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泥鎖のサーペント

 人は想像もつかない事が起こると、ピタリと動きが固まってしまう事がある。今の僕達がまさにそうだ。


 大蛇の赤目の口から吐き出された人間は"泥の上"に立つと、フードの付いた丈の長いローブを脱ぎ捨てた。


 アシンメトリーの前髪がフッと揺れる。長い方には一束、赤く染めた毛が見えた。その奥からはクッキリとした目がこちらを順番に見ている。


 短いスカートから伸びた足は、ゴツゴツとしたベルトとの対比も相まって非常に細く、長く見えた。シャツの裾は破れ、ところどころに血のような模様が付いている。


 暗闇の中でもよく分かる美人だ。しかし、どこか恐ろしさ、近寄りがたさを感じるのは、彼女の目付きが多少キツイからだとか、服の趣味の問題などでは無い事は確かだ。


「だから、聞いてんだけど? 」

「……はっ」


 息をするのも忘れていた。脳が情報の整理を急ピッチで進め始める。赤目から出てきた人が、話しかけて来た……? なぜ赤目から人が? なんで泥の上に立てるんだ?


「僕は、明里草を取りに……」

「ああ、目ェ慣れて来た。キミか」


 ぼんやりと僕達を見ていた彼女が真っ直ぐに僕を見据えた。どういう事だ? 僕は彼女を知らない、それは間違いなく言える。それなのに、彼女は僕を知っている?


 予想外の事態は、任務にはつきものだ。そして、その状況に陥った時の判断は経験がものを言う。その点、ベテランは速かった。


 一瞬赤い光が走り、ほぼ同時に空気を引き裂くような轟音がした。


 僕が瞬きをする間に、サキは跳んでいた。真夏の真っ黒な雨雲の中で、雷がジグザグと気ままに走るように、サキは赤目の胴体を避けるようにして残骸をいくつも蹴り、泥の上の女性の懐に潜り込んでいた。


 斜め上からの一撃、牽制(ジャブ)は要らない。渾身の右ストレートは、女性のすべすべとした頬をーーー


「……人が話してる時はいい子で待ちなさいって、ママに教わらなかった? 」

「チッ!! 」


 ーーー捉えなかった。サキが殴り抜いたのは、突如として立ちはだかった泥の壁だった。鈍い手応えと共に、握りしめた拳がズブズブと飲み込まれていく。


 サキは拳が完全に飲み込まれる前に、片脚を上に振り上げてその反動で飛び上がった。斜めになった桟橋のようにそびえる柱の上に戻るには少し足りず、その端に辛うじて右手で掴まった。


「レイ! コーディ! シャキッとしなさいよ! 」


 ここまで僅か数秒、その間に一瞬の攻防が繰り広げられた。コーディの方をチラリと見たが、彼もまだ混乱しているようだ。


 泥の壁がどろりと溶けると、女性は泥の上を悠々と歩いて、瓦礫の一つに腰掛けた。


「で、ここの草が欲しいんだっけ? 」


 長い足を組み、彼女はコーディの方向へ手をひらひらと振った。



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「ちくしょ、ばっちりバレてるってわけかぁ」


 デンデンの影に伏せていたノノは、ピンとまっすぐ伸ばしていた右指で悔しそうに頭をかいた。


 デンデンで待機していたノノとデンゾウは、赤目の霊獣(アニマ)が出現した直後、全力で後退した。そしてノノの言う通り、ヌルヌルとした身体を貝殻にしまわせて、その物陰に隠れていたのだ。


「お、おい嬢ちゃん。こりゃあ、一体……」

「コーディの後ろに隠れられた。これじゃ狙えないや」

「じゃなくてじゃ! 」


 デンゾウもまた薄くなった頭を掻きむしった。大量の赤目の中を突っ切って来た事もあって、些か感覚が麻痺しているのか、ある種の冷静さを持ってノノに尋ねる。普通ならば驚きで言葉を失うか、現実逃避を始めるのが当然だろう。


「あやつは何者で、なんで赤目から出てきて、それで……」

「なんにもわからないや、気になるなぁ。ただ一つ分かることは……」


 ノノはペッタリと張り付いた前髪をかきあげ、流れる汗を袖で拭った。


「あいつはステラ使いだよ。おまけに、とびきり強い」


 --------------------


「ふーん。おかあさんがねえ」

「そうなんだ! だから、その薬草が必要で……」

「それでどうしても欲しいってわけだ」


 意外にもその女性は、僕の話を聞いてくれた。見たところ、普通の人間と何も変わりない様子で、うんうんと頷いている。


「レイ、そいつと喋る事なんかないわ」

「そいつ呼ばわりはシャクだなぁ。さしずめ……そうだ、サーペントと呼んで。……プッ、だっさいなこれ」


 サーペントは自分で吹き出しながらも、目は決して笑っていない。閉じる事なく各方向を見ている。だからサキもこれだけ敵対心を剥き出しにしていながら、迂闊に手を出せないのだろう。コーディもまた同様に、その場から動けないでいた。


 何より蛇の赤目が、逃げ場を塞ぐようにとぐろを巻き始めた。にも関わらず、こちらに攻撃のそぶりは見せない。そしてもちろん、サーペントにも攻撃しない。赤目は誰彼構わず襲いかかるんじゃなかったのか?


