しさん?
なんとなくなりえそうな話だ。
「嫌なら仕方ないか……」
セイラはジルフォードの手を解放してやり、しゅんと下を向いた。
カエデ以外があの動きをするとどうなるのか非常に興味をそそられるのだが無理強いはできない。
「武器を握るのは好きじゃない」
「そっか」
静かに落ちてくる言葉にセイラは頷いた。
ーそっか……
武器を握ることを厭うても身を守る術がいる。
けれどジルフォードが守っているのは自身ではない。
彼が死んでしまえばサンディアは本当に一人になってしまう。
「君は」
そして懸念を招くほど強さを出してはいけない。
立場のある友人を巻き込まないために必要以上に近づいてはいけない。
「とても辛い戦い方をするんだね」
どうして自ら辛い道を歩むのか。
ジョゼなど全体重をかけて寄りかかってもびくともしなさそうなのに。
「きっと、すっごく考えたんだね。一人きりで守れる方法」
削れるのは己だけ。
カエデに教えを請うたのは去っていく人だと知っていたからだ。
アリオスの思惑でカエデを縛ることは出来ないからだ。
「よし! 今日からは私も一緒に戦うよ」
セイラは微笑んだ。
「ジンと私と半分ずつ。戦う労力が半分ですんだら、ちょっと余裕が出るよね。その余裕でもっと楽な方法考えようよ」
それが良いと手を打ちながら頷いた。
もちろんその楽な方法の中にジョゼやケイトを巻き込むのは決まっている。
「カナンとハナは食料係で……!」
セイラの口は開いたまま止まり、目は大きく見開かれた。
「……ジン」
紫の瞳からぽつりと雫が落ちた。
全ての機能を停止しているセイラの前でジルフォードは己の瞳から溢れた液体を拭い不思議そうに濡れた指先を見つめた。
「なっなんで泣くんだ! お腹痛いの? あっえっ? これ私のせいか?」
―泣かすようなこと言った? やっぱりお医者さん?
わたわたと無意味に動くセイラの前でジルフォードの瞳からは更に二つぶ雫が落ちた。
「カナンーお医者……」
「お腹は痛くない」
入り口に向かって叫ぶセイラの背に静かな声がぶつかった。
振り返るとジルフォードは袖口で目元を拭っている。
けれど雫は止まる事を知らないらしい。
「じゃぁどこが痛いんだ?」
「…………分からない」
セイラが見上げた先で暫くの沈黙の後、ジルフォードは分からないと言った。
何故涙が出てくるのか分からないと。
「痛くは無いんだな?」
初めて感じる形容しがたいものはセイラの言っている痛みとは違う気がし、ジルフォードは頷いた。
「それなら好きなだけ泣くといいよ」
セイラはほっと力を抜き、ジルフォードの頭に手を伸ばすとそっと撫でた。
柔らかな髪は手触りがよく、まるく盛り上がる涙は瞳と同じほどキレイだと思った。
「擦っちゃダメだよ。赤くなるから」
そう言うと目元を擦っていた手を下ろし、顔を背ける事もしないで零れるに任せていた。
こんなに静かな泣き方は初めて見た。
セイラにも頭を撫でてやる以外どうしたら良いのか分からず、頭に浮んだのは優しいカナンの顔だった。
「カナンにお茶を淹れてもらおうか」
立ち上がりかけたセイラの袖を白い手が引いた。
視線をやる頃にはすでに手は無かったけれど確実に引かれた感触があった。
浮き上がっていた腰をもう一度下ろして、ずりりとジルフォードの横に移動して寄りかかる。
沈黙が二人を包み触れ合った場所から、ぬくもりを交換し合う。
決して嫌ではない静けさに身を預けてどれほど時間が経過したのか、ジルフォードの頬を濡らしていた雫はいつの間にか乾いていた。
「今度ね、サンディア殿に会いに行こうと思うんだ」
哀しげな絵の主に。サンディアの名を聞いて僅かばかり力の入ったジルフォードの身を軽く打つ。
「一人きりはもうお終い。サンディア殿は私のお母さんにもなるんだよ」
己の言葉に母の姿が浮んできた。
「……恋しいね」
会えないと思うとなお更想いは募るらしい。
カエデの話をしたせいか、サンディアの話をしたせいか、たくさんの人の顔が脳裏を過ぎていく。
母にカエデにジニスの人々。
ジルフォードは恋しいが哀しいに変わるほど、緩む頬が強張るほど長い年月を一人で抱えてきたのだろうか。
セイラの瞳にもじわりと涙が浮んだ。
―……本当だ。何で泣いてるのか分からないね
会えないのが寂しいからじゃない。
ジルフォードに同情してるわけでもない。
けれど、鼻の奥が痛くなって鼻水が垂れてくる。
グスリと音を立てながら、どうしてきれいに泣けるのか不思議に思い、隣を見上げた。
―ジン困ってる……
先ほどの自分のようだ。
表情に変化はないもののどうして良いのか分からないと伝わってくる。
大丈夫だと言いかけたセイラの頭に白い手が乗せられ、撫でるというにはあまりにもたどたどしく、手のひらが動く。
それが心地よくされるがまま、涙は流れるままにしていると、窓から差し込む光りは赤みを帯び、徐々に弱くなっていく。
涙が枯れるとともに喉の渇きを覚える頃になると丁度よくカナンからお呼びがかかった。
「行こうか」
手をつないで現れた二人にカナンが頬を緩めるのもつかの間、目元の赤いセイラに驚きをあらわにした。
「どうなされました?」
同じほど泣いたはずなのにジルフォードには変化がない。
要領を得ない説明にカナンは困惑したのも無理はない。
「分かんない」
もっとも己の心情を表す言葉をセイラは笑顔で伝えた。