第7話 初めての依頼
その文を見た瞬間、胸の奥に浮かんだのは、期待ではなく警戒心だった。実は、似たような依頼を受けたことがある。
あのときの自分も、まだ病気が完全に治りきっていなくて、まともに曲を作れる状態ではなかった。それでも時間をもらい、一曲を書き上げた。
報酬は五千円。高額に驚きつつ、それに見合う曲を作ろうと、何度も何度も作り直した。誰かが、自分の音を必要としてくれた——その事実が、何よりもうれしかったから。だからこそ、全力で向き合った。
——それなのに。納品してから数日経っても、返信は来なかった。最初は、忙しいだけだと思った。少し待てば返ってくると、そう信じていた。
けれど、どれだけ待っても通知は鳴らない。不思議に思い連絡してた画面を確認すると、相手は消えていた。まるで最初から存在しなかったかのように、やり取りしていたアカウントごと、跡形も無くなっていた。
——ああ、やられたんだ。その事実に気づいたとき、胸の奥が冷たく沈んだ。後になって、相談したことで知った。ああいうやり取りでは、事前に契約書を交わすべきだったのだと。
結局、俺が依頼されて作った曲は無断で使用されていた。しかも、クレジットには俺の名前は一切載せもせずに!!!その事が一番腹立つ。別に金銭はいいんだよ。別に。けど……けどさ、自分が作った曲を、他人が作ったように思われるのだけは、どうしても許せなかった。
思うように体が動かなくて、指先に力を込めるだけで精一杯中で。少し作業をしただけで息が上がって、画面を見ることすら辛くなる日もある中作った曲だから。
その当時を思い出して、少し荒ぶる感情を息を吐いて落ち着かせる。まぁ、その後なんとか削除対応はできたのだからいいが、それはたまたま見つけられたからに過ぎない。
この情報が溢れすぎる社会で、もし気付けなかったら誰にも知られないまま、自分の音だけが消費され続けていたのかもしれない。そう思うと、今でも背筋がぞくりと冷える。
だからこそ、俺は警戒している。画面の向こうの相手が、どれだけ丁寧な言葉を並べていても、盗難のリスクが存在すると。
——けど、なんでかな。彼女の文面は、これまでとはどこか違っていた。言葉の選び方も、伝え方もどこか丁寧で、誤魔化しようのない誠実さを感じさせる。……だからこそ、迷う。
疑うべきだとわかっているのに、どこかで、それを信じてみたいと思ってしまう。スマホを持つ指先に、わずかに力がこもる。一度だけ息を整えてから、相手の要望を確認し、想定している金額についても尋ねた。
送信して、数秒。やけに長く感じる沈黙のあと、返ってきた数字は
『……さっ、三万!?』
思わず、声が漏れた。前回の六倍にあたる金額。それを俺に払いたいと言っている。喉の奥が、ひくりと引きつる。怪しさが、じわじわと胸の内側に広がっていく。
『……どうして、三万円も?』
反射的に打ち返す。送信したあとになって、少し踏み込みすぎたかと指が止まった。やがて、短い間を置いて届いた返信。
『すみません、学生なので、今は三万円が限界でして……』
そう申し訳なさそうな返答が返ってくる。——いや、違う違う。低いと思って言ったわけじゃない。むしろ、その逆だ。内心でそう突っ込みながら、思わず小さく息を吐く。
というか、この子——。自分が学生だって、こんな簡単に明かしていいんだろうか?画面を見つめたまた、わずに眉を顰める。ネット上でのやり取りにしては、あまりにも無防備すぎて別の意味でこの子が不安になる。どこか、放っておけないような不安が、胸の奥をかすめた。
もしかて油断させるため?……いや、考えすぎか。軽く頭を振り、その思考を追い払う。先入観で決めつけるのは違うだろう。そう自分を咎めつつ、相手が誤解しないように、言葉を紡ぐ。
『いえいえ、むしろ……三万円も出していただけることに、驚いてるんです』
一度、指が止まる。言葉を選ぶように、ほんのわずかな間を置いてから——続けた。
『ただ、その……一応、契約書を交わしても大丈夫ですか?』
送信したあと、ほんのわずかに鼓動が早くなる。前のことがある。同じ失敗は、もう繰り返したくない。だからこその確認だった。けれど——
