21.ピースサイン。
ターニャの右手背から前腕にかけて、青筋が隆々と浮き上がっている。彼女の怒りは頂点に達しているのだろう。
そして、その相手の地雷を思いっきり踏んだアグウィは、顔面を掴まれたまま、ターニャの頭上高く掲げられた。滴る水も相まって、桶から水揚げされた活魚のようだ。
ミシミシミシミシッ……
「ぐうっ……」
苦痛に歪む青年の顔から、骨の軋む音が鳴る。それを聞いた私は、ターニャのエプロンをグイグイッと慌てて引っ張った。
「ちょ、ちょっとターニャ、ストーーップ! アグウィが死んじゃうわ! 下ろして下ろして!」
「はっ! お、お嬢様……」
私の声で我に返ったターニャが、パッと彼からその手を離した。
ボチャンッ! ガチャンッ‼︎
縄で胴体、手首は後ろに縛られた状態のアグウィに受け身が取れるはずもなし。重力に従い垂直に落下すると、金タライに衝突して派手な音を響かせた。
「痛ててて……」
「ねぇ、アグウィ……」
お尻を痛がる彼の前へと進み、私は静かに声を掛けた。己の名を呼ばれ、青年がちらりと顔を上げる。その頬にはくっきりと、ターニャの指の痕が残っていた。
お湯の中に座り込んでる彼よりも、立っている私の方が僅かに目線が高い。上から見下ろす形で、彼に尋ねた。
「私は貴方が嫌う貴族よ。裕福な子供なら、最悪、死んでもいいって思ったの? 誰の命令かは知らないけれど、誘拐って……つまりはそういうことじゃない?」
「‼︎」
彼が目を背けた、起こり得たかもしれない未来の話を眼前に突きつける。真正面から自分へと向けられた少女の言葉に、アグウィの瞳がグラグラと揺れ動いた。
それでも、私から瞳を逸らさせないよう、そのままじぃっと見つめ続ける。
さぁ、アグウィは何て言い訳するかしら?……と思ったが、その心配は取り越し苦労に終わる。
罪悪に耐えきれなくなった彼が、その両眼からボロボロと涙を溢し始めたのだ。
「ご……ごめん……な……さ……」
叱られた子供のようなその様子から、彼の危うい純粋さが垣間見えた。己の中にある正義により裁かれ、苛まれる私刑は、他者から責められるよりも、もっと深い苦痛を生む。
私には……これ以上、弱った者を虐める趣味はないわ。
彼に目線の高さを合わせようと、膝を抱えてしゃがみ……私の右手が自然に動いた。彼の涙をそっと拭ってから、『よしよし』とその頭を優しく撫でたのだ。
「⁇」
「「セレナ⁉︎」」
「お嬢様⁇」
皆が驚くのも当然ね、私自身も驚いたもの。そう……この行動、私の意思ではない。間違いなく、この身体の持ち主セレスティーナ嬢……彼女の感情がこの身を突き動かしている。
もしかして、徐々に身体の主導権は彼女へと切り替わっていくのか? じゃあ、私の魂は……自分の身体へどうやって戻れるの⁇
………………
いや、分からないことを今考えても仕方ない。それならば……と、私は反対の小さな左手をこの胸にぐっと押し当てた。
『セレスティーナちゃん。貴女がもし、少しでも意識を取り戻しているのなら……お願い。何かしらの合図を頂戴』
心の中で彼女に向けて、語りかける。
ピクッ……
すると、身体はすぐ、それに応えた。左手が勝手に動き出し、三指を折り曲げ……ピースサインを作ったのだ。
「‼︎」
セレスティーナちゃん‼︎
あぁ……今すぐこの場で飛び上がりたい気持ちよ! 自分で自分の身体を抱き締めたい! でも、不審がられるのはまずいわね。
この感情を誤魔化すように、目の前にいるアグウィの頭をガシガシ夢中で掻き回してしまった。彼の髪はぐしゃぐしゃ、鳥の巣状態。
「わっ! な、なに⁉︎」
「セレナ、そいつから離れろ!」
「大丈夫よ、お兄様。彼に、私を害するつもりはもう無いわ。ねぇ、そうでしょ? だから、話して欲しいの……アグウィ、貴方のことを……」
私の言葉に、目の前の彼はこくんと小さく頷いた。
◇◇◇◇
場所を庭から屋敷内の一室へと移し、改めて彼から話を聞くこととなった。
アグウィの服は、ターニャが『風』魔法で完全に乾かしてくれた。それを着直した彼が、ソファに浅く腰掛けている。縄はとうに解かれ、敵意も戦意も無い、毒気の抜かれた青年がそこにはいた。先程、大粒の涙を流した瞳だけはまだ赤く腫れている。
カチャン!
