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氷魔術師の私、好きな氷菓子職人の前でだけ氷が作れません

作者: 鳩羽ぐれ
掲載日:2026/05/26

私は氷魔術師だ。

冷静沈着で、氷点下の女と呼ばれている。


褒め言葉として使われることも、距離を置く言葉として使われることもあった。

どちらにせよ、私は氷点下であるべきだった。


その私が、氷菓子職人に名前を呼ばれただけで、手元の氷を水にした。


……引退を考えた。


---


依頼内容。

依頼人——氷菓子職人ルカ。

業務用氷柱の納品。


作業結果。

納品日——本日。

納品数——予定五本、実績〇本。

失敗回数——通算十二回。

備考——透明な塊、湯気を立てて消失。


……記録するのが、つらくなってきた。


「リュシアさん、今日もお願いします」


名前を呼ばれた。

作業台の上の氷柱が、音もなく溶けた。


「リュシアさん?」


「……再構築します」


「ありがとうございます」


ありがとうございますと言われた。

溶けた氷が、湯気を立てた。


ルカは、ほとんど水になったそれを、失敗作を見るようには扱わなかった。

残った氷を小さな器に集め、光に透かして、少しだけ笑った。


受け取る指先が、ほんの一瞬だけ止まった。

私の見間違いだと思うことにした。


「今日の氷も、綺麗ですね」


やめてほしい。

そういうところが、一番温度に悪い。


---


夜、自宅の工房で原因究明を行った。


室温——氷点下四度。問題なし。

魔力温度——マイナス六度。問題なし。

材料——精製水、純度九十八パーセント。問題なし。

依頼人の顔——問題、あり。

依頼人の手つき——記録を中断するほど、問題あり。


私は手帳に書き足した。


失敗条件。

一、依頼人が名前を呼ぶ。

二、依頼人が近づく。

三、依頼人が笑う。

四、依頼人が「助かります」と言う。

五、依頼人が私の氷を丁寧に扱う。


結論。

依頼人が悪い。


ペンを置いた。

書きながら、自分でもおかしいと思った。


---


三日後、店に行くと、看板娘のミネが満面の笑みで迎えた。


「新作、評判ですよ」


「何の新作」


「『淡雪シャーベット』。リュシアさんの氷を使った新作です」


「あの溶けかけのものを、商品にしたんですか」


「はい。売り切れました」


「なぜ」


「恋に効きそうだと評判で」


「効きません」


「その顔で言うの、だいぶ無理があります」


「顔?」


「氷点下の人は、そんなに口元ゆるみません」


「……室温が高いだけです」


「店内、涼しいですけど」


「私の周囲だけです」


「先週は『初雪ベリー』、今週は『淡雪シャーベット』。来週は何にしましょうか」


「来週は、ありません」


「来週も、依頼が入っています」


逃げ道は、最初からなかった。


厨房の奥から、ルカが出てきた。

白い職人着の袖をまくって、ふきんで手を拭いていた。


氷菓子を作る人の手は、思っていたより温かそうだった。

けれど、私の氷を扱うときだけ、信じられないほど丁寧だった。


「リュシアさん、ちょうど良かった。来週の氷について、相談してもいいですか」


氷は、まだ作っていないのに、心の中で先に溶けた。


---


ようやく形を保った氷柱は、よりによってハート型だった。

魔術師として、あまりにもひどい失敗だった。


「ハート型は、注文してないですよね」


「事故です」


「事故で、ハート型になりますか」


「自然界にも存在します」


「この大きさでは、たぶん存在しません」


ルカは笑っていた。

怒っていなかった。

怒られた方が、まだよかった。


「『片想いかき氷』に使えそうです」


「その商品名は、やめてください」


「では……片想いから名前を変えられる日まで、取っておきます」


言ってから、ルカは一度だけ視線を落とした。

ふきんを持つ指が、少しだけ布を握り込む。


「……誰と誰の話ですか」


「今言うと、この氷が持たなさそうなので」


手元に氷がなくてよかった。

あったら、たぶん店ごと水浸しにしていた。


ルカは、ハート型の氷柱を抱えるようにして持ち上げた。

目を落としたまま、少しだけ息を吐いた。


---


対策を立てた。


氷水を飲み、冷却護符を三枚貼り、感情抑制の魔法陣まで手のひらに描いた。


「リュシアさん、今日も綺麗ですね」


「作業中に不要な情報を与えないでください」


「挨拶です」


「攻撃です」


心拍が、平常時の倍を記録した。

護符は二枚、蒸発していた。


翌週は、店の裏手の氷室で打ち合わせを提案した。

室温、氷点下八度。私の魔力にとっての安全圏のはずだった。


「ここなら、安定して作業ができます」


「では、私もご一緒します」


ルカが氷室に入ってきた瞬間、壁の霜が薄く溶けた。


「……出ていってください」


「私、何か」


「いえ。室温の問題です」


室温の問題ではなかった。


---


ある日、ルカが透き通った欠片を覗き込みながら、静かに言った。


「今日の氷、少し甘いですね」


「氷に味はありません」


「ありますよ。これは、照れているときの溶け方です」


私の手元の氷柱が、根元から斜めに折れた。


ルカは折れた欠片を拾い上げ、断面をじっと眺めた。

職人の指先が、角の丸い塊をそっと撫でた。


「リュシアさんの氷は、溶け方が優しいんです」


「氷に優しいも何もありません」


「あります。角が舌に残らない。冷たいのに、痛くない」


痛くない。

その言葉が、妙に残った。


私はずっと、自分の氷は冷たすぎるものだと思っていた。

