2話 前途多難
自宅のアパートの玄関で寝たと思ったら、まったく知らない場所にいた。
人っ子一人いない森の中で焦っていると、黒い猫に出会う。
人馴れしている様子から飼い猫だと思った私は、彼についていき一軒の家を発見した。
どうやら、ここが黒い猫のすみからしい。
家の中のあちこちに埃が積り、どうやらしばらく使われていない様子。
罪悪感にさいなまれつつも、この家を借りて生活の拠点にすることを決めた。
私は自由! 自由になったのだ!
ちょっと晴れ晴れとした気分になって屋根裏部屋を確認すると、私は下に降りてきた。
「おし! まずはお掃除、お掃除っと!」
掃除の続きをして、寝室の床も綺麗にする。
猫は嫌そうにしているが、仕方ない。
毛布なども、お日様に干したほうがいいだろう。
ベッドの毛布やシーツを剥ぐと、下は藁だった。
その上に大きな毛皮が敷いてあり、その上に麻のシーツをかぶせてあった。
「すごい、大きな毛皮! 本物だよね? 熊かなにか?」
手触りはすごくよくて、猫の毛並みによく似ている。
これも虫干しをしたほうがいいだろう。
シーツなどを担いて外に出ると、物干し竿を探す。
家の裏に回ると、それらしきものを見つけたので、そこにシーツと毛布を干した。
家の中に戻り、毛皮も持ってくる。
「ふう!」
ちょっと汗をかいてしまった。
裏にも畑があり、いろんなものが植えられている。
その中に建っている、小さな小屋が2つ。
1つは、農機具やら斧やらなどが入っている小屋。
木箱や樽などもある。
もう1つは――トイレ。
食ったら出さねばならない。
もちろん水洗であるはずがなく、ボットンである。
「あ~都会に出て水洗と洗浄機能付きトイレに慣れ親しんだのに、またこれに戻るとは……」
陶器製の便器などはなくて、穴が開いているだけ。
外の便所は夜が怖そうで、まったくトホホである。
裏の畑の奥には、小山があるので、そこまで行ってみた。
枯れ草などに土がかぶせてあるのだが、どうやら堆肥――のようだ。
その横には屋根のついた穴。
「なにこれ?」
近づくと解った。
肥溜めである。
「うわぁ! 化学肥料とかない場所だと、こういうものが必要になるのね!」
実家は田舎だったが、さすがに肥溜めなどはなくなって、今は化学肥料が全盛だ。
さきほどの決意はどこへやら、私は徐々に自信がなくなってきた。
辺りを見回すと、草はボーボー庭の整備は大変そうだ。
途方に暮れるが――他に行く場所がない。
ここで生活をしなくてはならないなら、選り好みはしていられないのだ。
物事のすべてが自分のため――そう考えれば、ブラックで働くよりはマシだ。
どんなに苦労しても、すべてが自分のためなのだから。
とりあえず、汗をかいたので喉が渇いてしまった。
家の中に水道はなかったから、やっぱり井戸だよね……。
私は井戸の所に向かって、石造りの円筒の中を覗き込んだ。
黒い水面がゆらゆらと揺れており、当たり前だが本当に水がある。
目の前には、大きな滑車と縄がついた木の桶。
時代劇とかで見たことがあったけど、本当にこれを使う羽目になるとは……。
私は、桶を井戸の中に放り込んだ。
下を見て水が入ったことを確認すると、引っ張り上げる。
ガラガラと滑車が音をたてた。
「お、重い……! なにくそ~っ! 私は、ここでぇ! 暮らすんだぁ!」
かなり力が必要だ。
要は、掬う水を少なくして、引っ張る回数を多くしたほうがいいのだろう。
最初なので、そのままなんとか引っ張り上げた。
「ハァハァ……」
1回で手が真っ赤になり、桶に一杯の水をゲットできた。
両手で水を掬うと、飲み干す――冷たくて美味しい。
生水を飲むのは少々心配なのだが、火もないし今回は仕方ない。
せっかく苦労して汲んだ水を捨てるわけにはいかないので、台所から鍋を持ってきてそれに移した。
「お腹空いた……」
水を飲んでホッとしている場合ではない。
今度は食事だ。
台所の中を物色する。
棚やら扉も全部開けてみると、いつのものか解らないが小麦粉らしきものがあった。
あとは瓶に入ったオレンジ色の塩。
なにか辛い香辛料みたいなものもある。
上から下までひっくり返して、小さな小瓶を見つけた。
茶色をした結晶のつぶつぶ――ちょっと指につけて、舐めてみる。
「あ、甘い――砂糖っぽい」
塩は結構あるのに、砂糖がほんの少ししかないってことは、貴重品なのかもしれない。
「う~ん……」
とりあえず、さっき汲んだ水はある。
外に食えそうなものを探しに行く。
畑には伸び放題になっている芋と人参と、カブらしきものが生えているのだが、料理を作るためには火が必要だ。
「マッチなんて――ないよねぇ……」
家中探してみても、それらしきものはない。
あったのは白い石とそれとセットになっているっぽい金属だけ。
これって、時代劇でカチカチやっている火打ち石なのではあるまいか。
試しに打ち付けてみると――確かに火花が出る。
「やった!」
家の裏に薪が少々積んであったので、そいつをカマドに入れた。
料理をするためには、森で薪拾いもしなくてはいけないってことだ。
なんというサバイバル。
手間暇の嵐だが、昭和の初期までは、日本でもこんな暮らしをしていたんでしょ?
