シロツメクサの王国、あるいは王様とお妃様の話
いつから一緒だったのか、などと些末な事は覚えていない。
ものごころついた時には既に彼は隣にいて、わたし達はいつも一緒に遊んでいた。幼稚園から帰宅するなり公園に行き、夕日が世界を赤々と染めるまで一緒にいた。
公園とは言っても、そこはだだっ広い空間だ。
遊具も少なく、砂場も小さかったが、シロツメクサが群生する草原があった。野原というのがより正しいのだろうけれど、小さかったわたし達にとって硬い草が多い茂った場所はジャングルであり、その先に広がる野原は草原、シロツメクサ達は宝物だった。
プラスチックの剣でジャングルを切り開き、手足に切り傷を作りながら草原にたどりついたわたし達の遊びは、王子様とお姫様ごっこだった。シロツメクサで花冠を編んで、戴冠式をするのだ。
白と緑の青臭い冠を頭に、王子様とお姫様は国を治めた。ジャングルから調達した草のベッドに寝転がってみたり、敵を阻むための落とし穴をつくってみたり、時には聖剣スコップを用いて国を脅かすバッタと戦ってみたりした。そうして、小さな小さなシロツメクサの王国は、ひっそりと繁栄した。
ある日、王子様とお姫様は結婚式をしようと思い立った。なぜそう思ったのかは分からないけれど、当時のわたし達は、王子様とお姫様が結婚すると、王様とお妃様になるのだと信じて疑わなかった。
シロツメクサの王国で、わたし達は指輪を交換した。冠とおそろいの、シロツメクサの指輪だ。茎を二つに裂いて結んだ指輪はたっぷりと水気を含んでいて、妙に冷たかった事を覚えている。太陽を神父、蝶を参列客として、シロツメクサの王国の王子様とお姫様は国の繁栄を誓い、結婚したのだ。
シロツメクサの王国は、それから程なくして滅亡した。大人帝国がショベルカーやブルドーザーに乗ってやってきて、ジャングルを切り開き、草原を制し、宝物を踏みつぶしていった。廃墟をアスファルトで覆い、その上に申し訳程度の土を敷いた。わたし達の王国は、数年後には檻になった。
真新しい檻に、わたしと彼は三年もの間、囚人服を着て通った。中学校と呼ばれるその檻では大人帝国の民が目を光らせ、わたし達を監視している。彼らは事あるごとに、夢を持てと命じた。
その頃には、王様だった彼と、お妃様だったわたしは、ほとんど話す事もなくなっていた。一緒に王国を治めた過去は暗黙のうちに秘され、国家機密となった。同じ高さにあった視線は開き、昔はわたしの方が早かった足も、今では彼の方が早くなってしまった。悲しくはあったけれど、それは大人帝国に組み込まれつつある証拠であって、ある種の心地よさとむず痒さを運んで来た。わたしはお妃様だった頃よりも伸びた髪を揺らして、大人帝国の植民地を闊歩した。
わたしとは対照的に、彼は王様でありつづけた。シロツメクサの王国の、優しくて明るい、愚直な王様でありつづけた。彼は時たまアスファルトを破って現れる亡国の遺産に歓声を上げ、それをお妃様であったわたしに捧げた。
それが奇異に映ったらしい。
わたし達はたびたび、周囲から冷やかされる事があった。身体だけはすくすくと育ったクラスメイトに、頭だけは大人になってしまった友人に、あるいは醜い人の性に目覚めた、名も知らぬ同級生に。そのたびに彼は頬を染め、わたしは呆れてため息をつくのだった。わたし達は亡国の王とその妃なのだ。デキてる、という下らない言葉で穢す事などできぬ関係であり、世界のどこよりも清らかで美しい王国で結ばれた。
けれど大人帝国の支配を受け、わたしの純粋な心にはよこしまな思いも同居するようになった。ばかばかしいと呆れたそぶりを見せつつも、わたしは心のどこかで彼の視線の先には自分がいるものだと信じて疑わなかった。彼が親しく話す異性はわたしだけであったし、共に治める国がなくなっても、わたし達の距離は変わらなかったからだ。
真新しい檻から釈放されたわたし達は、別の収容所へと移った。わたしはわたしの意思で、そして彼は彼の意思で、別々の収容所を選んだ。
大人帝国に洗脳されたわたしにとって、収容所は居心地の良いものになっていた。抗いようもなく変化を遂げる身体も、ちっぽけなこの心も大人びて、かつてわたし達の国の至宝であった白い花を見ても、何の感慨も湧かないようになった。わたしはそれをすみずみまで大人帝国に洗脳された証として誇り、泥ひとつついていない靴で宝を踏みにじった。
報いが来たのは、からりと乾いた風が心地良い夏の夜だ。
