1話 森の中の小さな家
「ちくしょう~、バーロー! あんな糞会社辞めてやらぁ! えへへ!」
暗い夜道、電柱の蛍光灯の明かりの中――私は、ちょっとふらつきながら家路を歩いていた。
終電を降りて帰宅の途中、コンビニでビールを買って飲んだのだ。
もう、飲まなきゃやってられん。
「あの糞上司めぇ! 納期のきつい仕事ばかり取ってきてぇ!」
その上、クライアントがしょうもないリテイクを出すのだ。
いい大学の文学部だかを出ているらしく、詩的な表現が~どうのと、くだらないケチつけてくる。
会社案内のパンフに、なんの詩的表現だよ。
とりあえず下請けにマウント取りたくて、ケチをつけているだけなのだ。
マジでアホらしい。
その上、背のデカい女は可愛げないなどと――。
「セクハラ! セクハラか?! こちとら好きでデカくなったわけじゃねぇぞ!」
そんなこんなで、すっかり嫌になってしまい、途中でビールを買ってやけ酒を飲んだわけだ。
我ながらしょうもないと思うが、あえてもう一度言うが飲まなきゃやってられん。
私はジーンズを引きずりフラフラになりながら、自分のアパートにたどりついた。
錆びついた鉄板の階段を上り、ポケットから鍵を出してドアを開けると、そのまま玄関にうつ伏せに倒れ込む。
「うぇ~……ブーツ脱がないと……お化粧落として……あ……ゴミが溜まってる……隣のババァがうるせぇんだよ……」
私の記憶はそこで途切れた。
------◇◇◇------
明るい日差しの中で目を覚ました。
頬に、緑の草の感触がチクチクと当たる。
「やば! 会社!」
私は、玄関でそのまま寝てしまったらしい。
慌てて飛び起きたのだが、そこは玄関ではなかった。
目の前には草むらが茂っており、後ろを見れば背の高い広葉樹が枝と葉っぱを広げている。
私は、そこの木漏れ日の中で寝ていた――いや倒れていたらしい。
ぐるぐると辺りを見回して、そこに座り込んだ。
とりあえず、今日は会社には行かなくていいらしい。
「もしかして、私――死んじゃった……?」
まずは直感でそう思ったわけだが、これは夢ではない。
草の感触もあるし、森の緑のにおいもしてくる。
こんなリアルな夢があるはずがない。
手をかざせば、眩しい太陽からひさしができる。
もしかしたら無意識に実家の近くに戻ってきたのだろうか?
記憶喪失のまま、なん年も放浪生活をして正気に戻った人の話もある。
まぁ、そういう話はあるのだが、私の脳裏によぎったのは死。
ある日突然、あのアパートの一室で私は死んだのではないか?
すると――目頭が熱くなり、涙が私の頬を伝った。
「うう……ううう~!」
田舎の学校を卒業してから都会に出て、来る日も来る日も職場と家との往復。
家に帰れないときも多々あった。
食うために必死に働いていたが、なにもできずに死んでしまったのだと思うと、涙が止まらなかった。
素敵な出会いや胸躍るできごとも、ときめく憧れや燃え上がるような恋もなく、アパートの玄関で死んだ。
私の人生はなんだったのだろう。
大きな木の下で、涙を流すしかなかった。
「お母さん、ごめんなさい……」
本当に先立つ不幸ってやつで、こんな親不孝な娘はいないだろう。
親父は――まぁ、どうでもいい。
とにかく私とは反りが合わず、顔を合わせるといつも喧嘩ばかり。
私が田舎から都会に働きに出ると言っても、最後まで反対していた。
多分、私の葬式の場面でも、「俺の言うことを聞かないから、こんなことになったんだ!」と、ドヤ顔をするだろう。
そういう男だ。
あとは弟がいるが――やつはなんとか生きるだろう。
お母さんを頼む。
それから1時間ほどめそめそしていたのだが、突然に腹がなった。
死後の世界でも腹は減るのか?
腹が減るってことは、ご飯を食べなきゃ死ぬってことだろう。
死んでいるのに、また死ぬのだろうか?
もしかして、ここは死後の世界ではないのではないか?
そう考えると私の涙も止まった。
泣いている場合ではなくなったのだ。
なんとかしなければ、この森の中で本当に死んでしまう――かと言って、自分の家には戻りたくない。
あのままBBAになるなんて、絶対に嫌!