なんとかなるって。
「よ~し!」
カマドに入れた薪に向かって、カチカチカチカチ――。
火花は飛ぶのだが、いっこうに火が点かない!
こんなに難しいのか?
時代劇なんかじゃ、簡単に点けていたような気がする。
これなら、動画サイトでサバイバル番組でも見ておけばよかった!
だって、そんな暇なかったんだもん!
こんどは、細い木の棒をキリのように両手で回してみることにした。
これもよく見かける火の点けかただが、必死にキリキリしてみても煙すら出ない。
あまりの自分の無力さに泣きそうになる。
泣いても仕方ない。ここには自分しかいないわけで、なんとかするしかない。
とりあえず、人参とカブは生でも食える。
包丁を取り出した。
「サビサビ……」
砥石を探す。
戸棚からそれっぽいものを見つけたので、外で研いでみる。
アパートでは、荒研ぎと仕上げの石が一緒になったものを使っていたのだが、ここには小さな石が1つしかない。
これでなんとかするしかないってわけだ。
研ぎ終わった包丁を使って、どうにか野菜を薄切りにすると水に漬けてから塩で揉んでみた。
スプーンはあるが箸はないので手づかみである。
「はぅぅ……美味しい」
まぁ、正直――あまり美味しくはないのだが、やっとありついた食べものだ。
ありがたくいただく。
ここに畑がなければ、餓死間違いなしだったわけだし。
さて、満腹にはなっていないが、腹にものが入ってとりあえずは落ち着いた。
これで餓死することはないと思うが、ずっと生野菜だけ食べているってわけにもいかない。
私は外に出ると、他の食べ物を探し始めた。
小屋から鍬を持ってくると、土に埋まっているものを次から次へと掘り起こしてみる。
なんだか見たことがないものばかりで、本当に食えるのか微妙なものばかりだ。
よくわからないものを食べて、腹痛にでもなったらマズい。
ここには薬もないし。
寝室の天井からぶら下がっているものの中に腹薬もあるのかもしれないが、さっぱりと解らない。
そうこうしているうちに、柵に絡まっている蔦に、赤い実がなっているのを見つけた。
どうやら木苺っぽい。
自信はないのだが、一粒採って口に入れて見た。
「美味しい……」
甘酸っぱくて美味しい。
あまり数はないので、5個ほど摘んで止めた。
お腹にものが入り甘いものも食べると、とりあえずは落ち着く。
家の中に戻り、寝室の本棚を漁ると紐で閉じた分厚い紙の束を取った。
書いてあるのは日本語ではなかったのだが、不思議なことに普通に読むことができる。
まぁ、薄々と感づいてはいたが、ここが日本ではないってことが明らかになったわけだ。
「さすが天国、言語の壁はないってことなのかな?」
親切なのはいいが、それなら腹が減らないようにしてほしかった。
ページをめくる。
厚ぼったいザラザラとした紙であるが、読んでみると、それがなにかすぐに解った――日記である。
私は、一旦それを閉じた。
人様の日記を読んでいいものだろうか?
