氷魔術師の私、好きな氷菓子職人の前でだけ氷が作れません
私は氷魔術師だ。
冷静沈着で、氷点下の女と呼ばれている。
褒め言葉として使われることも、距離を置く言葉として使われることもあった。
どちらにせよ、私は氷点下であるべきだった。
その私が、氷菓子職人に名前を呼ばれただけで、手元の氷を水にした。
……引退を考えた。
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依頼内容。
依頼人——氷菓子職人ルカ。
業務用氷柱の納品。
作業結果。
納品日——本日。
納品数——予定五本、実績〇本。
失敗回数——通算十二回。
備考——透明な塊、湯気を立てて消失。
……記録するのが、つらくなってきた。
「リュシアさん、今日もお願いします」
名前を呼ばれた。
作業台の上の氷柱が、音もなく溶けた。
「リュシアさん?」
「……再構築します」
「ありがとうございます」
ありがとうございますと言われた。
溶けた氷が、湯気を立てた。
ルカは、ほとんど水になったそれを、失敗作を見るようには扱わなかった。
残った氷を小さな器に集め、光に透かして、少しだけ笑った。
受け取る指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
私の見間違いだと思うことにした。
「今日の氷も、綺麗ですね」
やめてほしい。
そういうところが、一番温度に悪い。
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夜、自宅の工房で原因究明を行った。
室温——氷点下四度。問題なし。
魔力温度——マイナス六度。問題なし。
材料——精製水、純度九十八パーセント。問題なし。
依頼人の顔——問題、あり。
依頼人の手つき——記録を中断するほど、問題あり。
私は手帳に書き足した。
失敗条件。
一、依頼人が名前を呼ぶ。
二、依頼人が近づく。
三、依頼人が笑う。
四、依頼人が「助かります」と言う。
五、依頼人が私の氷を丁寧に扱う。
結論。
依頼人が悪い。
ペンを置いた。
書きながら、自分でもおかしいと思った。
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三日後、店に行くと、看板娘のミネが満面の笑みで迎えた。
「新作、評判ですよ」
「何の新作」
「『淡雪シャーベット』。リュシアさんの氷を使った新作です」
「あの溶けかけのものを、商品にしたんですか」
「はい。売り切れました」
「なぜ」
「恋に効きそうだと評判で」
「効きません」
「その顔で言うの、だいぶ無理があります」
「顔?」
「氷点下の人は、そんなに口元ゆるみません」
「……室温が高いだけです」
「店内、涼しいですけど」
「私の周囲だけです」
「先週は『初雪ベリー』、今週は『淡雪シャーベット』。来週は何にしましょうか」
「来週は、ありません」
「来週も、依頼が入っています」
逃げ道は、最初からなかった。
厨房の奥から、ルカが出てきた。
白い職人着の袖をまくって、ふきんで手を拭いていた。
氷菓子を作る人の手は、思っていたより温かそうだった。
けれど、私の氷を扱うときだけ、信じられないほど丁寧だった。
「リュシアさん、ちょうど良かった。来週の氷について、相談してもいいですか」
氷は、まだ作っていないのに、心の中で先に溶けた。
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ようやく形を保った氷柱は、よりによってハート型だった。
魔術師として、あまりにもひどい失敗だった。
「ハート型は、注文してないですよね」
「事故です」
「事故で、ハート型になりますか」
「自然界にも存在します」
「この大きさでは、たぶん存在しません」
ルカは笑っていた。
怒っていなかった。
怒られた方が、まだよかった。
「『片想いかき氷』に使えそうです」
「その商品名は、やめてください」
「では……片想いから名前を変えられる日まで、取っておきます」
言ってから、ルカは一度だけ視線を落とした。
ふきんを持つ指が、少しだけ布を握り込む。
「……誰と誰の話ですか」
「今言うと、この氷が持たなさそうなので」
手元に氷がなくてよかった。
あったら、たぶん店ごと水浸しにしていた。
ルカは、ハート型の氷柱を抱えるようにして持ち上げた。
目を落としたまま、少しだけ息を吐いた。
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対策を立てた。
氷水を飲み、冷却護符を三枚貼り、感情抑制の魔法陣まで手のひらに描いた。
「リュシアさん、今日も綺麗ですね」
「作業中に不要な情報を与えないでください」
「挨拶です」
「攻撃です」
心拍が、平常時の倍を記録した。
護符は二枚、蒸発していた。
翌週は、店の裏手の氷室で打ち合わせを提案した。
室温、氷点下八度。私の魔力にとっての安全圏のはずだった。
「ここなら、安定して作業ができます」
「では、私もご一緒します」
ルカが氷室に入ってきた瞬間、壁の霜が薄く溶けた。
「……出ていってください」
「私、何か」
「いえ。室温の問題です」
室温の問題ではなかった。
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ある日、ルカが透き通った欠片を覗き込みながら、静かに言った。
「今日の氷、少し甘いですね」
「氷に味はありません」
「ありますよ。これは、照れているときの溶け方です」
私の手元の氷柱が、根元から斜めに折れた。
ルカは折れた欠片を拾い上げ、断面をじっと眺めた。
職人の指先が、角の丸い塊をそっと撫でた。
「リュシアさんの氷は、溶け方が優しいんです」