つ~か、戻れないでしょ、これ?
――かといって、ここはいったいどこなのであろうか?
天国なら天国でもいいのだが、そういう場所につれてくるなら、ちゃんと面倒を見て欲しいものだ。
いきなり放置プレイでいったいどうしろと?
辺りを見回す――荷物はなし。
ジーンズのポケットをまさぐる――なにもはいっていない。
いきなり詰みそうだ。
考えても仕方ないので、この前に買ったばかりのブーツを引きずって歩き始めた。
元々は田舎育ちなので、森や草むらにも馴染みがある。
森の縁が道のようになっているので、それに従って進むことにした。
靴はブーツのままなので森歩きにはちょうどいい。
これがパンプスとかなら、いきなり死んでた。
シャツと長袖の上着も、森の中ではありがたい。
ブンブンと虫が飛んでいるからだ。
歩きながら木の様子などを探る。
木の実でもなっていないだろうか?
それでも、30分ほど歩いたと思う。
「いや~マジで、人家がないとヤバいんですけど……」
さすがに私も焦り始めた。
これじゃ完全に遭難だ。
だって、なにも持ってないし。
焦った私は、大声を出していた。
「あの~! 誰かいませんかぁ!」
返事がない――ただの屍のよう――とか冗談を言っている場合ではない。
「はぁ! マジでぇ!?」
私は、その場に腰を下ろす。
ウ○コ座りである。
どうせ人目はない。
ぐったりしながら今までの生活を振り返る。
ブラックと遭難。
どっちがマシだろうか?
どっちもどっち――と言いたいところだが、ブラックが駄目なのは解りきっている。
それに引き換え、こちらはまだ結論が出ていないじゃないと思う。
ここから、素敵な出会いが待っているかもしれないし。
などと、アホなことを考えていると、草むらがガサガサと鳴った。
「ひぃ!」
驚いて飛び上がる。
「あの! 誰かいるんですか!?」
私の言葉に反応したのか、長い草を分けて黒いものが顔を出した。
「にゃー」
「ね、ねこぉ?」
毛並みのいい真っ黒な猫が、じっと私の顔を見ている。
「にゃー」
「あ、あなたは、どこの子なの?」
エメラルド色と黄色の宝石のような目がキラキラと綺麗だ。
猫は私に興味がないのか、その場を離れ始めた。
「あ! ちょ、ちょっと待って!」
人馴れしている感じからして、飼われている猫に違いない。
猫について行けば民家にたどり着けるかもしれない。
私は黒い猫について、樹の下を歩いていった。
黒い毛皮のあとを追って、背の高い草むらの中に分け入る。
立っていると彼の姿が見えないので、這って進む。
後ろから見ると、黒いお稲荷さんが揺れているので「彼」で間違いない。
これで走られでもしたら、すぐに見失ってしまうだろうが、猫はゆっくりと進んでくれている。
私のことを案じてくれているのだろうか?
草むらを出ると森の中を進み、倒れた丸太でできた橋を渡って小川を渡る。
水は澄んでいて、とても綺麗。
飲みたくなるが生水は危険だ。
ぐっと我慢。
水の中にキラキラとなにか光って動いているものが見える――魚だ。
小川の脇には、なにかふわふわしたものが並んでいる。
たんぽぽの綿毛みたいだが、もっと密度が高く、本当の綿のよう。
「へぇ~」
見とれていると猫に置いてけぼりを食らいそうになり、慌てて彼のあとを追いかけた。
猫の後ろを歩きながら、ふと右手を見ると――木の間に白っぽい動くものが見える。
近寄ってみると、その正体が解った。
それは灰色でふわふわした毛皮を持ち、大きな耳をしたウサギ。
黒い大きな目がこちらを見ている。
「かわいい!」
普通のウサギと違うのは、頭に1本白い角らしきものが見える点だろうか。
私は、丸いふわふわに手を伸ばす。
「ギッ!」
灰色のぬいぐるみの目が突然赤くなり、白く鋭い牙をむき出した。
「ひっ?!」
「ギィィ!」
敵の角によって上着の左肩が大きく破ける。
突然、ウサギがジャンプして私に襲いかかってきたのだが、かろうじて攻撃を躱したのだ。
「ちょっとなんなの?! ウサギってこんなに凶悪だっけ?!」
角の生えたウサギとにらみ合いをしていると、私の前に黒いものが立ちふさがった。
「フシャァァァ!」
あの猫が、全身の毛を逆立ててウサギに向かって威嚇をしている。
そのまま数分にらみ合いをしていたのだが、ウサギはプイと振り向くと森の中に消えていった。
天国には、角が生えて人を襲ってくるウサギがいるのだろうか?
