その後【1】
逃げたローレンスとフランソワのその後です。
※この話では、一貫してローレンスは『ローレル』と名乗っています。
ヴァルテンブルク帝国副都ザイフェルト。帝都よりやや北東に位置するその場所に向かい、一台の馬車が走っていた。その馬車の紋章は皇族のものである。載っているのは、皇妃ゾフィー・オブ・ブリタニア。出身地であるブリタニアでは、イザベル・ソフィア・イーディス・ブリタニアと呼ばれていた。当年24歳。皇帝との3人目の子を身ごもっており、今からザイフェルトに療養に行くのだ。もちろん、体調を崩しているわけではない。
ゾフィーが7歳の時に始まった戦争は、今から1年ほど前に終結した。ゾフィーの故国であるブリタニアが戦っていたガリア王国の政情が混乱し、内戦が発生したのだ。対外戦争どころではなかったと思わる。
ゾフィーの父なら、この機会にガリアに攻め込みかねない、と思ったのが、そうはならなかった。非常識に見えて実は常識をわきまえている長兄が止めたのかと思ったが、その長兄自身が姿をくらましたようだ。はっきりした情報は入ってこないが、ゾフィーはそう思っている。
ガリア王国は政情不安で戦争どころではない。ブリタニア側も、連戦連勝を続けていた王太子を何かの事情で失い、戦争の落としどころを探っていたようだ。そのためか、割と平和に停戦条約は結ばれた。条約締結の場に出てきたのは、やはり長兄ではなく弟の第2王子ジェイムズだったので、やはり、長兄は逃げたのかもしれない、とゾフィーは思った。
ゾフィーの兄、ニコラス・ローレンス・ブランドンは変わった人だった。2つ年上だったので、生きていれば26歳になっているだろうか。
男性にしては背が低く、体つきも細い。しかし、かなりしっかりした筋肉がついていた。絶世の美女である母に似た美貌。おそらく、兄弟の中で一番の美人だった。その外見で、兄は戦の天才であった。
鎧ごと剣で敵を切り裂き、1日中戦い続けてもけろりとしている……。兄はそう言われる人だった。兄の側近によると、半分事実らしいけど。
戦の天才として、いつも最前線で戦っていた兄。冷静で、時に冷酷で。でも、とても優しい人だったと思う。本人が残念な性格をしていたのもあるだろうが、ゾフィーは兄に怒られた記憶がなかった。
大好きだった兄に、秘密があることにゾフィーは気づいていた。何しろ、年が2歳しか離れていない。一緒に遊び、長い時を共に過ごしたからこそ、気づく。兄は、兄ではなく姉だった。
誰かがそう言ったわけではない。ゾフィーは、持ち前の洞察力で、自分で気づいた。それなりに聡明でもあったから、そのことは誰にも言ってはいけないのだともわかっていた。だから、ゾフィーはブリタニア王太子が女であることを誰にも言ったことはなかった。
女でありながら男として戦場で戦うローレンスに、いつか限界が来るのではないかと思っていた。そして、おそらく……。
「ゾフィー様。もうすぐ到着です。ほら、街の人がゾフィー様を歓迎してくださっていますよ」
侍女にそう言われて馬車窓から外を見ると、なるほど。確かに多くの人が集まり、ゾフィーの乗る馬車に向かって歓声を上げていた。ゾフィーの夫は国民に好かれているので、その妻であるゾフィーも好かれるようだ。ありがたい話である。敵意を向けられるより好意を向けられた方がいいに決まっている。
ゾフィーは微笑んで町民たちに手を振った。さらなる歓声が上がる中、人ごみに紛れながらも、穏やかな表情でこちらを見ている女性を見つけた。遠目だが、美しい栗毛をした、20歳前後に見える女性だ。何となく見たことがある気がして、ゾフィーは思わずじっとその人を見つめる。
やがて、その女性は隣にいた男性に声をかけられた。恋人なのか夫なのかわからないが、彼女は男性と共にその場を後にすることにしたようだ。彼女は、最後にゾフィーの方を見て少し目を細めて微笑んだ。
「!」
ゾフィーは思わず馬車窓から外を凝視したが、こちらも動いているので、その女性の姿はすぐに見えなくなってしまった。
「どうなさいましたか?」
