天女と猟師
その山には白月の天女が降りてくると伝承があった。
人の足を拒むような険しい道なき道を進み、尚深く。大きな大きな湖の畔にてこの世の者とは思えない程美しい天女達は衣を木に掛けて水浴びをするのだという。
あまりに現世離れをしたその風景を見たものは魂が抜ける程だと。彼女らを一目見たいがために山へと足を踏み入れようとする男等は多くいたが実際にそこへは辿りつけたという者はなく。というのも辿りついたとしても帰る道を正しく辿れる者もまた少なく、崖から落ちたり獣に襲われたり等とし命を落としたり道を見失い途方に暮れたものが殆どであった。
そんな山に、男が足を踏み入れた。目当ては眉唾物のおとぎ話の存在ではなく獣と薬草だ。天女が住むというだけあってその山には他にはない多くの珍しい山の幸があり青年はそれを狩って生計を立てていた。父親譲りの腕や知識を持ち目利きの腕もあった為村ではそれなりに裕福に暮らしも営める程。将来有望な出世株として期待されている。
周囲を煩わしくも感じはしたが狩りの邪魔とならなければそれでよいと青年は判断しその日も一人、己の手で以て安全な道を作り進んでいく。じっとりと汗をかきじわじわと鳴く虫の声を聞きながら罠を仕掛けたり、猟銃で大きな獣を狩る。川辺に辿り着いては木陰で腰を下ろし自分で用意した握り飯を食らい日の位置から時を計り山を下りる時間の算段をつけて獲った獲物の血抜きを施し僅かながら重さを軽くとして麓へ戻る。
彼は心得ていた。天女達が降りるという領域には近づく事は疎か立ち入りもしないと。麓の村で限られた昔からの顔なじみしか居合わせない女達ばかりだとは言え、それなりに見られている。故に高望みをして命を賭けてまで女を求め立ち入る必要性を感じないのだ。
田舎娘が霞む天上の女とやらに同郷の同じ年くらいいの男等は興味が尽きないらしく力自慢の彼も含めていけばもしかしたらがあるのではと何度も誘いをかけてはいるが。断れば付き合いが悪いと不満を垂れ、しかし彼の呆れと苛立ちの目が向く頃合いには引いて逃げてしまうのだから調子の良い奴らである。
そして今日も一人猟犬を二匹ばかり連れ大熊を狩り終え、貴重な部位と持ち運べる分だけを荷として携えては帰り路の途中に何か遠くで金属音のような耳障りな音を捉え、足を止めた。
獣の争う声は聞こえないが、金属音に交じり人の声らしきものも拾え考え込む。また山を荒らす天女目的の男か否か。他の猟師が何かしらが合って助けを必要としているならば向かうべきであろうが、何分、そのような殊勝な性格をしているものでもない。しかも猟をした帰りだ。行きよりも遥かに荷が増えていて助太刀に行こうとしても却って足を引っ張ってしまうかもしれない可能性も捨てきれない。
そうして悩んでいる間にも声の主が置かれている状況は悪化していくだろう。それを理解しつつ溜め息を吐いては連れていた二頭の白と黒の猟犬を先ず先に送りつける。頭の良い彼らならば主人の気を汲んでもし助けを求めるものが獣に襲われていたのであれば追い払ってくれるだろう。天女目当ての不審者も同じだ。山を荒らすだけ荒らして帰る余所者を彼も、猟犬達も毛嫌いし見つけたのであれば即座に叩き返してやる調教も行っていた。
「……吠えないな」
人間よりも足が速い彼らだがその速さと声の距離を計算してももう到着もしただろう頃合いを過ぎても返答がない。常ならば目標に辿り着いた時には報せの声を、獣が居たならばその数をと言った具合に自分の言葉無しにでも鳴くのだが。
まさか両頭共に声を上げる前に同じように猟銃を持つ者にでも殺されたかと思いが行きつくが直ぐに否定する。銃声をこの耳が拾う事が無かった。近付く為に速足で道なき道を進んでいるのに銃声が聞こえない等という現象が起き得るはずがない。