シロツメクサの王国の王様は、己の妃を断罪した。
彼は永遠に変わらないのだと、わたしは思っていた。それ故にわたしは彼を眩しく思い、また好ましく思っていた。純粋な感情のみで構成された彼だからこそ、好意を抱いていたのだ。
けれど私がほの暗くよこしまな思いを抱いたのと同じように、彼もまたほの暗い思いを抱いていた。それは大人帝国では恋情とも肉欲とも呼ばれるものであって、当時の私が何よりも忌避し、嫌悪したものであった。
好きだよ。君も俺が好きでしょう。
呪詛を吐いた唇がわたしを罰する。昔引いて歩いた手がわたしを捕らえ、大きな身体がわたしを押しつぶした。そして全身を恐怖と痛みが貫いた。
ああ、これは罰なのだとわたしは悟った。彼は変わっていないはずだった。けれども変わっていた。大人帝国の洗脳を受け、王様ではなくなってしまった。王冠を授け、指輪を交わした彼は消えてしまったのだ。
わたしは彼の元から逃げ出した。この心はいまだシロツメクサの王国を治めていた時のままであり、わたしの心はプラスチックの剣を携えて小さなジャングルを越えた冒険の日々と同じ清らかさを残していた。
お妃様は、王様に置いて行かれたのだ。
収容所で満期を迎えたわたしは新たな逃走先を求め、遠方の収容所へ入る事になった。彼は大人帝国へと魂を売り渡し、工作員になった。
わたしは彼との連絡手段を断った。彼がわたしに接触する術を断ち、息をひそめた。けれど幼き日に交わした指輪の魔力は絶大であり、分かたれたはずのわたし達の道は再び重なった。
身も心も大人帝国に染めあげられたころ、彼は再びわたしの前に姿を現した。
今度はわたしも大人帝国の民になっていた。大人帝国に魂を売り渡し、恭順を誓った。
彼はわたしを罰する事などできぬだろう。わたしはほくそ笑み、堂々と彼の前へと躍り出た。
そして再び、罰を受けたのだ。
彼はその腕に、幼い子どもを抱えていた。ふにゃふにゃとして柔らかい、落としたら熟した果実のようにつぶれてしまいそうな子どもだ。
甘く匂う肌に唇を寄せて、彼は笑っていた。その横には見知らぬ女が寄り添い、彼に肉感的な身体を押しつけて微笑んでいた。
シロツメクサの王国の王様であった彼は愛妾を持ち、子を成したのだ。
かつて妃であったわたしにとって、それは言葉にならない衝撃だった。逃げ出したのは他ならぬ自分であるというのに彼をなじりたい衝動に駆られ、彼らが噛みしめるあぶくのような幸せをぱちんとつぶしてやりたいと思った。
ああ、わたしはやはり、お妃様なのである。
大人帝国の民に身をやつそうとも、わたしはまぎれもなく、シロツメクサの王国のお妃様なのだ。薬指の束縛を忘れられず、青臭い王冠を捨て去る事もできない。淡く清い感情で結ばれたあの日から、変わらずに彼を求めている。たとえこの身と心が変わり果て、浅ましいものに成り果てようとも。そうとは知らずに恋情を募らせ、それを忌避し嫌悪したあの日から。
ああ。唇から零れたそれは悲鳴だったのか、それとも自嘲だったのか。それすらも分からぬままに、わたしは罰を受ける。
手に入れられたやもしれぬ光景を見せつけられ。いまさらのように形を成した思いを押しつぶし。身のうちに巣くう本音とは間逆の言葉で彼らを言祝いで。
ああ。ああ。
なんて、浅ましい。
なんて、滑稽な。
シロツメクサの王冠はとうに朽ちてしまった。誓いの指輪も枯れ、後に残るのはただの屍となってしまった。
わたしが枯らしたのだ。美しい王国に満足し、水をやり、光をやる事を怠り。王様の言葉を、その意味を考える事もせず。全てから切り離されたかのようなあの一時に固執し、変わる事を恐れ。誓いを交わした彼を拒み。
ああ。
シロツメクサの王国は、もう二度と、蘇らない。
王様がお妃様を見る事は、もう二度とない。
冷蔵庫の中から取り出したチューハイはいつの間にかぬくまって、玉の汗を浮かべている。
つうっと側面を滑り落ちる滴を指先ですくい取り、わたしは頬杖をついた。
シロツメクサの王国は滅び、風化した。ここにいるのは、みすぼらしく落ちぶれた、元お妃様である。そろそろ両親からは結婚をせっつかれ、親戚が集まると形見が狭い思いをする、一人の女である。
開けはなった窓からそろりと忍び込む風の気配を堪能し、気怠い身体を起こす。
かつて指輪がはまっていた左手を眺め、わたしは瞳を伏せた。
彼は王様をやめた。わたしはお妃様をやめた。この指を束縛するものなど、とうの昔に朽ちた。
それでもこの心は、いまだにシロツメクサの指輪を見るのである。