出会い
人生で初めて恋焦がれた人でした。
月夜の美しい晩のことでした。あの日、宵桜と洒落込んで私は、家の近くにある桜の木の下へと一人散策していました。人気のない川沿いを歩くのは少々不気味ではありましたが、闇夜に浮かぶは、朧に霞む月天。自分の名と同じ朧月でしたから、今日しか無いと思いました。大好きな桜の木の下で、大嫌いな自分の名前と同じ月夜に死ぬ。私にしては中々よく出来た死に場所だと思いました。
上機嫌で歩く私は、道に転がる大きな石に時々躓きながらも、何とか目的地に無事着くことが出来ました。
闇夜に浮かぶ朧月を背景に、枝を枝垂れさせ、先端まで淡く咲き誇る桜。視界一杯に広がる淡い色彩に私は、ただ、ただ感動して見つめていました。
「凄く綺麗・・・」
ほう、と息を吐く私の目に映るのは、宵桜のみ。あまりの美しさに惑わされ、この場所に先客がいたことに気づきませんでした。ですから初め、自分ではない、低い声に腰を抜かすなんて情けない醜態をさらしてしまったのは仕方のないことだと思います。
「・・・こんな夜に女性が一人だなんて危ないぞ」
「・・・ええ!?」
一人自分の世界へと旅立っていた私は、突然響いた低い声に、文字通り腰を抜かしました。
「・・・・おいおい、大丈夫か?」
苦笑する彼人は、ゆっくりと私に近づき手を差し伸べてくれました。
「え、あ、ああの」
あまりに驚きすぎて上手く発音の出来ない私を見て、彼は困ったように眉を下げました。
「・・・ここまで驚かれるとは思わなかった。すまない」
「い、いえ。だ、だだ大丈夫です」
月明かりの下で見る彼人は、精悍な顔立ちの漆黒の着流しを着た人でした。
思わず、息も止めて私は見惚れました。彼人はまるで、寒月のように冴え渡った目をしていたのです。
私があまりに見詰めすぎていたのでしょう。彼人はますます困ったようです。私が差し出された手を素直に取ると、ほっとしたように微笑し、引っ張り上げてくださいました。
「あの、ありがとうございます」
この頃には初めの衝撃は落ち着き、受け答えもしっかり出来るようになっていました。桜の木の下の、太い根まで彼人は案内して下さり、私は改めて彼人を観察しました。ようするに不躾に眺めたのです。
「あー・・・俺は怪しいものじゃあ、ないぞ。桜と月を肴に酒を・・・まあ、飲んでただけで、酔ってないから安心していい」
「・・・はあ」
尚じっと見詰めていたからでしょう。彼人暫く言い淀むと、真剣な表情で私を見詰めかえしてきましたので、私は、寒月のような目に魅入っていました。
「えーあーまあ、ほら何だ。俺の名前は・・慎という。君の名前は?」
彼の言うことを理解するのに時間がかかりましたが、小さい声ではありましたが、答えることが出来ました。朧、なんて名前、好きではありませんけれど。
「・・・朧と申します」
「おぼろ・・・へえ、綺麗な名前だな。今宵の月と同じ名前だな。ところで、こんな夜更けに一人か?それとも・・・・誰かと逢い引きの約束でもしてたのか」
目を細め、口角を少しつり上げて笑う表情に、思わず顔が真っ赤になる。
「そ、そんなんじゃありません!!」
とんでもない勘違いに首を横に振りながらも、私は話すべき事なのかを悩む。彼人、慎と名告った男はじっと此方を見ているので、迷ったあげく少し話すことにした。
「桜と月が見たくって・・・」
「で、ちょっと家を抜け出してきたってか?」
「・・・・はい」
本当の理由はそうではないが、実際桜と月が見たかったのは事実。慎は少し探るように見ていたが、やがて目をそらした。
「朧は今いくつだ?」
「・・・・・・・」
「・・・別に若いだろ」
「若そうに見えても女性に年を尋ねるのはどうかと思います」
「あーすまなかった。で、いくつだ」
「・・・今日で二十歳になります」
悪びれずからっと笑う慎に負けて、年齢を言う。
そう、今日で私は二十歳になった。
嫁ぐこともなく、家で過ごし続けた。
「へえ・・・二十歳か。なら飲めるな」
そう言って慎は横に置いてあった酒瓶を振る。するとちゃぷんと水のはねる音が聞こえた。硝子が月光を反射して淡く輝く。透明な輝きを放ちながら並々と注がれる酒を見ながら、朧はふっと自分の服を見る。普段から好んで着るのは臙脂色の着物。青白すぎる自分の肌を血色よく見せようと・・・弟が選んでくれたものだ。
「ほら」
目の前に差し出された硝子のコップと、慎を見比べる。
「え・・・?」
「二十歳なんだろ。酒ぐらい飲んだことあるだろ」
「・・・ありますけれど・・・」
「この酒は美味いぞ」
「・・・いただきます」
月明かりで輝く酒と硝子のコップが、今まで見たこと無いくらい綺麗だったから。それに何より、屈託無く笑う彼が言ってくれた次の言葉が、嬉しかったから。
「では。朧の誕生を祝って、乾杯」
誕生日が来たら・・・終わりにしよう。
人生を終えようと思っていた私の前に現れたのは。
終わりの見えない闇を照らしてくれる光だった。