大人らしさ
中学二年の一学期の終業式から一週間たった平日の午前9時40分。
深谷は小高い丘の上にある喫茶店を目指していた。
朝早くに漂っていたひんやりとした空気の影は既になく、照りつける日差しがゆるい坂を行く背中に突き刺さっている。
閑散とした住宅街には軋む自転車の音と大恋愛を叫ぶセミの鳴き声が響く。政令指定都市化やら人口100万人突破やらを高らかに宣言していたところで、少し都市中心部を離れれば、ゴーストタウンのように誰一人歩いていない通りを進むことができる。特段、進む通りを選んだというわけではないが、今はクラスメイトはもちろん、日傘を差した散歩中の見知らぬおばさんにも遭遇したくなかった。
人通りのない坂を抜け、荒れた息を整えようと自転車を止め、かごに放り込んだトートバッグに目をやる。
プリントされた可愛らしいパンダの目が今はひどくもの哀しく見える。
彼女が動物園に行ったときにプレゼントしてくれたものだ。男であり、また、子供らしい可愛らしさを卒業したい年頃にある自分へのプレゼントが可愛らしいパンダのトートバッグというのはどうかと思ったが、『えー、可愛いからいいじゃん』と笑顔で言う彼女には『ありがとう』という言葉以外に返すものが見当たらなかった。
その笑顔をいつまでも見ていられる気がしていた。
一学期の終わり、すなわち夏休みの始まりは自分にとってものすごい冒険の始まりを意味していると信じていた。夏の終わり、開くアルバムと思い出の中には必ず笑顔を向ける彼女の姿があると思っていた。
だが、それも今は叶わないものとなってしまった。
それは昨日のことだった。電話口で少し震える声で彼女は言った。
他に好きな人ができたから別れてほしい。
何かテレビの話でもしてるのかと思うくらいにその言葉は突然だった。慌てふためき、『え?』と『なんで?』を繰り返す自分の言葉を遮るように彼女はゆっくりと『好きな男の子』の話をした。話が進むにつれ、自分は冷静になり彼女は興奮していった。
同じ塾で、サッカーをやってて、私立の学校の学級委員で、周りのどの友だちよりも大人っぽくて…
子供らしい可愛らしさを卒業した男の子の話を終え、再び自分を混乱に陥れた言葉を繰り返した彼女に深谷ができた最大の抵抗が『喫茶店』だったのだ。
会って話をしようよ…
結果は会わなくてもわかっていた。ただ、電話で慌てふためいたまま、『うん、わかった…』と言うのだけはしたくなかった。
会って話をし、しっかりとケジメをつけよう、それが自分にできる最大の『大人らしさ』だと思った。彼女の仕打ちを問いただすのも悪くないだろう。もしかしたら、彼女は怒り出してグラスの水を自分にぶっかけるかもしれない。そうだとしたら、薄く笑って『彼にはこんなことしないようにね、お幸せに』と言って二人分の会計を済ませ、店を後にしよう。そんなドラマか何かにしか出てこないような大人らしさを見せつけようと思っていた。
喫茶店の前に来る頃には坂を登り終えた時の息苦しさはなくなっていた。
代わりに胃がねじれるような痛みが波のようにじわじわと襲う。
軽く深呼吸をし、意を決して喫茶店のドアを開ける。約束の時間まではまだ少しあるためか、彼女はまだ来ていないようだった。店員の誰に誘導されることもなく、店の一番奥の四人がけのテーブル席に座った。
頭の中でシミュレーションした言葉を店員に吐き出す。
『アイスコーヒーをひとつ』
間もなく運ばれてきたグラスをそっと掴み、口をつける。
ガムシロップやミルクを入れてもあまり飲みたいと思えなかったコーヒーを一気にグラスの半分を飲み、ほっと息をついた。
ちょうどその時、窓の外に彼女の姿が見えた。
口の中に苦い味が広がっていくのを感じた。
だいぶ前に友人と三題噺をしていた時に書いたものです。
初投稿で、今後もコンスタントに投稿できるかわかりませんがよろしくお願い致します。