「氷に優しいも何もありません」
「あります。角が舌に残らない。冷たいのに、痛くない」
痛くない。
その言葉が、妙に残った。
私はずっと、自分の氷は冷たすぎるものだと思っていた。
近づく人を遠ざけるための、硬いものだと。
けれどルカは、それを、硬い氷ではなく、口当たりのやさしい氷みたいに言った。
「私の依頼だけ失敗するなら、私が原因ですよね」
否定しようとした。
目の前の小さな氷の欠片が、勝手にハート型になった。
否定の言葉より先に、氷が答えた。
「……気のせいです」
「気のせいで、氷はハート型になりますか」
「条件付きで、なります」
「どんな条件ですか」
「……言わせないでください」
ルカは、それ以上聞かなかった。
ただ、ハート型の欠片を、丁寧に器に移した。
「この氷、いただいてもいいですか」
「売り物にはなりません」
「では、私が試食します」
「職権の乱用です」
「職人の確認です」
また、護符が一枚、蒸発した。
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王都の春祭りの三日前、ルカが言った。
「祭りに、新作を出します。氷の依頼をお願いします」
「内容は」
「好きな人に食べてもらう氷菓子に、使います」
作業台の上の氷柱が、刃物も通らないほど白く凍りついた。
私は、冷静になったのではない。
怖くなっただけだった。
「リュシアさん?」
「……再構築します」
「お願いします」
「……特別な人、なんですね」
「はい。私には綺麗に見える氷を、いつも失敗作だと言う人です」
息が止まった。
止まったのに、室温だけが上がった。
「その人は、冷たいものを作るのが得意なのに、自分の温度には少し厳しい人なので」
「……それは」
「言ったら、もっと溶けますか」
「すでに、かなり」
ルカは目を逸らした。
ふきんを持つ指に、少しだけ力が入っていた。
その夜、手帳を開いた。
依頼内容——好きな人のための氷。
失敗回数——七。
残り日数——三。
心拍——平常時の倍。
結論——
そこまで書いて、ペン先が紙に沈んだ。
インクが丸く滲む。
私は、結論を書きたくなかった。
依頼人の好きな人が、私であるはずがなかった。
それなのに、もしそうだったらと考えるたび、室温が一度上がった。
計器ではなく、私の中の温度計が。
初めて店に納品に行った日、ルカは私の作った氷を両手で受け取って、「綺麗な氷ですね」と言った。
冷たいとも、硬いとも、強いとも言わなかった。
綺麗、と言ったのは、彼が初めてだった。
あのとき、たぶん、一度目の温度上昇があった。
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祭りの前夜。
店の厨房に呼ばれて行くと、ルカが一人で作業していた。
看板娘のミネは、気を利かせたのか、近所に配達に行っていた。
「『溶けても甘い氷』というのを、作ろうと思っています」
「溶けてしまったら、もう氷ではありません」
「溶けてからが、いちばん甘いんです」
ルカが、私を見た。
「リュシアさん。冷たい氷より、少しだけ温度のある氷の方が、口どけが優しいんです」
「……魔術師としては、失格ですね」
「いいえ」
ルカは、ふきんを置いた。
「私は、その口どけが好きです」
言ってから、ルカは自分の言葉に気づいたみたいに、ふきんを握り直した。
「……氷の話だけでは、ありません」
……つまり、それは。
頭の中の温度計が、ゆっくり振り切れていった。
意味を呑み込んだ瞬間、手のひらの氷が、音もなく溶けた。
一歩、下がろうとした。
けれど床に落ちた水が、靴先を濡らした。
逃げ道まで、自分で溶かしていた。
「……ルカさん」
「はい」
呼んだだけで、逃げたくなった。
失敗作だと笑われるより、綺麗だと信じられる方が怖かった。
それでも、もう冷たいふりはできなかった。
「私は、あなたの前だと、温度が上がります」
「だから」
喉の奥で、氷が割れた。
「……あなたが、好きです」
言えた。
厨房の奥で、冷却用の魔法石が一つ、ぱきんと鳴った。
壊れたのは魔法石であって、私ではない。
たぶん。
「知っています」
「知っていたなら、言ってください」
「言ったら、もっと溶けると思って」
そう言って、ルカは少し俯いた。余裕のある顔ではなかった。
「でも、今は言わせてください」
ルカが、私の手を取った。
そっと、両手で包むように。
「私も、あなたが好きです」
短い言葉だった。
不思議と、氷は溶けなかった。
冷たいままではない。
けれど、逃げるみたいに形を失うこともなかった。
ルカは、さっき溶けた氷を小さな器で集めていた。
職人として氷を無駄にしない手つきだった。
「失敗作です」
「いえ。あなたの、いちばん正直な温度です」
その言葉で、胸の奥に残っていた氷が、少しだけ溶けた。
けれど、もう隠す必要はなかった。
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翌日、祭りの屋台に新作が並んだ。
看板には、こう書いてあった。
『春溶けの氷菓』
小さく添えられた説明書きには、『溶けても甘い氷』とある。
「副題は?」
「ミネに止められました」
「止めてくれてよかったです」
横から、看板娘のミネが顔を出した。
「店長、ちなみに旧案の『片想い』はもう不要ですよね」
「不要です」
私が言うべきことを、ルカが先に言った。
ルカが、小さく笑った。
差し出された木の匙を、私は受け取った。
氷は、少しだけ溶けていた。
けれど、誰もそれを失敗とは呼ばなかった。
匙を渡すとき、ルカの指が、私の指にかすかに触れた。
いつもなら、氷が溶けるところだった。
けれど私は、手を引かなかった。
その温度は、もう氷点下ではなかった。




