急がば走れ
コムリという霊獣がいる。彼らはふいに現れては、不幸に悲しむ者を瞳のない眼で見つめるのだ。
その不気味さから不幸の象徴として忌避されてきた霊獣だが、近年判明したことがある。
コムリが見つめていたのは予兆だったのだ。最悪の結末、その火種となる、小さな予兆だったのだ。
コムリが来たら、そんな悲しみでは済まされないから、覚悟をしておけよ。
と。
「よし、片付け終わり! んぎゃっ」
「いぇーーーい!!! 」
僕は修行を終え、ボッズの手伝いを終え、汗を流した後にこうして共用スペースの片付けをしていたのだ。なんだか今日は調子が良かったので、いつにも増して動きたかった。
そして今は、突然開いた扉から飛び込んで来たユーコに踏み潰され、床に伸びているというわけだ。
「ぴゅーん! 」
「ちゃんと手洗いなさいよ」
「はーーーーーーー………」
ソファに腰掛けていたサキが呼びかけたが、ユーコがはい、と言い終えるよりも、走り去って声が聞こえなくなる方が早かった。
痛くはないが、びっくりした。彼女は神出鬼没だ。慣れはしたが驚かないわけではない。
まったく、彼女のスタミナには舌を巻く。一日中動いていただろうに、まだ元気らしい。あとで人を踏んではいけないよ、と言っておかなくちゃ。
そして遅れて、もう一度扉がスライドした。今度は駆動音も重く、ノロノロと、ゆっくりとだ。入って来たのは、ヴァン。そしてコーディ、ペテ。
「おかえり、どうだった? 」
「どうもこうもないっすよ……」
帰ってくるなり、ヴァンは仰向けに倒れこんだ。腰に下げた空っぽのポーチを放り投げ、両手を上に挙げる。降参のポーズだ。
コーディは首をフルフルと振るった。
「薬草が生えてる場所に近づけなかったんだ。すごい泥沼があってさ」
「泥沼? 」
「うん」
コーディの返事と共に、ペテがコクコクと頷く。
「底なしって感じの、一週間土砂降りが続いたみたいな感じだったんだ。とても進めそうになかったよ。あんなの、あったかな? ああそれと、ヴァンにいちゃんがさ……」
コーディが哀れむような目で視線を落とす。転がっているヴァンを見ると、気分でも悪いのか青い顔をしている事が分かる。そういえば、前もこんな事あったっけ。
「なんだなんだコーディ! お前らだって食えない野菜とかあるだろ! それと同じ! 」
ヴァンは雨などのジメジメした物が体質的に合わないのだ。大きい声を出して悪化したのか、うぷっと口を押さえてうずくまる。
「でも、なんかあそこは違うんすよね……」
ぐっしょりとかいた汗を拭きながら、ヴァンは呟いた。
「雨とかデンデンの方がまだマシっす。なんかあそこは、まとわりつくようなイヤな感じが……」
「ヴァンにいは言い訳長いからなぁ」
「そうそう。潔い方がいいわよ、ビシッとしてて」
集中砲火を受けるヴァンが不憫で、僕はコップに水を汲んで彼に差し出した。
「誰にでも苦手なものって、あるよね」
「レイくぅぅぅん! もう俺の味方はレイくんしか居ないっす! 姉さんの鬼! コーディの悪魔! ペテは……」
ペテはアワアワと両手をバタつかせると、帽子を深く被り直し、臆病な小動物のように走り去ってしまった。
「おいペテー!!! 」
「ペテは急に話振られるの苦手だって、知ってるでしょ」
ワハハと笑い声の響くリビング。ヴァンは顔を洗いに行こうと立ち上がった。サキがなんとなしに尋ねる。
「そういえば、なんの薬草だっけ? 」
「明里草っていう、朝にしか花が咲かないって言われてる草だよ。花を飲み込むと病気を治してくれて、完治すると自分の胸に花が咲くんだって。嫌な気持ちも治してくれるって噂だよ」
「えっ、なにそれ。やばい草じゃない? 」
「あんまり出回ってないけど、昔から使われてるらしいし……多分大丈夫だよ」
指をクルクルと自信なさげに回すコーディ。彼も詳しくは知らないようだ。僕もそんな薬草は初めて聞いた。
「ま、依頼主からの納期にはまだ時間あるし。あそこの泥が乾いたらもう一度行くっすよ。のんびりのんびり、っと」
急がば回れ、という言葉がある。回り道を選んだ方が、かえって早く物事を成し遂げられる、という意味の格言だ。しかし人生においては、往々にして回り道をしていられない場合がある。そして僕たちは、それを思い知る事になる。
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夕食の時間になった。ご飯の時間はいつも楽しみだ。それが美味しいのならば尚更だ。今夜はアーレス、ザジが依頼で出掛けている。ノノは家にいるはずだが、食堂には来ていない。また機械いじりに没頭しているのだろうか。
ロディは家事全般が得意だ。洗濯物は誰よりも手際よく畳み、食事は大人数のぶんを何品目も用意してくれる。そして、手を抜く事がない。それは今日も変わらないはずだった。
しかし、今日出て来たのはどんぶりが各自に一杯だった。それも、彩りの野菜の一つもない。ワガママを言ってるわけではなく、普段のロディからは考えられない。