「た、助かったぁ……あ、ありがとう……」
私は彼に礼を言ったのだが、まったく興味がないのか、すぐに目的地に向かって歩き始めた。
立てた尻尾をプリプリと振って、足手まといの私に苛立っているようにも見える。
「ごめんね……」
「……」
私は、なにも言わない猫のあとを追いかけ――ヘトヘトになりながら1時間ほど歩く。
どこまで行くのだろうと思っていると、草原の向こうに小さな木造の家が見えてきた。
「凄い! 家だぁ! あなたは、あそこの家の子なのね?!」
猫について家の所まで行く。
黒い木製の柵に囲まれている小さな木造の家。
赤い三角屋根の上には石造りの塔のようなものが立ち、壁には板材が鎧張りにされている。
庭には沢山の植物が生えているのだが、草がボーボーで手入れされているようには見えない。
伸び放題の中には野菜もあるようだ――家庭菜園だろうか?
猫が柵の下を潜ったので、私も柵についていた扉を開けて中に入った。
「う……」
一瞬めまいのようなものを感じてちょっとよろめいたのだが、すぐに直った。
庭は鬱蒼といろんなものが茂っていて、かなりの時間手入れがされていないように思える。
野菜なのか雑草なのか、よく解らない。
見たことあるような、ないような色とりどりの花も咲いている。
庭の隅に、屋根がついた石造りの井戸のようなものが見えた。
「井戸かぁ――あれ?」
庭を見ていたら、猫がいないことに気がついた。
まぁ、いいだろう。
人家を訪れるという私の最初の目的は、彼のおかげで達成された。
感謝しなくてはならない。
おまけに、危ないところも助けてもらったし。
私は、板でできた小さなドアの前に立った。
ドアノブではなく茶色で金属製の取っ手がついている。
そのドアをノックする。
「こんにちは~!」
なん回か呼びかけてみるが、返事がない。
私は、ドアの取っ手に手をかけてみた。
手前に引くと開いたので、鍵はかかっていないらしい。
扉をそっと開けて、中を覗く。
「こんにちは~」
中は薄暗く、小さな木製のテーブルが見える。
窓ガラスからは光が差し込んで、床の一部を照らす。
私は迷ったがドアを開けた。
白く埃を被った板張りの床に、小さなテーブルと小さな椅子。
そこは台所のようだった。
「はわ~」
コンロなどはなく、石造りのカマドがある。
そういえば水道もないが、外に井戸があったので、それを使うのだろうか?
天井を見ても電灯などはなく、ランプらしきものがかかっていた。
外にも電柱らしきものはなかったから、電気も通っていないのだろう。
「かわいいかも……小人のお家みたい」
床やテーブルの上には埃が溜まっており、この家がしばらく使われていないことを示していた。
「悪いけど、ここをちょっと使わせてもらおうかな。とりあえず雨風は凌げそうだし……」
持ち主が帰ってきたら謝ることにしよう。
框はないので、土足の家らしい。
私は少しかがむと、ドアをくぐった。
これは注意しないと、毎回頭をぶつけそうだ。
ここの住人は背の小さい人らしい。
単に私がデカいだけって話もあるんだけど……。
部屋の中に入ると、まず天井が低い。
私の背が高いせいもあるのだが、手を伸ばすと天井に手が届く。
辺りを見回すと、棚には皿やカップなどがあり、なにかの壺も並ぶ。
鍋もあるのだが分厚くて黒い鉄製――なにもかも埃まみれだ。
「へぇ~、とりあえず掃除をしたいかな?」
玄関から右手に緑色のドアが2つ。
右の玄関に近いほうを開けてみた。
物置のようでホウキや雑巾、ハタキらしきものが入っている。
「よし!」
私は上着を脱いで椅子にかけ、腕まくりをすると窓を開けた。
窓もサッシなどではなくて、木枠に波打っている分厚いガラスがはまっている。
鍵は枠に木の棒を差し込むタイプ。
そういえば、玄関の扉も裏側には閂がある。
これではセキュリティが心配になるが、誰も人が来ない場所なのだろうか?
