シンラ第1話part.3
まだ朝であるのに、既に一日を終えたかの様な倦怠感と疲弊が我が身を襲う。
道行く人は平然と歩き、自分だけが変に汗ばんでいる。周りの姿を見てどうにか平然を保つ。
雑念を払い、歩くことに専念する。このまま慌てふためいた姿で会社に向かうなどそれこそ笑い者だ。
深く息を吸い、ゆっくり吐く。心を落ち着かせる時にする呼吸法。
そうしていつも緊張を解していた。少し前の、学生だった時を思い出す。
下らないことで笑っていた時、明日になれば忘れそうな他愛も無い話。思い起こすだけで笑えてきた。
気付けば、さっきまでの暗雲が消え失せていた。思い出が俺の背中を押す。一体、何に悩んでいたのか。思い出こそ、原動力ではないかと思えたりした。
足取りが軽くなり、いつもの調子に戻る。目的地までもう直ぐそこ。スーツを着た群衆が、同じ方向へ向かう。きっと此処の誰かが、上司になるのかと考えると緊張してくる。
「おはよーう」
後ろから女性の声がする。仲間に挨拶をしてるのだろう。
「おーはーよーおー」
声が近づく。耳が遠いのだろうか?
そういう事もあるだろうと気にせず歩く。すると後ろから、指でつつかれる感覚がした。
「ヒャわ!」
思わず情けない声が出てしまった。咄嗟に振り向く。
後ろには少し小柄な女性がいた。
「もう、挨拶したら返さないと駄目だよ?」
「え、あ、ハイ、スイマセン」
「フフ、おはよう」
あまりにも気さくで、以前に何処かで会ったかのような感覚がした。けれど身に覚えが無い。
自分よりも背が低く、長髪が風に揺れる姿が美しくて、見惚れてしまった。笑顔がとても輝いて見えてしまった。
「君、もしかして新入社員?」
何故、見抜いた?
「そうです。大空壱斗です。宜しくお願いします!」
勢いで大きく一礼してしまう。平常心を装っている振りをして、緊張は抜けていなかった。
「うん! よろしくね壱斗クン!」
満足したかの様に、また後でと、手を振りながら先に行った。
そう言えば、名前聞いてなかったな。
ふと我に返り、会社へ向かう。それでも、あの人が忘れられなくて、どこか穴が開いた様な感覚を覚える。
・・・・・
目の前の広場の先には、巨大な建屋が佇む。それこそが、俺がこれから入社する企業。シンラ運用組織ABSなのだ。
工場と事務所を併設してる建屋は、見た所でも百メートルを超す長さと、ビル六階分の高さ。中心にはドーム状のホールが設けられてる正に巨大施設。
周囲にはボイラー施設の様な装置が忙しなく稼動しており、交代制の職員が奔走する。
琉戸市で最も規模が大きく、琉戸市そのものを管理していると、言っても過言ではない。この街の生命線ABS。
市民の生活が、この場所によって成り立っていると考えると、思わず生唾を飲み込んでしまう。
会社を前にして気後れしそうだが、足だけは前に進めて正門に入る。
正門を抜けると、入場ゲートが待ち構えている。
床に敷かれた黒い板を踏み越えるだけで、認証するタッチフリー式のゲート。
逐一カードを取り出す必要も無く、持っているタグを、センサーが認証するだけの利便性を得た。これも一重にシンラが生み出した功績である。
周 り の 流 れ に 合 わ せ て 、 通 過 し よ う と す
る が 、 踏 み 越 え る と 同 時 に 警 報 が 鳴 り 響 く 。
「 え ぇ っ ? 」
すると、警備員の人に押さえ込まれ、犯人を捕らえたかの様に引きずりだされた。
「不審人物! 不審人物侵入!」
「待って! 俺、新入社員だから!」
「言い訳は中で聞こうか! 朝の混雑に紛れ込んで入ろうとした盗人め!」
「本当だってばああああああ!」
聞く耳持たずに、奥へ奥へ追いやられる。流石に不味いと思った時に。
「君、壱斗君じゃないか?」
「社長?」
警備員の動きが止まり、身体の拘束が解かれる。痛みに応えながら、声の方に振り返ると、スーツを着た風格の良い人物がいた。