近づく人を遠ざけるための、硬いものだと。


けれどルカは、それを、硬い氷ではなく、口当たりのやさしい氷みたいに言った。


「私の依頼だけ失敗するなら、私が原因ですよね」


否定しようとした。

目の前の小さな氷の欠片が、勝手にハート型になった。


否定の言葉より先に、氷が答えた。


「……気のせいです」


「気のせいで、氷はハート型になりますか」


「条件付きで、なります」


「どんな条件ですか」


「……言わせないでください」


ルカは、それ以上聞かなかった。

ただ、ハート型の欠片を、丁寧に器に移した。


「この氷、いただいてもいいですか」


「売り物にはなりません」


「では、私が試食します」


「職権の乱用です」


「職人の確認です」


また、護符が一枚、蒸発した。


---


王都の春祭りの三日前、ルカが言った。


「祭りに、新作を出します。氷の依頼をお願いします」


「内容は」


「好きな人に食べてもらう氷菓子に、使います」


作業台の上の氷柱が、刃物も通らないほど白く凍りついた。

私は、冷静になったのではない。

怖くなっただけだった。


「リュシアさん?」


「……再構築します」


「お願いします」


「……特別な人、なんですね」


「はい。私には綺麗に見える氷を、いつも失敗作だと言う人です」


息が止まった。

止まったのに、室温だけが上がった。


「その人は、冷たいものを作るのが得意なのに、自分の温度には少し厳しい人なので」


「……それは」


「言ったら、もっと溶けますか」


「すでに、かなり」


ルカは目を逸らした。

ふきんを持つ指に、少しだけ力が入っていた。


その夜、手帳を開いた。


依頼内容——好きな人のための氷。

失敗回数——七。

残り日数——三。

心拍——平常時の倍。

結論——


そこまで書いて、ペン先が紙に沈んだ。

インクが丸く滲む。

私は、結論を書きたくなかった。


依頼人の好きな人が、私であるはずがなかった。

それなのに、もしそうだったらと考えるたび、室温が一度上がった。

計器ではなく、私の中の温度計が。


初めて店に納品に行った日、ルカは私の作った氷を両手で受け取って、「綺麗な氷ですね」と言った。

冷たいとも、硬いとも、強いとも言わなかった。


綺麗、と言ったのは、彼が初めてだった。


あのとき、たぶん、一度目の温度上昇があった。


---


祭りの前夜。

店の厨房に呼ばれて行くと、ルカが一人で作業していた。

看板娘のミネは、気を利かせたのか、近所に配達に行っていた。


「『溶けても甘い氷』というのを、作ろうと思っています」


「溶けてしまったら、もう氷ではありません」


「溶けてからが、いちばん甘いんです」


ルカが、私を見た。


「リュシアさん。冷たい氷より、少しだけ温度のある氷の方が、口どけが優しいんです」


「……魔術師としては、失格ですね」


「いいえ」


ルカは、ふきんを置いた。


「私は、その口どけが好きです」


言ってから、ルカは自分の言葉に気づいたみたいに、ふきんを握り直した。


「……氷の話だけでは、ありません」


……つまり、それは。


頭の中の温度計が、ゆっくり振り切れていった。

意味を呑み込んだ瞬間、手のひらの氷が、音もなく溶けた。


一歩、下がろうとした。

けれど床に落ちた水が、靴先を濡らした。


逃げ道まで、自分で溶かしていた。


「……ルカさん」


「はい」


呼んだだけで、逃げたくなった。

失敗作だと笑われるより、綺麗だと信じられる方が怖かった。


それでも、もう冷たいふりはできなかった。


「私は、あなたの前だと、温度が上がります」


「だから」


喉の奥で、氷が割れた。


「……あなたが、好きです」


言えた。


厨房の奥で、冷却用の魔法石が一つ、ぱきんと鳴った。

壊れたのは魔法石であって、私ではない。

たぶん。


「知っています」


「知っていたなら、言ってください」


「言ったら、もっと溶けると思って」


そう言って、ルカは少し俯いた。余裕のある顔ではなかった。


「でも、今は言わせてください」


ルカが、私の手を取った。

そっと、両手で包むように。


「私も、あなたが好きです」


短い言葉だった。


不思議と、氷は溶けなかった。


冷たいままではない。

けれど、逃げるみたいに形を失うこともなかった。


ルカは、さっき溶けた氷を小さな器で集めていた。

職人として氷を無駄にしない手つきだった。


「失敗作です」


「いえ。あなたの、いちばん正直な温度です」


その言葉で、胸の奥に残っていた氷が、少しだけ溶けた。

けれど、もう隠す必要はなかった。


---


翌日、祭りの屋台に新作が並んだ。


看板には、こう書いてあった。


『春溶けの氷菓』


小さく添えられた説明書きには、『溶けても甘い氷』とある。


「副題は?」


「ミネに止められました」


「止めてくれてよかったです」


横から、看板娘のミネが顔を出した。


「店長、ちなみに旧案の『片想い』はもう不要ですよね」


「不要です」


私が言うべきことを、ルカが先に言った。


ルカが、小さく笑った。

差し出された木の匙を、私は受け取った。


氷は、少しだけ溶けていた。

けれど、誰もそれを失敗とは呼ばなかった。


匙を渡すとき、ルカの指が、私の指にかすかに触れた。


いつもなら、氷が溶けるところだった。

けれど私は、手を引かなかった。


その温度は、もう氷点下ではなかった。

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