ならば、何故。
と言った言い知れぬ胸騒ぎと不安を抱え進んだ先には見慣れた犬達の背があった。黒く唸り足掻く犬を白い犬が必死に押さえ込んでいる。ああ、これのせいかと大きく息を吐き出しては白い犬の尻を蹴り飛ばす。キャンと鳴いて驚いたように黒い犬から離れた白い犬を一瞥し屈みこんで黒い犬の状態を確認する。怪我もなく尾を振って主人たる自分に擦り寄ってくるのを見ては目を細め、漸く周りに目を移した。
二頭の前で焦り足掻いているは髪の長い女。左足を仕掛け罠に取られ更には暴れた際にでも引っかけてしまったのであろうか長い毛先を枝に取られ衣服も乱れている。それこそ同郷の若い彼らが喜びそうな格好だと微かに考えたところで女はギッと彼を強く睨みつけ声を張り上げた。
「----!!-------ッ!」
「……?何だ、何を言いたい」
怒りを示しているのはその表情でわかった。だが言葉が通じない。犬を焚き付けたからそうなったとでも言いたいのかそれとも自分がそのあられもない姿を見た事によるものか。お前が声をあげなければ自分だとて来なかったと呆れとやはり慣れない事などしなければよかったとの思いに駆られながら、猟銃を脇に抱え直し女の側にと近寄っていく。
罵声が更に激しくなり意味こそ伝わらないが寄るなとのものだろう仕草を見つつも聞かずに眼前にまで迫り屈みこむ。
足を取られて身動きが叶わないなら罠を外してやればいい。幸い自分も使った事のある型だ。時間は要すだろうがその後は女も自分で髪やら服をどうにかするだろう。
先程まで犯されるとばかりに喚いていた女も意図を察したか怯んだか大人しくなり此方の邪魔にならないようにとし始めた。……そうだ、お前は大人しくしていろと呟き影になる位置に隠された鎖と繋がる罠を引き寄せ女の足を上げさせる。
数分ほど罠を弄り回し。カシャンと解けたそれを元の位置へと戻して女の足を手にしたまま、今度は腰に着けていた竹筒を手繰り寄せ、女の足に水をかける。驚き取り乱しついた傷は幸い微かに擦り剥いている程度でそこまで深いものではない、応急処置をしておけば痕にはならないだろう。若い女の身では痕が残るような傷もできるだけ避けたい筈だと勘が告げていた。拭う物は生憎と自分の手拭いしか持ち合わせていない為に臭いが多少ついているかもしれないが文句を言わせない構えで足を拭い離した。
しかし……履物を履いてもいない女に今更ながら眉を寄せる。自殺でも死に来たか、攫われて逃げ出したのか?こんな山の深い場所にまでどのようにして傷付かずに踏み入れたというのだろうと思い、用も済んだと立ち上がりながら竹筒を戻し猟犬を呼び寄せ背を向ける。
麓まで連れ帰るならば女が衣服を正した後先導する必要もある、そうでなくとも靴を貸すか作るか代わりを必要とする筈だろう。先程使った手拭いを一先ずは巻いて負ぶっていくのでもいいかと日の傾きを見て考えた。比較的安全な道のりを行けば予定していた時間を超えるが夕暮れまでには麓の家まで何とか間に合うだろう。日が暮れて野宿となってしまえば流石に知り尽くした山とは言え危うい。
「何のつもりだ」
兎角、衣服を整えさせ話し合いに臨もうとしては不意に風を切る音。反射で振り向き腕でそれを防ぐのと衝撃がくるのは同時だった。
背後にいた女は衣服をとっくに整えてそれどころかそれなりに太い木の枝を拾いそれを己の頭にと振り下ろしてきたのだ。肩で息をし眉を寄せた顔は先程と同じく警戒と怒りとで歪んでいる。