少々、迷ったのであるが、ここがどこだか解らないし情報源はこの日記しかない。
「ごめんなさい!」
私は手を合わせると、それを読み始めた。
日記の主は女性のようである。
最初は適当な場所から取ったのだが、1番日付の古いものを探して再度読み始めた。
どうやらここは――サイードという名の王国である。
地球でそんな国は聞いたことがないし、ネットの情報でも知らない。
「天国じゃなかったのかぁ。それじゃ、別の世界に飛ばされたとか? まさかね……」
それはいいとして――暮らしていくためには、なんらかの方法で金を稼がないと駄目ってことになる。
自給自足だとしても、ないものは買わねばならない。
たとえば塩などだ。
そう考えると、なかなかハードである。
この家で暮らしていた女性は、どうやって暮らしてていたのだろう。
それを知るためにも、ここにある日記を全部読めば解るはず。
この家の主である女性が、なにをやって稼いでいたのか――それはすぐに判明した。
魔女だ。
「魔女? 魔女って魔法を使うあれ? マジで? そんなことってあるの?」
日記には、お金を貯めて魔法の本を買った。
魔法に四苦八苦する様子や、薬を作って売り、金をもらったとか確かに書いてある。
私は途端に、この日記の信憑性に自信がなくなった。
そう妄想している女性の夢物語の羅列だったら、読むだけ無駄じゃない?
そんなことを考えつつ、2時間ほど日記を読んでいたら、突然腹が怪しい音を立てた。
「んぎ!」
腹を搾るような痛み――キタ-! これは下りのスペシャリストである。
井戸水であろうか?
それとも生の野菜?
もしかして、あの木苺?
全部、心当たりがあるのだが――私は、コーナーを攻めていろは坂をショートカットする勢いで、使うか迷っていた旧態依然のトイレイベントに強制的に参加させられることになってしまう。
暗くて狭いトイレに駆け込む。
恐怖と圧迫感の中、うんうんと苦しみ、出すものを出してホッとしていたところにさらなる衝撃が私を襲う。
「紙がない……!」
そもそも、それらしいものを置くためのスペースもない。
小さな瓶があるのだが、その中は空っぽ。
――これでどうしろと?
しばし悩む……。
どうせ、こんな場所には誰もいないんだ。
私はジーンズを脱ぐと、お尻をむき出しのまま台所まで水を取りにいった。
トイレに戻ると、それを使って綺麗に洗う。
さっきまで決意はどこへやら。
早速、心が折れそうになる。
「うぇぇ……なんで私がこんな目に……もう、帰り――たくない! 私は、ここで暮らすんだ!」
一瞬めげそうになったが、だいたい帰るっていっても帰れないじゃない。
やれることがあるのに、めそめそしてなにもしないのは、私の矜持に反する。
要は、開き直ればいいのである。
その代わりに、女としてなにか大切なものを失った気がするのだが――多分、気のせいだ。
紙がないってことは、ここに住んでいた女性もこうしていた可能性があるし。
そう考えていると、トイレにあった小さな瓶に目が止まった。
おそらく――この瓶には洗うための水を入れておくものなのではあるまいか。
瓶の中には、水色の石が入っていた。
ネットで、水が綺麗になる石――みたいなものを見たことがあるので、そういうものなのかもしれない。
「うう……」
出すものを出したのだが、まだ腹が痛い。
そういえば、この家の女性は、薬を作ったりして生活していたと日記に書いてあった。
あの天井からぶら下がっている薬草の中に、腹痛に効くものもあるのではないだろうか?
私はズボンを穿くと、本が沢山ある寝室に戻った。
日記をちゃんとつけている人なのだから、薬のレシピなどを保存しているはず。
ふと下を見れば、猫が丸くなって寝ている。
「ねぇ、薬のレシピ本とかあるの?」
「……」
猫が大きくあくびをした。
まったく答えるつもりはないようである。
普通なら猫の餌も考えなくてはならないのだろうが、彼は自分で自給自足しているらしい。
ずっと一匹で、ここに住んでいたのだから、私よりタフである。
私が最初に手を伸ばした場所は日記で埋まっているようなので、もう1つの本棚を物色してみることにした。
本を手に取り、パラパラとめくっていくと、詳細な図が描かれた本が何冊もあった。
手書きのページに紐で縫われたものなので、多分手作り。
覚え書きのためなのか、だれか弟子がいたのか。
覚えているつもりでも、ど忘れするってこともあるからね。
メモってのは大切。
明らかに装丁が整った本もあるのだが、中身は手書き。
もしかして、印刷技術がない世界なのでは?