『はい、もちろんです』
返事は驚くほど早かった。拍子抜けするくらい、あっさりと。……むしろ、その迷いのなさに、今度は少しだけ戸惑う。まぁ、通常はこんなものか。そう自分に言い聞かせるようにして、ひとまず納得する。
それから俺たちは、簡単な契約書を交わすことになった。住所は番地の手前までにする——そんな注意書きを添えながら、互いに記入を進めていく。
そして、俺は名前の欄に指を置く。ほんの一瞬だけ、迷ったあと——
「m1nase」
そう、静かに打ち込んだ。いつもSNSで使っている名前を書く。誰が契約したか特定できるものであれば、それで十分だった。けれど、それだけじゃない。この名前は、これまで少しずつ積み上げてきたものだ。だからこそ、この名前で契約するということは、俺なりに全力を尽くすという覚悟でもあった。
自分で、自分の名前を傷つけないために。そんな決意を込めて、送信した。一方、相手の欄にはこう書かれていた。
————篠原 乃々華————
「……ん?」
思わず目を細める。いや、待て。これ、本名じゃないか?そう思い、俺は尋ねる。
『もしかして、本名ですか?』
確認するように打ち込むと、返事はすぐに返ってきた。
『はい。本名ですよ』
「いやいやいやいや……」
思わず苦笑いしてしまう。いや、確かに契約書ではあるけど。それにしたって、あまりにも警戒心がなさすぎる。相手はネットで活動している人間だ、何があるのか分からない。しかも相手は学生で女性というのも分かっている。なおさら、こういう情報は慎重になるべきじゃないのか。
もし、俺が悪意のある人間だったらこの情報だって、いくらでも悪用できてしまう——。そんな考えがよぎり、指が止まる。
伝えるべきか、一瞬だけ迷ったあと——俺は、そのまま言葉にして送った。すると、返ってきたのは———
『え?するんですか?』
あまりにも純粋な質問だった。一瞬、言葉に詰まる。
……ほんと、この子は無防備すぎる。
呆れにも似た感情が、ふっと浮かぶ。そう思った瞬間さっきまで張りつめていた緊張が、ゆるりとほどけた。肩の力が抜け、気づいた。自分が、少しだけ笑っていることに。
その事実に気づいたときにはもう胸の奥にあった警戒心は、ほとんど消えていた。
むしろ、この子、大丈夫か?そんな心配のほうが、強くなっていた。苦笑しながら、俺は返信を打ち込む。
『いやいや、さすがにしないよ。ここまで育ててきたアカウントを捨てたくないですし』
なにより、俺の曲を好きだと言ってくれる人たちを、裏切りたくない。それに、この子はその中でも初めて——"金を払ってまで、俺に曲を依頼してくれた子だ"。その気持ちを、踏みにじるような真似はしたくなかった。
『そうですよね』
短い返事が、すぐに返ってくる。正直なところ、少し心配になっていた。彼女は、あまりにもあっさりと人を信じすぎるから。今の俺の言葉ですら、疑うことなく受け入れてしまっているように見える。だから、
『一応、心配な場合は聞いておいた方がいいですよ』
俺は少し考えてから、そう送る。
『例えば契約する時に、“ネットで活動している名前でも大丈夫ですか?”って聞いてみて、反応を見るとか。あとは住所をバーチャルオフィスにするとかね。もしそこで渋るようだったら……ちょっとだけ気をつけた方がいいかもしれないし』
少しお節介かな、と思いながら送った言葉だった。けれど、すぐに返ってきたその素直な反応が返ってくる。
『確かに、それはいえてますね。参考になります』
その返答に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
『けど、私の場合、まだネットでの活動は準備中なので難しいですね』
『へぇ~、それじゃあ、最初の曲に俺を選んでくれたんだ?』
『はい!』
そう嬉しい返答が返ってくる。
『m1naseさんの曲を聞いて、私——音楽で想いを伝えたいって思って。だから、始めたんです!』
そんな、まっすぐな言葉が返ってくる。画面越しなのに、その熱がそのまま伝わってくるようで——一瞬、言葉を失う。
『ありがとう』
満面の笑みを浮かべながら、弾むような声で返していた。