「……いえ。何でもないわ」
ゾフィーは馬車のクッションに座り直し、副都にある皇帝の別邸へたどり着くのを待った。
△
別邸に到着し、歓迎を受けたゾフィーは、すぐについてきていた従僕に命じた。
「探してほしい人がいるの。このザイフェルトに住んでいると思うわ」
「わかりました……で、その方のお名前は?」
20代後半のその従僕は、微笑んでゾフィーに尋ねた。彼はゾフィーが皇妃になったころからずっとついてくれている従僕だ。とても気が利くのである。
「名前は、わからないわ。もしかしたら、『ローレル』とか、『ローレ』って名乗ってるかもしれない。女の人よ。20歳前後くらいに見えるけど、たぶん、実年齢は20代半ば」
「……はあ」
さすがの従僕も困ったようで首をかしげている。確かに、この条件で探せ、と言われても困るだろう。ゾフィーは目を閉じて、思い出そうとした。
「髪は栗毛よ。瞳の色はアメジスト・パープル……少し切れ目気味ね。女性にしては背が高くて、とても美人なはずよ」
「栗毛に紫水晶の切れ長の瞳、長身で美人……どこの完璧人間ですか?」
復唱した従僕が首をかしげている。ゾフィーは「知人なの」と答えた。確かに、条件だけ見れば完璧人間であるが、中身が残念なので、ある意味ポンコツである。
栗毛にアメジスト・パープルの瞳。女性にしては長身で、男性にしては小柄。切れ目気味の美人……ゾフィーの兄、ローレンスと同じ条件だ。
もしも。逃げた『兄』が女としてこの町にいるのなら。
会いたいと思った。
△
ローレンス……現在はローレルと名乗っているが、彼女がヴァルテンブルク帝国副都ザイフェルトに住むようになったのは、今から1年半ほど前である。
性別を偽り、ブリタニアの王太子としてガリア王国との戦争を指揮していた彼女は、そのガリア王国の次期国王と駆け落ちした。そう。言ってしまえば、これは駆け落ちなのである。
ローレルが逃げ出してから半年ほどたったころ、ブリタニアとガリアの戦争は終結した。ちょうど、ローレルが子供を産んだ頃でもある。
ガリアの次期国王がローレルと駆け落ちしたことからもわかるとおり、戦争末期にはガリアの政情は混乱していた。もともと、後に『ガリア継承戦争』と呼ばれるこの戦争は、ガリア王国の王位継承者がおらず、ブリタニア王であるローレルの父ニコラス2世がガリア王族の血を引いていたことを発端としている。ニコラス2世としては、快進撃を続けていた王太子『ローレンス』に、そのままガリアの王都ルテティアを占拠させるつもりだったのだろう。
遠い血筋から王位継承者に選ばれた彼は、それを重荷に感じていた。彼を王位継承者に指定したガリア王が亡くなったことで、彼の父と兄が決起。彼はローレルと共に逃げる道を選んだ……のであるらしい。
人生のほとんどを『ローレンス』として生きてきたローレルは、何事もなければ、あのまま王位を継いでいたと思う。だが、いざその立場から離れて冷静に考えてみると、本当に自分が王位を継いだかはやはり微妙なところだと思った。
「おや、ローレルちゃん。久しぶり」
「久しぶり、クリスタさん。野菜をいくつかほしいんだけど」
「今日はいいのがあるよ」
野菜売りのクリスタは30代半ばほどの少々恰幅の良い女性だ。というか、この国の人は全体的に大柄なのだが……。それはともかく。
現在はローレルと名乗っている元ブリタニア王太子は、クリスタのおすすめを聞きつつ、いくつか野菜を購入する。最初は戸惑ったが、現在では慣れたものだ。
「そう言えばローレルちゃん。少し前に、あんたのことを教えてくれって人が来てね」
「え?」
完全に主婦と同化している……とは言い難い美貌であるが、周囲の客たちと同じように振る舞うローレルはクリスタの言葉に首をかしげた。ちなみに、童顔なローレルは、大概の人に『ローレルちゃん』と呼ばれる。
役目を放り出して逃げてしまったことに罪悪感を思い出すこともあるが、現在ではこの生活にもすっかり慣れている。当初は追手が来るかと思ったのだが、そんなこともなく、この地に腰を落ち着けて1年半……まさかの、追手が、今更?
