6. 冷徹な侯爵令息のひそかな愉しみ
サルーシャ視点です。
早くから天才と騒がれていた私は、わずか10歳にしてこの世のすべてに飽き始めていた。世界のあらゆる事象も私を驚かせることはない退屈な日常。貴族社会という狭い世界の中のことではあったが、当時の私は人間観察をひと通り済ませ、人の行動原理を把握し、その心理を分析し、もはや人間にも面白味を感じられなくなっていた。そんな時に、アリーに出会った。
アリーは、私の知っているほかのどんな貴族の子どもとも違っていた。わがままでも破天荒でもないのに、どこまでも自由。小さなことにも楽しみを見出し、人を疑わず、心根は善良で、常識に縛られない行動はしばしば私の予想を越えてくる。
子どもというのは、大人が思うほど天真爛漫でも純粋でもない。貴族社会だからなおさらなのだろうが、それなりに大人の顔色を窺ったり、子ども同士でもマウントの取り合いをしたり、稚拙ながらも計算した言動をしたり、というのが当たり前だ。その筆頭、というか、大人以上にそれらをそつなくこなしていたのが、この私であったのだが。
アリーはそういう普通の子どもたちとは、まったく別の生き物だった。
私とは正反対のような、その存在に憧れた。
欲しい、と思った。
今は輝くような自由をまとっていたとしても、2年も経てば社会の価値観の中できっとそれは失われる。守らなければ、と思った。
私はすぐに行動を起こし、アリーとの婚約を取り付けた。
アリーは、私の日常を退屈とは無縁なものにしてくれた。
彼女が彼女のまま、憂いなく笑顔でいられるためなら、隣国の不穏な動きも潰すし、東方で封印から目覚めた魔王も葬る。そんな瑣末で面白味のない作業でさえも、アリーのためにやるとなれば、モチベーションが上がるというものだ。
私にとって、彼女は唯一無二だ。ヘーゼルの瞳は、陽射しの下で金色にきらめき、豊かな自然の中では深い緑に色づく。その美しさを初めて目の当たりにした時、私は心を奪われた。アリーの瞳に宿る、目が離せなくなるような澄んだ輝きは、彼女の本質をそのまま具現化したかのようだった。
それ以来、私は彼女を大切に守り続けてきた。
世の中には、愛する者を大切にするあまり、閉じ込めて外界から遠ざける変態もいるが、まったく変態の思考は意味不明だ。そういう奴らは、ひとりの人間を愛してるのではなく、その皮一枚の外側のみに執着しているのだろう。人形のように。
笑い、喜び、恥ずかしがり、時には怒り、悲しみ、そしてボケをかます。こんな面白い生き物を、心の無い人形になんてするはずがない。
アリーは私の腕の中で、自由に咲き誇るのだ。
それを与えてやれるのは、私だけだと自負している。
まあ、彼女の侍女であるアンナも、かなりいい線いっていると言えよう。修行に修行を重ねた鉄壁の表情筋には、さすがの私も負けを認める。悔しいが。言うまでもなく私の趣味は「アリー」なのだが、アンナもまた同じ趣味を持つ同好の士である。
つい先日などは、いつものようにアリーを送り届けた際、彼女の親戚である男爵家の馬車があるのを見て、私は香ばしい予感を嗅ぎ取り、そっと彼女のバッグからポーチを取り上げた。もちろん、忘れ物を届けに来たことを装って、現場を見るためだ。間違いなく、相当面白いものを目にすることができると私の勘が言っていた。こういう時の私の勘は外れたことがない。
出迎えてくれたアンナは、すべてを悟った顔ですんなりアリーのいるサロンへと案内し、しかも正面ではなく奥のドアを音も立てずに10センチほどそっと開けた。そこからは中の様子まではわからないが、声は十分に聞こえる。さすがアンナ。どこを探しても彼女以上の侍女は存在しないだろう。
そして予想通り、アリーと彼女の従妹の会話はどんどん面白いことになり、「計算高くしたたか」という言葉にアリーが異常な食い付きを見せたところで、私は盛大に吹き出しそうになった。すかさずアンナがタオルで私の口をふさいだので事なきを得たが。それからは、まさに抱腹絶倒を身体で表した状態になった私は、呆れと満足の入り混じった何とも言えない表情のアンナに見守られつつ、腹筋の痛みと闘い続けた。
さらに今日は、学園にて頭の足らない男爵令嬢が見応えのある一幕を提供してくれた。男爵令嬢のズレっぷりは凄まじく、しかも非常に悪い方向にズレているのに対し、私のアリーは完璧に正道と言える方向にズレていた。実に良いコントを目にして満足ではあるが、衆目の前でアリーを悪者と決めつけるやり方はいただけない。加えて第二王子と側近候補が同席しているのだから、笑い事では済まされない。
そこのところを知らしめるべく、冷気を放って脅しつつアリーを救済した。もっともアリーは、救済されたなんて微塵も気づいていないだろうが。
事の次第は、すぐさま当家の影もしくは王家の影から報告が上がっているはずだ。放っておいても、彼らにはそれ相応の罰なり処分なりが下される。王子の婚約者であるベルサージュ公爵家からは、無事婚約解消に運べる故、きっと礼があるだろう。アデリン嬢は、なかなかに好感の持てる大ウケっぷりだった。今後、良き同志となれる予感がある。
私の登場で、中庭の空気は一気に張りつめたものとなったが、当のアリーは「見ず知らずの男爵令嬢から高く評価された」と頬を紅潮させながらニコニコしていた。なんて可愛いんだろう。あまりの可愛さに胸が苦しくなり、「ぐふぅ」と変な声を漏らしてしまったが、致し方ないことだと思う。
ああ、愛しいアリー。私の世界を色鮮やかに染めてくれたアリー。
「アリーを守る」などと誓っていたが、今にして思えばなんと滑稽なことか。救われ、守られているのは、私の方だ。
厭世的になり、強大な力を持て余し、怪物に成り果てる未来しかなかったかもしれない私を、彼女はただの弱い男にしてしまう。そして、それは私に甘やかな幸福をもたらすのだ。