願いのカタチ4
「なんだ……こいつ……」
空気の澄んだ山間に位置するこの村では、星がよく見える。いつもならこのように夜にふらっと家を出ると、星たちの輝きが飛び込んでくる。しかし今日は違った。家を飛び出した先でレイの目に入ったものは、黒い塊だった。
泥とも油ともつかない、ぬめり、そして爛れた巨大な塊から人の腕が二本、虚空を掴むように伸びている。力なく伸ばした腕の間には大きな赤い目玉が一つ。絞り出すような、人のものではない呻き声を上げ、ゆっくり、ゆっくりと彷徨う。その塊が通った後には、暗い炎が燃え移っていた。怪物は突然現れ、そして歩き始めただけで、村を一瞬にして恐怖に陥れた。それはレイとて例外ではない。
「う……!」
動けない。体が恐怖に凍りついたように固まってしまう。いや、少し違う。レイの手足は本当に氷に覆われつつあった。彼自身の恐怖のアルマが、一瞬にしてレイの枷となったのだ。
悲鳴をあげ逃げ惑う村人達、着の身着のままで家を飛び出し走り出すもの、つまずくもの、子を抱いて走るもの。その中で、ただ一人仁王立ちするものがいた。サキだ。
「大丈夫! 落ち着いて離れて! 出来るだけ村の端まで! 早く! 」
逃げ惑う人々の中でただ一人逆を向いて立っている。レイはハッとなり、手足の氷が砕ける。未だ続くめまいの中、サキの元へ駆け寄った。
「何してるの! あいつこっちに来てるよ、早く逃げよう! 」
「レイ? 何ぼさっとしてるの、アンタも離れてて」
「何言ってるんだよ! とにかく、行こう! 」
そう言ってサキの腕を掴んだレイの手は、バチッと大きな音を立てて弾かれた。
「痛ッ! 」
「早く行って! アタシ、加減苦手なんだから……ッ! 」
サキの目は、確かに怒りに燃えていた。バチバチと音を立て、サキの中から何かが溢れ出す。衝撃にたまらずレイは後ずさった。ガタガタと家屋の窓が揺れる。
力だ。人の内から溢れ出す力、アルマ。しかしこれは明らかにアルマとは一線を画している。それはっきりとした色を持って、少女を取り巻いていた。
「こんなとこにまで湧いてきて……! この野郎!!!! 」
次の瞬間、サキが前方に跳んだ。蹴りだした地面が抉れ土埃が上がる。それをレイが視認した時、サキの拳は怪物の体に風穴を開けていた。恐ろしく速い一撃だ、レイには見えなかった。残った赤い軌跡のみが、そこをサキが通過していったことを示していた。
「デカイ割に、随分手応えがないじゃない! ……ちっ」
サキは軽快に距離を離し舌打ちする。怪物の土手腹に空いた穴はみるみるうちに塞がり、怪物が何事も無かったかのように動き始めたからである。
「んなら細切れに! 」
サキはもう一度、突撃して突いた。突いて蹴って薙いで打った。しかしその度に怪物はピクリと動きを止めるだけで、抉れた体はみるみる元どおりになっていった。
「クソ! なんだこいつ! 」
「う、うわぁぁぁぁ」
悲鳴にサキは、怪物を視野から外さない程度に振り向いた。レイのものではない。レイも声の方を向いている。逃げ遅れた村人の元に黒い生き物が迫っている。宙を舞うそれは数本の触手を持っていて、まるで海に生息する軟体動物のようだ。体には赤い目が一つ。人の赤ん坊程の大きさのそれは村人に襲いかかってるように見えた。
サキはちらりと巨大な怪物の方をみた。反撃してくる様子は見られない。踵を返し、村人の元へ駆けつけ黒い物体に強烈なフックを叩き込む。不意の一撃を受けた怪物は吹き飛ばされ、潰れたような声をあげ霧散した。
「早く離れて! 急げ! 」
「サキ! いっぱい来る! 」