そんなことよりも――。
「腹痛、腹痛……あった!」
ハート型をした葉っぱが書かれており、乾燥させて煮出して飲む――と書いてある。
本を持ちながら、天井から下がっている枯れ草の中から似ているものを探す。
「これかな?」
本と照らし合わせる。
どうやらこれらしいが、煮出すには火を使う必要があるが、それがない。
やむを得ず、ちょっと葉っぱをちぎって、口の中に入れてみた。
「なぁぁ! 苦ぁぁぁぁ!」
良薬口に苦しって言葉があるから、苦いのは効くってことなんだろう。
水で口の中をゆすいだのだが、まだ苦い。
悶絶しながら、薬草図鑑の続きを読んだ。
薬草にも咳止めやら、血止めやら、色々と効能があるらしい。
これは素晴らしい。
こいつを全部覚えれば、商売になるってことでしょ?
本を持って外に出てみた。
図鑑に載っている薬草が庭にも植えてあるようだ。
わざわざ採取に行くより、栽培できるものは栽培していたのだろう。
そっちのほうが効率がいいし。
面白がって図鑑を見ていたら暗くなってきた。
慌てて、裏に干していたものを取り込む。
干したものを抱えながら考えたのだが、ここって洗濯はどうするんだろう。
洗剤らしきものもないし……。
小屋にタライらしきものがあったので、それを使うのだろうか?
辺りを暗闇と静寂が包み始める。
暗くなってはなにもできなくなってしまう。
台所にランプがあったのだが、あれって点くのだろうか?
テーブルの上に乗って天井からランプを取ると、それを寝室に持ち込む。
「すごく軽い!」
金属製で光る部分はガラス、中に透明な石が見える。
普通のランプとは違うらしい。
あちこちをいじっていると、底が取れるようだ。
底蓋を取ると、黒い石がハマっていた。
ただそれだけ。
燃料に油を入れたりはしないらしい。
どうやら火も使わないようだ。
「これってどうやって点けるの?」
黒い石を取り出して摘んでみるも、よく解らない。
石を元に戻して底蓋を締めると一瞬だけ光った。
「え?!」
突然の光に驚いたのだが、ほんの一瞬で終了。
再び開けて締めるも点灯しない。
どうやら黒い石を外して戻すと、一瞬点くらしいが、わけが解らない。
「はぁ……」
私は、ため息をついてベッドに寝転がった。
ベッドは小さく、ちょっと足がはみ出てしまう。
これはなんとかしなくてはならないだろう。
薬が効いたのか、腹痛は治ったようである。
薬草は効き目があるらしい。
民間療法も馬鹿にできないってことになるよねぇ。
腹が減ったが、腹痛の原因が不明だ。
カブや人参ではないと思うので、あの木苺みたいな木の実だろうか?
夕食は抜いたほうがいいだろう。
ゴロゴロと転がり、日向のにおいのする毛布を身体に巻きつけた。
明かりがないと、日の出とともに起きて日没とともに寝る、原始人みたいな生活になりそう。
せめて油があれば、ランプが作れるのに。
真っ暗になると、気温が下がってきた。
心細く、右も左も解らない不安な世界。
ここにある本や日記の知識を身につければ、なんとかなりそうな感じがするが――勝手に人の家に上がりこんで、日記を覗き見して、本をタダ見。
それが許されるのだろうか?
この家の持ち主に、本当に申し訳ないと思いつつも、他に方法がない。
とにもかくにも、ここにある日記と本から知識を吸収して、ここで暮らす方法を模索しなくては。
私は自由になったと言ったが、自由とは――生きる自由もあるが、死ぬ自由もあるということである。
なんとかこの世界で生き抜く方法を見つけてやる。
明日からの生活に決意を新たにして燃えていると、私のお腹の上になにかが上がってきた。
「なに?!」
慌てて上半身を起こすと、2つ光るものが。
「にゃー」
猫である。
気温が下がってきたので、私を暖房代わりにするつもりだろう。
手を伸ばしてそっとなでてみると、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
どうやら心を許してくれたらしい。
彼は私の腹の上で丸くなった。
正直、重いのだが、独りぼっちの世界で彼がいるだけでも心強い。
私をここまで案内してくれたし、角があるウサギからも助けてくれた。
暗くなっただけで、まだまだ寝る時間ではないはずなのだが、ありえないできごとばかりで疲れたのだろうか?
腹の虫が鳴くのだが、まぶたが重くなってきた。
「あ……服を脱がなきゃ……」
そういえば替えの下着とかないし、どうしようか……。
その前に、火を起こす方法を考えないと早々に詰みそうな……。