第4話 抗えない現実
作曲が許可された当日は勿論、絶対安静ということで、早めに就寝することになった。
そうして——許可された翌日。俺はようやく、作業に取りかかることができた。まずは昨日触れたDAWを立ち上げる。まだ慣れない画面に一瞬だけ戸惑いながらも、昨日の手順を思い出しながら操作していく。
ドラムトラックに簡単なリズムを打ち込み、ループさせる。一定のビートが流れ始めた瞬間、無機質だった画面に"音楽"が宿った気がした。
「うぅぅーー、……やっぱ、たのしーー」
思わず頬が緩む。そのまま夢中になって、作業を進めていく。ピアノの音色を選び、コードを一つずつ打ち込む。鍵盤をなぞるように音を置いていくたび、少しずつ形になっていくのが分かった。
ぎこちない。きっと経験者が見ればそう思うだろう。それでも——自分の中にあったものが、音になっていく感覚がたまらなく心地よかった。
それから、頭の中にメロディが浮かんで来て、それをなぞる様に、音を配置していく。
「……うーん、やっぱり少し違うな」
眉を寄せ、軽く頭を掻く。
「……こうかな?」
音を一つ差し替える。けれど、しっくりこない。むしろ、さっきよりもどこか気持ち悪い響きになってしまう。
「なら……」
何度も試す。音を置き換えて、戻して、また試す。あと少しで、何かが掴めそうな感覚がする。いける。そう確信めいたものを感じる。
はやる気持ちを抱きながら操作する。その感覚が、操作を加速させていた。この感覚を、もっと形にしたい。そう指先が熱くなるのを感じる。気づけば、次のフレーズをなぞるように音を重ねていく。その最中だった。
理想とする音が完成するよりも早く、体が悲鳴を上げ始める。目の奥が、じんわりと重くなりだし、焦点がわずかにぼやけ始めた。見つめる画面の先も、僅かに滲んで見える。
「……画面の見すぎかな?」
小さく呟きながらも、手は止めない。そのまま、音を打ち込み続け、十分経つ。その頃には、違和感ははっきりとした痛みに変わっていた。
ズキズキと脈打つような痛みが、目の奥で広がる。視界の端がちらつき、画面を見続けるのが辛くなる。それでも、視線を逸らす気にはなれなかった。あと少し。このフレーズさえ決まれば——そう思ってしまった瞬間、指先がわずかに震えた。
動かしていた腕に、上手く力を籠められない。画面をタップする指の反動もやけに重く感じる。それでも俺は、無理やり操作を続けようとするも、痛みが増していくのを感じる。
「……まだっ、作りたいのにっ!」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。震える指先でデバイスに触れようと、腕を持ち上げる。あと数センチ——その距離が、やけに遠い。歯を食いしばり、俺は手を伸ばす。しかし、触れようとした瞬間、昨日の光景が脳裏をよぎった。
先生の、俺をなだめるような優しい声。看護師さんの「大丈夫だよ」という柔しい声色。そして両親の今にも涙がこぼれそうな目で、心配そうに俺を見つめる表情だった。その光景が頭に浮かぶ、俺の手は自然と止まっていた。
「……くそっ」
行き場のない衝動を叩きつけるように、拳を握り締めてベッドに振り下ろす。その衝撃はあまりに軽かった。握り締めた力が以前よりも弱く感じ、自分の体がどれだけ衰えているのかを、嫌でも思い知らされる。
歯を食いしばり、どうにか悔しさを堪えようとする。それでも滲んでくる涙を抑えることはできなかった。
「ぐすっ……ぐっ…………」
不甲斐ない自分の弱さに、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。悔しくて、情けなくて、涙は止まらない。それでも、今はこの現状と向き合わないといけないから。そう、震える指でナースコールに手を伸ばした。
数秒後、バタバタと廊下を駆ける足音が近づき、ドアが開く。入室してきたのは、いつもお世話をしてくれる看護師の人だった。
彼女はまず俺の乱れた呼吸に目をやり、肩の微かな震えや顔色を確認する。その視線は優しく、しかし確かな緊張を含んでいた。
「頑張ったね。それと、呼んでくれてありがとう」
声には俺の苦しみを理解する痛みと、それでも安心させようとする優しさが混ざっていた。少し表情を歪めながらも、それでも俺を不安にさせないように笑顔で接してくれる。
俺の様子を確認し終えた彼女は、迷いなく指先に機械を装着する。その手つきは淡々としていながらも、どこか優しさを含んでいた。
機械が作動すると、接続先の画面には酸素飽和度「91%」の数字が表示される。彼女はそれを確認すると、手慣れた様子で装置のダイヤルを少し回し始める。
「息を深く吸って。少しは楽になると思うから」
そう優しい笑顔で、彼女は俺に必要な処置を施してくれる。俺は深く息を吸い込んで、脳に酸素を供給した。
酸素が行き渡ったからだろうか。ズキズキと痛んでいた目の奥の熱が、スッと引いていき、ぼやけていた視界も少しずつはっきりとしてくる。
「吸って、吐いて」という彼女のリズムに合わせて、呼吸を繰り返す。彼女の手当のおかげだろう。先程までは乱れていた息遣いも、次第に静かになっていった。
「……顔色、少し戻ったね。良かった。」
看護師さんは、安堵するように肩の力を抜いた。俺の容態を改めて確認し、装置の数字を再度目で追うと、ふっと表情を緩めた。
「今日は体調が良くなるまで、絶対に安静すること。……作曲はまた明日ね」
「わかり……ました」
自分でも分かる程、項垂れてしまうのが分かる。彼女は少し言いづらそうに視線を逸らした後、少し距離を詰めて、しゃがみ込む。
そして俺と同じくらいの目線に合わせ、表情を窺うように見つめながら、そっと寄り添うような穏やかな声で尋ねてくる。
「今日は無理しないように、このデバイス預かってもいい?」
そう尋ねてくる彼女は心配そのものの表情を浮かべていた。その想いを裏切れず、俺は小さく頷く。確認した彼女は「ありがとう」とだけ言い、俺のデバイスを預かる。
ドアが静かに閉まり、看護師の足音が遠ざかる。部屋には、酸素が流れる音と点滴のポタポタという規則的な音だけが残った。
その規則的に奏でられる音を聞いて、つい手元に視線をやってしまう。空っぽになった両手には何もなく、指先は未だに熱を持ったまま震えている。
「……まだ、鳴ってる」
目を閉じると、頭の中で音の粒が勝手に跳ね回り、暗闇の中で勝手に奏でられる。それを譜面に書き起こせない悔しさが、胸の奥にじわりと広がった。
悔しさと無力感が胸に渦巻く。それでも、作曲できないという事実に気が抜けたのだろう。抗えない眠気が、静かに全身を包み込んでいった。
「あした、は……もっと」
朦朧とした意識の中、最後にわずかに完成した音が脳内で響く。その音を思い浮かべ、ふっと小さな笑みを零した。俺は静かに瞼の力を弱め、深い眠りへと沈んでいった。