私は、物置からホウキを出すと、床を掃き始めた。
もうもうと白い埃が舞い上がって、窓から入ってくる光の筋ができる。
「ゴホッ! すごい埃!」
戸棚から布巾らしきものを出すと、口に巻いた。
掃除するなら上からやらないと駄目か。
ハタキも取り出して、パタパタと埃を窓と玄関から追い出していく。
多少マシになったので、私はもう1つのドアを開けた。
そちらはもっと薄暗く、天井から沢山の茶色のものがぶら下がっている。
どうやら乾燥した草らしい。
「なにこれ? 薬草かなにか?」
意味もなく、こんなことをするはずがない。
ガスも水道も電気もないってことは、薬もないってことなのだろう。
そうなれば、こういった薬草に頼らざるを得ないはず。
「いうなれば漢方よね。日本だって、ドクダミとか、ゲンノショウコなんてものがあるし」
垂れ下がる薬草の下には、赤い毛布を敷いたベッドがあった。
壁には本棚と机が見える。
沢山の本があるので、この家の住人は読書家らしい。
下を見れば、台所と同じように白い埃が積もっているが、一部だけ綺麗になっている場所がある。
それを目で追っていくと、小さな赤いベッドの上に、あの黒い猫が寝ていた。
やっぱり、彼はここの住人らしい。
「ここまで案内してくれてありがとう。危ないところも助けてくれたし」
もしかして、これが素敵な出会いってやつ?
私は彼に手を伸ばした。
黒い毛皮をなでたくなったのだ。
「フシャァァァ!」
猫の突然の威嚇に私は、慌てて手を引っ込めた。
「そ、そんなに怒ること、ないじゃない……」
私は、彼の冷たい仕打ちにしょんぼりとして、床にある彼の足跡を目で追っていった。
その先には扉が開いていたので、そこまで行くと中を覗く。
色々なものが詰め込まれていたが、その奥に上に登る階段を見つけた。
どうやら、猫はここから出入りしているらしい。
一部分だけ埃がない階段に足をかけて、上に登る。
そっと顔を出してみると、そこは屋根裏部屋。
おそらく、普段使わないような荷物が押し込められているのだろう。
「お~、憧れの屋根裏部屋ぁ!」
なぜか、屋根裏部屋ってのは心を惹かれる。
秘密基地が好きなのは男の子の特権とか思っているだろうが、こういうものは女の子だって好きなのだ。
目線の正面には、さらに屋根の上まで伸びるハシゴが立っている。
猫の足跡はそこまで続いているので、多分ここから出入りしているのだろう。
あれだけたくましい彼のことだ、食料などは外で自足しているに違いない。
そういえば、寝室にも猫のトイレらしきものがないし、においもしない。
用を足すときは、ここから出て外でしているのか。
随分と賢い猫である。
私もハシゴを登ってみて、頭だけを出してみる。
プラプラと稼働する小さな扉がついており、猫はここから出入りしているらしい。
そこを開けてみると、屋根の先には家の隣に生えた木が見えた。
あの木を伝って、ここまで登ってくるようだ。
屋根の端っこには、煙突か通風孔のような塔が見える。
カマドは台所だし……いったい、なんだろう?
「も、持ち主が帰ってくるまで、この家を借りようかな~」
ちゃんと掃除して、庭も綺麗にしてあげれば、許してくれないかな?
もちろん罪悪感はあるが、ここがどこだか解らないし、自分のアパートに帰ることができるかも解らない
寝室には本があったので、あれを読めばここの情報も得られるかもしれないし、他に行く場所がない。
森の中でウロウロしていたら餓死してしまうだろうし、さっきのウサギみたいな凶悪な生き物もいる。
とりあえずの住まいは、ここしかないのだ。
見たところガスも水道も電気もないが、あのブラック企業で働く選択よりはマシに思える。
あんな糞会社なんて辞めるつもりでいたし、それがちょっと早まったと思えばいい。
住めば都って言葉もあるしね。
――なんて考えたのだが、私だって少し能天気なのは理解している。
ブラックから逃げ出したいとか思っているところに、こんなことになって、少々ハイになっているようだ。