17 再会は不穏と共に
記録を残して証拠にすると言うカーラに、メイド姿のパトリシアが居心地が悪そうに姿勢を正す。
「パトリシア様、もしかして緊張してます?」
「……そうね、緊張しているわ」
肯定する言葉が自分の口から出たことにハッとした表情で、パトリシアは唇に指先で触れた。
「弱音を吐くなんて。今までの私だったらできなかったわね」
「えっ、今のが弱音になるんです? その程度で?」
「ええ。余裕のないところを他人に見せてはいけないの」
「はー……まあ、貴族的にはそういうものかもしれませんけど」
緊張くらい誰だって、そう、王様だってするだろう。
言わなければ緊張が消えるというならともかく、口に出すこと自体が弱みとみなされるのは、カーラにとっては不自然きわまりない。
「そういうものだと教えられて、そう信じてきたの」
「窮屈ですねえ」
「お前が自由すぎるんだ」
「お前じゃない、カーラ」
阿吽の呼吸で、隙あらば指摘し合う二人にパトリシアが小さく吹き出す。
「窮屈……そうね、そうかも。行動や考え方だけでなく、私自身もきっと凝り固まっていたんだわ」
「パトリシア様、そのような」
「いいえ、セイン」
少し寂しげに、昨日より大人びた表情で笑う。
変装のせいだけではないパトリシアの変化に、セインが僅かに目を見張る。
「王太子妃として認められるよう、精一杯やってきたつもりでしたけれど。王妃様の出される課題にもアベル様に対しても、私はいつも受け身で……こうなって、ようやくそれが分かったわ」
纏っていたのは、張りぼての自信でしかなかった。
素質はあったかもしれないが、心の器は伴っていなかった。そこを突かれたのなら、リリスやアベルだけが悪者なのではないだろう――傷ついたのは確かだし、裏切られた悲しみは消えないが。
動揺するだけだったパトリシア自身の幼さと愚かさを認めれば、胸のつかえが軽くなった。
今も残る婚約者への想いも、時間が消してくれるだろうと素直に思える。
「じゃあやっぱり、きっぱり別れてサッパリしちゃいましょう! パトリシア様ならもっといい人がいますよ」
「……そうかしら」
「わたしが保証します。それに、結婚はしなくてもいいですよねえ」
「えっ?」
その選択肢はなかったのだろう。カーラの言葉にパトリシアは驚いて固まった。
「結婚、必要ですか?」
「だ、だって、家とか後継とか」
「魔女は結婚しないで産んだり、独身のまま弟子を養子にすることも多いですよ」
カーラもヴァルネに引き取られた側だ。
貴族も他家の子を迎えることは珍しくないと聞くから、パトリシアもそうして駄目だという理由はないだろう。
「カーラ。魔女と公爵令嬢を一緒にするな」
「まあ、こういうセインみたいにお堅い人が身近に多いでしょうから、そうもいかないかもですけど。でも、パトリシア様だったら、放っておいてもお相手には困らないでしょう。別にすぐ一人に決めなくてもいいわけですし、いろんな方と恋愛を楽しんでは?」
「まあ!?」
「だから、妙なことを勧めるんじゃない」
「妙かなあ。別にアベル殿下みたいに同時進行しろって言ってるわけじゃないのに」
「うっ」
「あ、失敬」
またナチュラルに刺してしまった。
アベルが浮気をしたのは事実だし、もう婚約も解消するのだからどうでもいいと思うのだが、やはり一日二日では乙女の恋心は整理しきれないのだろう。
自分だって女性の心情など分かっていないだろうに、偉そうにギロリとこちらを睨むセインから視線を外してカーラは話題をずらす。
「そうですねえ、緊張するならなにか楽しいことでも考えましょうか。パトリシア様。正式に婚約解消が済んだら、なにをしたいですか?」
「なにって……」
これまでのパトリシアには「やらねばならないこと」しかなかった。
自分でやると決めたこともあったが、それはすでに誰かが選択したものの中から拾い上げたに過ぎない。
自分の意思とは――そう気がついて、パトリシアは愕然とした。
「……私、なにがしたいのかしら」
「ない?」
「ないというか、分からないわ」
好きな物、好きなこと。それさえも「未来の王妃」は選り好みしてはいけないと制限されてきた。
食べ物も、着るものも、行くところも……一挙手一投足、自分の一言が多くの家臣に影響すると思えば、慎重にならざるを得なかった。
そこまでする必要はなかったかもしれないし、アベルもそう言ってくれた気がする。
しかし、パトリシアにそれを汲む余裕はなかった。
さあ、と血の気が引いたパトリシアの顔を今度はカーラが覗き込み、菫色の瞳を合わせる。
「よかったですね、これから探し放題じゃないですか」
「……!」
「成人すれば、自己裁量の幅も広がるでしょう。子どものころよりずっと自由に、なんでもできますよ」
「私、もう十八歳よ。今からなにかしたって、もう」
周囲は皆、将来を決めている。
今頃になって未来を求めるのは遅すぎるのでは、と訴えるパトリシアに、カーラは呆れを隠さなかった。
「なに年寄りみたいなこと言ってるんですか。まさか二十歳で死ぬつもりです?」
「カーラ、言い方」
「いえ、セイン……いいの」
王太子妃になるはずだった。