「いやね。栗毛に紫の瞳、切れ目で長身の美人……って言ったら、ローレルちゃんのことだろ?」
「……はあ。確かに、紫の虹彩は珍しいかもね」
この辺りには、あまり紫の瞳の人はいない。青や緑の虹彩の者が多い。と言うか、ローレルが生まれ育ったブリタニアでも、紫の虹彩を持つ人間は少なかったが……。
何が言いたいかと言うと、間違いなく、ローレルを探している者がいると言うことだ。
「……その人に、私のことを話した?」
「もちろん、知らないって突っぱねたよ。自分はヴァルテンブルクの皇妃の使いだって言ってたけど、わからないからね」
「……すごい度胸だね、クリスタさん」
「ローレルちゃんほどじゃないけどね。ねえ、ローレルちゃん。やっぱりあんた、偉い方だろ?」
内緒話をするような姿勢で尋ねたクリスタに、ローレルはからりと笑った。
「さあ、どうだろうね。ご想像にお任せするよ」
「……でも、いまいちしゃべり方が高貴な方っぽくないんだよねぇ」
それは夫にも言われた。男装ならともかく、女装でこの口調だと蓮っ葉に見えるらしい。だが、26年積み重ねてきたものはなかなか抜けないのだ。
「クリスタさん。野菜と、お話ありがとう。私のこと何か聞かれても、答えないでくれるとうれしいな。脅されたら、別だけど」
クリスタは笑ってローレルの頼みを了承した。ローレルは礼を言い、彼女に手を振って店を離れた。家に向かって歩いている時だ。
「……」
誰か、ついてきている。
いくら1年半以上、戦場を離れていたからと言って、そう簡単に勘は鈍っていないつもりである。誰かが尾行してきているのを、ローレルは確かに感じた。
巻くか? でも、余計怪しまれるかな。
ローレルはそう思い、まっすぐ家に帰った。ザイフェルトの目抜き通りから一本裏道に入ったところにある、何の変哲もない普通の家だ。目抜き通りから少し外れているものの、立地条件は結構よく、周囲には住宅が多い。
「ただいま~」
「あ、お帰りなさい、ローレルさん」
2人掛けのソファに座った10代前半の少女が振り返り、ニコリと笑う。隣の家に住んでいるイルゼ(12歳)という少女だ。彼女は時々、こうしてローレルの家にやってきて、彼女の息子であるブルーノの面倒を見てくれる。いわゆるベビーシッターであるが、この時代にその言葉はない。
「ブルーノ君、今は寝てますよ。遊び疲れちゃったみたいです」
「そうなの。いつもありがとうね、イルゼちゃん」
「いえ。結構楽しいし」
そう言って笑うイルゼはいい子だ。しかもかわいい。長い時間を男として育ってきたからか、ローレルはかわいい子に弱かった。
引っ越してきたばかりの時、異国人であるローレルたちは遠巻きにされていた。ヴァルテンブルクの言葉は問題なくしゃべれたが、どう見てもローレルもその連れも上流階級の人間に見えたのである。正しいので、ローレルは後からそれを聞いて苦笑したものだ。
それでも、いかにも駆け落ちしてきた風情の2人に、周囲はそれなりに気を使ってくれた。何とか生活できたのは、遠巻きにしながらも気を使ってくれた住民たちのおかげだ。
そんな中で、イルゼは割と初期段階でローレルになついていた。彼女には兄はいるが、姉がいないらしく、隣に引っ越してきた年上の女性であるローレルになついたのだ。どうやら、イルゼはローレルを10代後半の女性だと思ったらしい。
もともと長子で面倒見の良いローレルは、イルゼをかわいがった。妙にコミュニケーション能力の高いローレルは、そうして周辺住民たちに受け入れられていった。
ローレルの息子であるブルーノは、目の色こそ紫であるが、それ以外はほぼ夫の生き写しであった。夫よりはややかわいらしい顔立ちなのは、童顔なローレルの血が入っているからだろう。イルゼの言うように、ベッドでよく眠っていた。
「イルゼちゃん、ありがとう。今日はもういいよ。それとも、お茶でも飲んでいく?」
ローレルは笑顔で尋ねた。イルゼは嬉しそうな表情でうなずいた。
「ローレルさん、絶対お姉さんだったでしょう」
お茶を沸かすローレルに向かって、イルゼは言った。ローレルは「さあね」とだけ言って微笑んだ。そう言いながら、自分が探られているのであれば、イルゼを巻き込まないようにしなければ、と考えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
いつも通り、次は1月14日に投稿します。