「赤目の中から出て来るなんて、普通じゃないわ」

「へぇ。あんたらは普通だっていうんだ? 」


 サキは言葉に詰まった。僕も言い返せなかった。ハッキリと線引きをした事なんてなかった。普通って、なんだ?


「お前……赤目の、仲間なのか! 」


 コーディがそれを断ち切るように問う。震える声は、怒りからか、恐怖からか。


「まさか! 一緒にしないで欲しいな」


 トッと、サーペントは立ち上がった。長身を大きく逸らし伸びをする。破れたシャツの裾から、小さなへそが覗く。


 彼女が立ち上がった事で、視点が少しだけ上に向いた。そこで僕は違和感に気づく。東の空は、もう既に白んでいた。暫く残骸の上から見下ろす態勢だったので、今の今まで全く気が付かなかった。もう日付が変わって暫く経っている。既に今は、早朝と呼ばれる時間帯になっていた。


 サーペントの背後から、太陽が顔を出そうとする。一瞬、ほんの一瞬だけ目が眩んだ。


「これは渡す気、ないよ! 」


 ベテランは、速かった。


 サーペントは、一瞬にしてサキへ距離を詰めた。盛り上がった泥を階段のようにして、サキのいる残骸へと飛び乗ったのだ。あまりに自然な動きで、なおかつ急に見せた俊敏な動き。そして朝の日差しも相まって、三人とも対応が遅れた。


「サキ! 」


 踏み出した僕の前を、蛇の赤目が横切った。胴体で壁を作るようにし、ぐるりと反転して牙を剥く。時間の経った血のように赤黒い口に噛み付かれまいと、僕は後ろに飛び退くしかなかった。


 分断された。


 赤目は狙いをつけるようにしてこちらを睨みつけている。コーディと僕とを交互に品定めして、首を構える。どちらが美味しそうか、と考えているわけはあるまい。


「コーディ! 慎重に行こう……」

「ぁぁあああ!!!! 」


 コーディは僕の声が耳に入る前に、雷を投じた。弧を描いたステラは、赤目の胴体へ打ち付ける。狙いを定めていた口は、やはりというべきかその瞬間に襲い掛かって来た。


 絡みつくように、しつこく、粘っこく、コーディへ噛み付く。体の小さなコーディは、残骸から残骸へ飛び移るのに助走がいる。何度も避け続けられない。


「っ! 」


 僕は急いで飛び移った。目掛けたのは残骸ではなく、赤目の胴体。やたらと長いのが幸いして、目測はつけやすかった。


 跳んだ瞬間、ゾッとする寒気を感じた。この感じは覚えがある。案の定、左から尾が飛んできた。


 空中で軌道を変える事は不可能だ。だが、予測していれば対処はできる。僕は既に剣を振る態勢に入っていた。


 右から左の下へ向けて、体の捻りを加えて振り切る。岩から飛び降りながら剣を振る練習なんて、役に立つのかと常々思っていたが、ザジに文句を言わずに正解だった。


 迫り来る尾を斬り払い、勢いを殺さずに赤目の背に乗る。靴越しにも伝わってくる、ヒンヤリとした感触。剣を突き立てようとしたところで、胴体がぐるりと回転しようとする。


 バランスを崩した僕はなんとか胴体を蹴り、別の足場へと剣を突き立て着地した。


 朝日が徐々に昇っていく。


「薬草は、目の前なのに!! 」


 --------------------


 サキは、サーペントと対峙していた。赤目の巨大な胴体の向こうで、叫び声とステラの音がする。


「適当に遊んでてくれるといいな、死なない程度に」

「あんた、一体なんなのよ」


 サキは左手を大きく前に出し、構えを取る。サーペントは、気だるげに立っているだけだ。普通なら、サキが一発入れておしまいの筈である。それなのに、彼女は動けないでいる。それ程までに隙が感じられない。そして先の攻防から、隙が本当に隙なのかすら分からなくなっていた。


「何って……。私からしたら、あんたの方が何者か聞きたいね」


 小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、首をかしげるサーペント。ドロリドロリと、泥が彼女の周りに集まっていく。


「ステラ使いという事を勘定に入れても、驚異的な身体能力。赤い雷。それに微かに霧の匂いもすんなぁ……おまけにさ」


 スッとサーペントは革のジャケットのポケットから、何かを取り出して見せびらかした。


「こんな物まで、持ってるんだもの」


 昇り始めた朝日に反射して輝くのは、他でもない。ネロから受け取った、謎の金属板だった。


「……⁉︎ 」


 サキは慌てて上着の内ポケットをまさぐるが、無い。サーペントの握っている物は、間違いなくサキの物だ。


「こんなん持ってるなんて、まあー普通じゃないよね」


 朝焼けに、雷鳴がこだまする。サキの拳が、もう一度唸った。泥の壁はまた現れたが、今度は貫いた。が、既にサーペントは三歩は離れたところに居る。


「あっぶな。ホント、話聞かねえ」

「あんた……! それがなんだか、知ってるのね……! 」


 ドロリと崩れ始めた壁を蹴り飛ばして、サキは稲妻を四肢に纏う。


 こいつはロディを救うのを邪魔しようとしている。それに加えて、ずっと探し続けた手掛かりの糸が、漸く掴めた。そして今、その先が見えようとしている。しばき倒す理由は、それだけで十分。


「それ返せ! 教えろ! そんで、そこドけ!!!! 」

「ハハ、やってみなよ。得意の暴力でさ! 」

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