「お嬢様! こんなヤツ、絨毯の埃取り代わりに、その辺でコロコロ這い蹲らせときゃいいんですよ!」
「うぐっ!」
給仕をしながら鋭く目を光らせる彼女の言葉に、青年はビクッと身体を揺すった。
「ターニャ、それだとお互いに話がしづらいでしょ? 私はアグウィを気に入ったの。だから、いいのよ」
これは本当。どうやら、セレスティーナ嬢はアグウィのことがお気に召したようだ。ただ、大型犬を愛でる感覚なそれに近しい。
「セレナがそれでいいなら……仕方ないな」
「異議なし」
「もう! お二人ともお嬢様に甘々過ぎです!」
「……ターニャには言われたくないぞ?」
ヴォレーク様の言葉通り、私の前にはやたらと豪華なお茶菓子達がずらりと並んでいる。アフタヌーンティーにはまだ早いわよ?
すると向かいの席に座るアグウィが、キラキラした瞳で、ケーキスタンドを見つめていた。半開きの口からは、今にもヨダレが垂れそう。
「アグウィ、どれでも好きなの食べていいわよ?」
「ええっ⁉︎ あ、ありがとう……ございます。では!」
ターニャの顔色を窺って、語尾を敬語に変化させたアグウィが、遠慮することなく、取り皿にせっせと菓子を移していく。よほど空腹だったのか、大口を開け、それらを次々と口に運んでいった。
リスのように頬を膨らませ、美味しそうに食べながら、彼は今回の件をぽつりぽつりと話し始めた。
「俺は……とある理由で閉鎖された迷宮へ侵入し、しくじり、まんまと捕まった。その時、相棒が怪我をしちまって……法外な治療費を請求され、俺は莫大な借金を背負うことになった」
「迷宮ギルドには訴えなかったのか?」
ヴォレーク様の問いに、アグウィは首を横に振る。
「閉鎖迷宮への不法侵入をバラされたら、国内中のギルドに連絡が回り、探索者資格は剥奪されるか、よくて出禁だ。そうなったら、生活が成り立たない。そしたら……借金の返済をチャラにするのを交換条件に、裏の仕事として頼まれたのが……」
「私を屋敷から連れ出すこと、ね」
「『何故』とか、『どうして』とか……そういったところにまで、考えは及ばなかった。目先の借金と相棒のことで頭がいっぱいで……相手の目的とかも詳しく知らない。ただ……『セレスティーナ嬢とお話ししたい方がいる』って、その迷宮を管轄する貴族が……」
「お、素直だな。そこまで話してくれるのか?」
レイ先生の皮肉を込めた言葉に、彼の口から自嘲ぎみな薄笑いが漏れた。
「ははっ、構わないさ。どのみち、グラシース侯爵邸への侵入と令嬢の誘拐未遂で俺は重罪、迷宮刑送りだ。もう……アイツに会わす顔がない……アイツだって……どんな目に遭うか……」
そう言うと、アグウィは自分の頭を抱えてしまった。