村人を立たせて走らせたサキがレイの声に振り向くと、巨大な怪物の後ろから先ほどの軟体動物もどきが複数押し寄せてくるのが見えた。
一、二、三、……数にして二十程の群れが、宙を泳いで飛んでくる。幸い速度はあまり速くない。
「レイ! アンタも離れてって! 」
「で、でも! 僕だけ何もしないわけには! 」
ちっ。サキはもう一度舌打ちして巨大な怪物の方を見た。まだ大きな動きはない。
「この赤目の霊獣達を、ここから向こうには行かせないで! 向かってきたら……しばき倒して! 」
「あ、赤目の霊獣⁉︎ 」
レイの返事を聞く前に、サキは赤目と呼ばれた物を潰し始めた。一瞬で接近し、殴りつけていく。
「これが霊獣だって……? 」
レイは今まで霊獣は目にしてきたが、大抵ただそこに居るだけのものであって、人に干渉して来るものは少なかったはずだ。
「こんなのが……」
「来るぞ! 」
レイの前方の赤目が、速度を上げてレイに迫る。敵意を撒き散らすそれはおぞましく見えた。空気と体が重くなり、緊張感が張り詰める。
「やるしかないのか……! 」
レイは戦闘はおろか喧嘩もしたことがなかった。しかし皆のためならば、体が自然と動いた。迫り来る赤目を掴んで押さえつける。触手がレイの腕に絡みつく。それは冷たく、嫌な音を立てながら這い上がってきた。
「この、この! 」
振り払おうとするレイの横を、いくつも赤目が通り過ぎていく。このままでは奥に逃げた村人のところへ行ってしまうだろう。サキは少し離れたところで戦っており、間に合うかどうかはわからない。
その時、巨大な腕が振り下ろされ、赤目が数匹嫌な音を立てて潰れ霧散した。先ほどまで動きを見せなかった、泥の塊のような巨大な赤目のアニマの腕だった。巨大な赤目はもう一度腕を振り下ろし、さっきよりも多くの小さな赤目をぺしゃんこにした。オオオオと巨大な赤目の霊獣が雄叫びをあげる。
「助けてくれた……? 」
「こいつはどういう…、もう直ぐ終わるから、レイは耐えて! 」
「わかった! 」
しかし突然の加勢に気を取られたレイは、背後からの襲撃に気がつかなかった。レイの背中に体当たりした新たな赤目はレイをつんのめらせ、押さえ込んでいたもう一匹と合わせてレイの体の自由を奪った。腕を押さえつけられたレイはジタバタともがいたが、赤目のアニマは絡みついて離れない。
冷たい腕が気持ち悪い。その腕はレイを求めているようにも、拒絶しているようにも感じた。その間にも小さな赤目の霊獣が村人たちの元へ向かおうとしている。
サキは一匹ずつ、巨大な赤目の霊獣はまとめて小さな赤目アニマを退けている
「やめろ、やめろ! 君たちは……! 」
なぜ人を襲うのか、なぜこの村に現れたのか、目的は全く分からない。だが大切な村のみんなに危害を加えるものをレイは黙って見ている事は出来ない。しかし、レイにはどうする事も出来なかった。
その時、何匹かの赤目の霊獣が、坂を上っていこうとするのが見えた。村長の家の方だ。村長は足が悪い。追われたら、逃げられない。
「ど……どいてくれ! 」
レイが一際力を込めた時、左腕に暖かい感覚が宿った。その暖かさは冷たい触手を弾き飛ばし、怯ませた。右腕も瞬く間に暖かい光に包まれ、へばりついていた怪物を退けた。
「そっちへ行くなぁーッ! 」
レイは走って、家の方に回り込む。暖かい光は棒状に伸び、レイの手に収まっている。
「たあっ! 」
渾身の力で振り下ろした光の棒は、揺らぎながらも赤目の霊獣を捉え、霧散させた。
「ハアッ……ハアッ……い、今のは……?」
手を包む輝きは、徐々に薄れて消えた。
「バカ! どけ!!!! 」
