第9話:隣国のお姫様2
頬を打つ風は冷たいけれど心地よく、ずっと縮こまっていた体がほぐれていくよう。
結われていない髪は自由気ままに跳ね踊り、眼前では空が燃え上がる。
丘の上まで駆け上がると、空は広さを増し、濃さを増す。
感嘆は我知らず零れ落ち、馬の足もその光景に魅入られたかのようにぴたりと止まる。
「きれい」
遠く連峰の間に熟れた太陽がゆるりと沈み行くと次第に藍色が忍び寄り、一番星が存在を主張する。
何処から見ても落陽は美しいものだとセイラはもう一度ため息をついた。
その後ろで男は別の意味の感嘆を洩らした。
少女が乗っているのはケイトの馬だ。
連れてきた馬の中で一番性格の穏やかな馬ではあったが、それでも軍馬だ。
それを易々としかも言っては何だがちんちくりんの少女が乗りこなすなど驚いた。
速さも貴族の令嬢が趣味で乗馬をするようなものではない。
最初はお姫様の遊びに付き合ってやるつもりだったのに、
いつ間にか本気で鞭を入れていた。
念願かなって騎兵隊に入った者たちが見たら、さぞ間抜け面をするだろう。
―男なら軍に誘うんだがな〜……花嫁じゃなぁ
そんなことを思われているなど知る由もないセイラは鬣を撫でながら十分に景色を堪能していた。
そのセイラに一歩近づくと男は気になっていたことを問うた。
「セイラ王女は結婚相手に興味はないのですか?」
アリオスの人間に会って半日ほどが過ぎ、それなりに会話を交わしていた少女だが一度も自分の結婚相手について触れてこない。
「ん〜?」
振り向いたセイラは初めて後ろをついてきた男の顔を見た。
目深に冑を被っているため顔は良く見えなかったが、立派な体躯できっと背は高いだろう。
そして男の左目が目を惹いた。
太陽と同じ色をしている。
落陽の色を写しているのかと思ったけれど、右目は朱を写しながらも黒と知れる。
男が瞬きをした時、左目の上を刃が過ぎた痕があった。
おそらく左目は見えていないのだろう。
けれど、視力を失った瞳はセイラの真価を問いただそうと何かを見ている。
「楽しみは後にとっておくことにするよ」
気にならないわけではない。
あえて問いたださないのは幾ら話を聞いて想像を膨らませても本人に会えばきっと違う感想を持つから。
笑顔を向けるセイラに「そうですか」と僅かに口の端を上げた。
「エスタニアのお姫様は馬になんて乗らないと思っていましたが」
「ん〜他の人たちのことはわかんないけどなぁ。けど、乗らないなんてもったいないよね?」
馬車の窓からじゃこんなに美しくは見えないとセイラは両手を空に伸ばした。
落陽に輪郭が溶け、風を受けた髪も透けて、セイラ自身が光りを発しているように見えた。
男はその光景に目を細め、彼の耳は背後の音を拾っていた。
次第に蹄の音が近づいてくる。
ケイトが追ってきたのだろう。
「セイラ様! そろそろ宿に戻ってください」
「そうだね。ハナが怒るしね」
息を切らすケイトに告げると、僅かばかり彼の体は強張った。
すでに怒られた後だ。
帰ってきた三人を見つけ、使者はキーキーと甲高い声でお説教を始めた。
二人はあらぬ方を向き、一人は懸命に頭を下げた。
その後、ハナにまで掴まるのだが、やはり頭を抱えるのはケイトだけだった。