ほかの未来なんて想像できなかった。アベルと上手くいかなくなってからは、足元も見えない霧の中にひとり置いて行かれた気分だった。
そんな、前にも後ろにも踏み出せずに怯えていたパトリシアの遠く前方に、ほのかな明かりが灯った気がした。
「そうね……まだ、先は長いのね」
「せっかくなので、楽しんでください」
あまりに当然のように言うカーラに、自然とパトリシアの頬が緩む。
「ええ。ありがとう、カーラ」
「なんの御礼か分かりませんが、とりあえずこの片が付いたらご両親と祝杯を上げたらいいんじゃないでしょうか。スコットさんたちも一緒に、皆で婚約解消パーティーでも、ぱあっと」
「そうね。それを楽しみに今日は頑張るわ」
「あっ、殿下やリリスの顔を見たら言いたいことが出てくるでしょうけど、今日だけはわたしに任せてくださいね」
「ええ、分かっています。さすがに喋ったら、声で私だってことがバレてしまうものね」
「ですです。昨夜話してくださったことは、ちゃーんと言いますからご心配なく」
ビシリと人差し指を立てるカーラに、パトリシアが頷く。
「言い足りない分は、王宮で婚約解消の手続きするときに改めてどうぞ」
「ふふっ、そういたします」
「……」
「なに、セイン」
「いや……なんでもない」
セインが言葉を濁しているうちに、馬車は学園へ到着した。
§
護衛の近衛騎士と専属メイドを伴ったパトリシアが教授たちに復学の報告をしている間に、彼女が久し振りに登校してきたことはあっという間に学園中に伝わった。
事務室から廊下に出たとたん、数名の女生徒に取り囲まれる。メイド姿のパトリシアがそっと囁いてくれた情報によれば、学友というか「公爵令嬢パトリシア」の取り巻きだという。
カーラの変身であることにも、静かに控えるメイドの存在にもまったく気付かず、病気からの快癒を大げさなほど祝い、アベルに伝える、きっとお会いしたら喜ぶ、と聞こえの良いことを告げると逃げるようにその場を後にする。
令嬢たちのその姿は、パトリシアとの距離を測りかねているように見えた。
「……あの方たちも、『王太子妃ではない私』には興味がないのでしょう」
「殿下たちを呼び出す手間が減ったじゃないですか。友達ではないかもですが、役には立ちましたね」
「酷い言い草だな」
「セイン、じゃあほかにどう言えと?」
「いや、言い方は悪いが異論はない」
「珍しく同意された! やだー、なんか企んでる気がするー」
「うるさい。いいから早いところ猫をかぶれ」
今日は休んだ分と今後の講義の調整のためという名目での登校のため、授業には出ない。アベルとリリスにどうやって会うかの算段もしてきたが、取り巻きたちが報告に行ったならその手間も省けた。
――というわけで、一行が向かったのは例のガゼボだ。
ここで履修や試験のスケジュールなどを確認するふりをしていれば、向こうから勝手にやってくるだろう。
到着したガゼボは、学園の広い敷地内に点在する教室棟や実習棟からは離れており、たしかに足繁く通う人はいないだろうと感じられた。
「ははぁ、ここが浮気現場の」
「くっ」
「カーラ」
「しっ、セイン。今のわたしは『パトリシア』」
何度も話題にあがった、こぢんまりとした東屋に感心したら、またパトリシアにダメージを与えてしまった。
窘めるセインを逆にしれっと注意して、しおらしい仕草で腰掛ける。
メイド姿のパトリシアを奥に座らせ、カーラが手前に、セインは二人の脇に立って。
和気あいあいと備え付けのテーブルに履修用紙を散らして囲んで、間もなくだった。
「……おい」
不信感を滲ませた呼びかけに顔を上げた「パトリシア」の瞳に、一人の男子生徒が映る。
(おっ、早ーい)
小さく肩を震わせた本物のパトリシアを隠すように、カーラは彼のほうへ向き直る。
――国王陛下と同じ艶のある黒い髪、王妃譲りのブルーグレーの瞳。
アベル・エインズ・セルバスター王太子。パトリシアが婚約解消をする相手だ。
カーラは王族がお出ましになる祝祭のパレードや王宮のバルコニーなどにあまり興味がなく、見学に行ったことがなかった。
両陛下に比べて新聞などに載る機会も少ないアベルを、初めて間近に見る。
整った容姿に無駄のない体つき。親しみがあるというより、切れ物といったほうがしっくりくる雰囲気は、雑誌などで読む彼の印象そのままだ。
走ってきただろうに息もほとんど切らしていないアベルは、静かな怒りを滾らせて「パトリシア」と護衛騎士のセインを見据える。
と、一呼吸おく間もなく地面を蹴った。
(んなっ!?)
鈍く重い音が聞こえたと同時に全身に衝撃を受ける。奥に突き飛ばされたカーラは、メイド姿のパトリシアに抱き留められていた。
遅れて、頬に熱を感じる。
「退け、セイン」
「なりません、殿下……!」
カーラの目の前には、こちらに向けて抜かれた剣を己の鞘で止めるセインの背中があった。
騎士服の肩が裂け、白い布が赤く染まっていく。
(あ……血が)
つぅ、とカーラの頬を温い液体が流れ落ちる。
はらりという音に視線を下げれば、耳上にあった金色の髪が一房、足元に散った。
「……お前は誰だ。パトリシアをどうした!?」
まだカーラを狙ったままの切っ先の向こうから、青灰色の瞳がカーラを憎々しげに見据えていた。