乱れた衣服の女に手を出さず時間をかけ貴重な水さえも消費してやったのにそれでも信用をされずにそのような謂れをされる筋合いはないと流石に彼も怒り、顰め面となっては枝を受けた腕で掴み、外させると女と距離を取ってフンと鼻を鳴らし歩きだす。
「俺はそこまでお人好しの男じゃない」
気にかけてやっただけ感謝してほしいくらいだと女等最早どうでもいいと犬達と再び帰路に発つと山を降りて行く。後ろから追ってくる気配があればその時は仕方なしに目を瞑ろうとの思いはあれ、女は遂にあの場所から自分が見えなくなる程に距離をとってもついてくる事は無かった。
その晩、一人自分の家で夕餉を食らい犬達の毛を一頭一頭丁寧に梳かして愛でてやっていると戸を叩く音がした。
こんな夜分に誰だと片眉を上げつつ戸の方面を見、不審がっているともう一度今度は先程よりも強く宛ら焦れたような乱暴な音だ。
こう煩くされては犬達も気が立ってしまう。現に白は落ち着きなく戸と自分を見、黒は唸り今にも飛び出していきそうな雰囲気である。渋々腰を上げ、囲炉裏から離れれば少し待てと戸へと歩みながら声をかけ古い木戸を開けた。
「っ!お前は……」
「昼間は世話になったな」
白く裾に向かって青く染まる着物に華やかな色合いの帯。月光を受け光る髪は昼間見たあの乱れた姿が嘘のようにきちんと結い上げ纏められている。警戒と焦りが浮かんだ姿しか終ぞ見なかったが落ち着き、ツンとした静かな佇まいで立つ女はこの村に住む者では同じ土俵に立つ事もできないだろう。
そんな美しい女が礼をしに来た。夜も更けた独り暮らしの男の家に。期待するなと言う方が可笑しい。しかし、しかしだ。
「……どうやってここまで来た。その素足で山を下るなんて真似、人間の女には不可能だろう」
驚きと共にしげしげと全身を眺め、そして何か引っかかりを覚えたのだ。良く良く見れば罠に取られた伸びやかでカモシカのような美しい足に傷は疎か土や植物を踏んだ汚れの一つない。
あり得ない事だ。幼い頃から父と共にあの山を歩き、巡り、恐ろしい一面も美しい面も穏やかな面も全て見て育ってきた彼は思った。
それら全てを天女だからと馬鹿な頭をした男等は考え鼻の下を伸ばし考えるだろうが自分はそうではないと女の正体をあれそれと考える。狐か山姥か狸といった線も考えられるかもしれない。いずれにせよ簡単に信用してはこちらに害を齎すと惑わされずに、今度は彼が警戒の色を濃く女をじっと見据えていると彼女は意外そうな顔をしてその薄紅色の薄い唇を開き笑った。
「ここにきても私を見て天女だ何だと騒がず、まして化け物か何かのようにする等とは。貴様は面白い奴だな」
「確かにここらでは稀に見る美しさはお前にはあると思うが都の方では分からんだろう。それに自分で天女だと言う女がいるか?」
「流石にそれはいくら何でも失礼過ぎじゃないか」
面白がっていた癖に、少しむっとしたように唇を引き結び女は目を据わらせるがそれすらも画になる。……駄目だ、頭が馬鹿になっているらしいとそれが疲れか老いからくるものと疑い嘆息しながら彼は首を振り、それでと話しを終いにし家の中へと戻りたがった。
礼に何か持ってきたならば受け取って有り難く貰っておくと返せば終わりだ。その後はとっとと糞でもして寝てしまえばいい。
だがそんなに甘く事態は終わらないのが世の常であるのだ。
素っ気無く。否、どちらかといえばもう投げやりである彼に益々むっとしたような表情になった彼女は口を開く。
「一介の人間如きに恩も返せないとなっては天女である私の名が廃る。というわけで、暫くここに住まわせてほしい。お前がもう十分だと思う程に恩を返せたのであれば私は天界へと帰ろう」
「…………は?」
斯くして天女は朴念仁の猟師の男の家へ住まう事になった。