直後、脇腹に衝撃を受けてレイは吹き飛ばされた。内臓が悲鳴をあげ、レイは数秒呼吸が出来なくなった。そして、左前方に積まれた樽がバラバラに砕けており、その中に埋もれたサキがいるのがレイには見えた。血を流している。
そして、右前方にいつの間にか近づいていた巨大な赤目霊獣がおり、レイはようやくサキが赤目の霊獣の殴打から自分を庇ったのだと理解する事が出来た。
「サ、サキ! 」
「が……はっ……。はやく……! 」
地鳴りのするような声で巨大な赤目の霊獣が雄叫びを上げる。二本だった腕はいつの間にか八本に増えていた。不気味に黒光りしていた巨体は、ぐらぐらと煮え泡立ったシチューのように変貌を遂げている。
赤黒く燃える目は大きく見開かれこちらを睨んでいるように見えた。蠢めく腕の一本が風を切って振り下ろされる。レイはすんでのところで右に跳んでかわした。元いた地面が抉れる。しかし怪物は素早かった。バランスを崩して転がったレイが立ち上がった時、もう一つの手がレイを鷲掴みにする直前であると分かった。もう避けられない。レイはあえなく巨大な赤目に捕まってしまった。
「く、クソ……レイ……! 」
サキは立ち上がろうとしたが動けない。防御姿勢をとる事もかわす事も出来なかったため予想以上にダメージが大きい。ここぞとばかりに群がってきた小さな赤目を左手の裏拳で弾き飛ばしながら、なんとかレイを助けようともがいた。
「あ……ああ……」
怪物の体から立ち上る黒い煙が、星空を覆い隠していく。まっすぐレイを見続けている怪物の目は血の塊に見えた。先ほどの触手とは違うとレイには分かった。この赤目の腕は熱く、それでいて冷たかった。
憎悪を感じた。憤怒を感じた。悲哀を感じた。終わる事のない絶望を感じた。どうして私たちはこんなに悲しいのか。お前がいけないんだ、お前が、お前がお前がお前が……。
「うう……ううう……」
レイの目から涙が溢れ出す。感情が溢れてきて、ただただ悲しかった。これは今自分を殺そうとしている、こいつの感情なのか。わからない。ただわからないままレイは泣いた。
「ごめん……ごめんなさい……僕は……」
ドン、と巨体が揺れた。サキがなんとか立ち上がって脚めがけて拳を振るったのだ。先ほどまでの威力はなく、貫通はしていない。すぐに立つ力もなくなり片膝をついた。辛うじて拳だけは構えている。額から血を流し、肩で息をしながらもレイを助けようとしていた。
赤目ははレイを睨みつけたまま、腕の一本を無造作にサキめがけて振り下ろした。このままではまず回避することは不可能だろうと素人目にも分かった。サキも拳をもう一度構える。最後まで戦うつもりだ。
「ダメだーーッ!!!!」
レイが叫んだ。コマ送りのように見えた腕は振り下ろし始めたところでとまった。サキの拳は空を切り、そのまま体はドサリと地面へ投げ出される。レイは、無我夢中だった。ボロボロと泣きながら話し始める。
「ダメだ……こんなのダメだよ…僕が頑張るから、だから……もう一度だけ行かせてくれ……お願いだ……」
赤い目はじっと彼を睨んでいる。赤目は二本の腕でレイをガッチリとつかんだ。
「レイ……おい……」
消耗したサキからは、レイが地面に組み敷かれるのが見えた。しかし体は動かない。赤目の巨体が腕ごとレイを覆っていく。ついにはレイは見えなくなってしまった。
「ちくしょう……」
薄れゆく意識の中でサキはレイのいた場所、赤目の下から光が漏れだすのを確かに見た。次々に光が漏れだしていき、巨大な赤目はその光に貫かれていく。怪物が霧散していく様を薄目でぼんやりと見ていたサキは間も無く気を失った。