「やぁ、壱斗君だね?」
「ハイ、そうです」
ニコリと笑うと、突然に警備員へ鋭い目線を刺す。すると警備員は、すみませんでしたと深く頭を下げ、定位置へ素早く逃げる。
突然の出来事に頭が真っ白になる。初日から、とんでもない事をしてしまったと脚が震える。終わった。完全に終わった。
頭も回らず、開いた口も塞がらない。きっと、見るに耐えない表情をしているんだと自分でも分かる。
「どうしたんだい? まずは落ち着こう」
「え、あ、ハイ」
なんとかして平常心を保てる様に、深呼吸をする。落ち着け、落ち着け。
次第に心が落ち着いて来て、目の前にいる男を見据える。
高身長で、スーツを着ていても分かる程の体格の良さに威圧感さえ覚えてしまう。年齢を感じさせない丹精な顔立ちと、ほんのり香る香水が、他とは違う特別な人物であると証明している。
「申し遅れたね。私は月山見遠。この会社の社長だ」
目上の人であるにも関わらず、深々と頭を下げる。丁寧な口調と作法に、分け隔て無く接する事が出来る人だと思えた。
「大空壱斗です。宜しくお願いします」
こちらも、すかさず挨拶をする。こうして社内でやり取りをする光景に、社会人らしい雰囲気を感じた。最も自分だけなのかもしれないが。
「突然の事で驚くのは当然だよね。ただ、今日は此処じゃなくて違う入り口から入る予定なんだよ」
「え、嘘」
慌てて、鞄に入ってた書類を取り出す。文面に”初日は、裏口から入るように”と記載されていた。南無産。
「わ! す、すみません!」
何度、謝罪をすることか。赤面して顔を見せるのが恥ずかしい。
「いやいや、これだけ広い敷地だ。誰か一人迷う事もあるだろう」
フォローしてくれるのは有難いが、裏口までの地図も記載されてる親切心すら、気付かなかった。
大切な所を見落とす視野の狭さは、自分の短所と分かってはいるが、こうも過ちを犯してしまうと、自分が許せなくなってしまう。
「まぁ、時間も迫ってる事だし私に付いて来てくれ」
「はい」
覇気の無い声で、渋々と月山に合わせて歩く。
付いて行くと、月山が壁際のドアロックに手をかざし、顔を近付けて認証する。ガチャリと解錠される音が鳴り、壁が大人一人、入る位の高さで開かれる。
通路にしては無駄に厳重で、小さい入り口に疑問を抱く。社長専用通路なのだろうか?
コツンコツンと足音だけが木霊する、人気の無い真っ暗な通路。足元の照明だけが唯一の灯りで、まるでお化け屋敷かと錯覚する。
「壱斗君、そんなに落ち込むことは無い。ましてや、逃げずに私に付いて来てこれてるんだから、立派だ」
突然話しかけられ、ビクリと震える。その月山の冷静な見振りから、この道に通い慣れているのだろう。
「すみません」
謝ってばかりだ。
「今日は来てくれて有難う」
「え?」
急に声色を変えて語りかける。さっきまでの丸みのある声では無く、何か真面目な話をする様な声。
「正直な所、恐れ負けて逃げるのでは。と考えてた自分もいた。けれど違う。覚悟を決めた上で此処に来ている。それだけでも凄い事なんだよ。胸を張りたまえ」
これまでの失態を癒してくれる様に語りかける。それも有るけれど、この話はもっと大事な、此処にいるそのことが、本質的な意味合いにも感じ取れた。
「その為に来たのですから」
「そりゃそうか」
安心した様に月山が笑みを見せる。
そうだ。だから此処にいる。理由も無しに就職するなど、有り得ない。それ故、俺の思いが、社長に伝わった気がして自信が持てた。
「そろそろ出るぞ」
月山が言うと扉が開き、光が差し込む。
扉の奥には、オフィス通路が広がっており、どうやら抜け道を通ってきたそうだ。
「ほら裏口まで一瞬だ」
どう返したら良いか分からず、苦笑いしてしまう。
技術の無駄使い、悪く言うと職権乱用。社長の遊び心を許容する会社なのかと、呆れてしまう。
続