「ごめんなさいね、ちょっと今日、調子が……」
料理に遅れて、ロディが来る。巨体をフラフラと横に揺らして、食卓に着く。そして器を持つ間も無く、机に突っ伏した。
「オカン? ちょっと最近休めてる? 疲れてるんじゃ……ッ! 」
サキが息を飲んだのは、ロディの逞しい二の腕から黒い紋様が伸びていたからだ。刺青のように禍々しい紋様は、どこか脈打つように動いてるようにも見える。
「ちょ、すごい熱……」
「ダメ、触らないで! 」
ものすごい剣幕で、ノノが扉を開けて来た。ズカズカとロディとサキの間に入り、手に持った鉄のパイプでサキを引き剥がす。
「ノノちゃん……」
「ママは喋らないで。……ごめんね、ちょっと開ける」
皆を遠ざけたノノは襟を掴むと、卓に置いてあったフォークを服に突き立て、引き裂いた。二の腕から首筋、脇から胸にかけて黒く染まった身体は、見知った人物のものでありながら、なんとも言えない不気味さを感じる。
「なんなの、これ……」
「わかんないけど、これやばいな……ペテ! 」
ペテは驚いて飛び上がり、逃げ出そうとしたが、椅子の端を掴んで踏みとどまった。
「今いる中で水系が一番得意なのはペテだ。石いくら使ってもいいから、ママの黒いのを水で流し続けて! 」
椅子をギュッと掴んで、ペテはこくこくも頷き走り出した。
「これ……病気? 」
「かもしれないし、違うかもしれない。でも私の予想が正しければ……これは……ステラによるものだ」
その言葉に、僕は思い当たる節があった。きっとノノも同じ事を考えたのだろう、彼女と目が合った。黒いステラ、僕は見たことがある。アーレスの傷口から出て来た、真っ黒な炎だ。これもそうなのだろうか?
ノノは脈を取るように手首を持ち、患部を慎重に調べる。
「人体は専門じゃ無いんだけどな……。腕から侵食していってる……体の内部にも回ってるぞ。これじゃ切り出せない」
「内部って、どういう事だよ。オカンはどうなっちまうんだよ! 」
「丸一日も経てば、頭か心臓が焼かれる。ステラなら、水で侵食を遅める事は出来るだろうけど……」
ノノは別の机に放ってあった紙を引っ掴んだ。ヴァン達が受けた、薬草を摘んでくるという旨の依頼が書いてある手紙だ。
「……明里草だ。きっとあれならなんとかなる。伊達に高いお値段してない」
「おい。でも、今は夜だぜ? あそこは平原に面してて……」
平原。その言葉を聞いた時、僕の背中に寒気が走った。赤目のはびこる夜の平原。僕にとっては、嫌な思い出だ。
「行くしかないんだ。今の季節なら日の出は早い。最速で行って、日の出を待ってから摘んで帰ろう。それが一番早い」
ノノはテキパキと話を進めていく。既に出掛ける準備は万端なようだ。
「赤目、出るかもしれない。ザジもパパも居ないけど……私の他に、何人か」
「あたし、行く」
ノノが言い終える前にサキが名乗り出た。目を合わせ、一瞬の間が流れる。
「……頼むよ」
「ええ」
そのまま、ノノが視線を僕に向けた。僕の気持ちをノノが汲んだのか、ノノの気持ちを僕が感じ取ったのかわからない。が、やる事は一つだ。出来ることは、やる。
「僕も行く! 」
「助かるよ、お願い。あとは……」
ノノはクルリと皆を見回す。その中で、ヴァンがずいと身を乗り出した。
「俺が! 」
「沼地に行くんだ。どうにもならないでしょ、ヴァンは」
「でも! 」
「ママをお願い。他の子じゃ重くて運べないし」
有無を言わせぬ口調に、ヴァンは頷くしかない。
今もロディは額に大粒の汗を浮かべながら、北風のようにヒューヒューと苦しげな呼吸を繰り返している。こんなにもたくましい身体つきも、今すぐにでも崩れてしまうのではないかと思うほどに、ロディの顔色は悪くなっていた。
僕らが気づかぬうちに無理をさせていたんだろうか。
もっと早く、気付けたのではないか。
誰もが不安だった。誰もが焦っていた。
夜の平原を越えて、その場所に向かったとして、ほんとうに明里草があるのだろうか?
そもそも平原を越えられるのだろうか?
平原を越えて明里草を見つけたとして、それが本当にロディを救ってくれるのだろうか?
身体は準備をしているのに、頭はどんどん黒く重たい思考に取りつかれていく。
ナナユウ村の時のような霊獣によって与えられた不安ではない。
自らの頭から生まれた不安。それはより深く心を縛り重たくしていく。
ロディが、もしいなくなったらーーーー
バシッ!
「わぁっ! 」
背中に感じた痛みに驚いて振り返る。
サキだ。
「大丈夫よ、レイ。あたしがいる。ノノもいる。そう簡単に、死なせないわ」
そう言ってまた僕の背を叩いたサキ。
伝わってきたのは元気ではなかった。僕が今抱えているのと同じもの。不安だ。
彼女もまた、不安を抱えている。身体と、言葉と、心は、必ずしも一致しない。
それでも、やるしかないのだ。
窮地。そしてこれからさらに危険な橋を渡るのだ。夜の平原という危険な橋を。
躊躇っている暇も、橋を叩いている暇もないのだった。
ーーそして僕らの不安が伝わったのだろう。この橋に踏み入るには、あまりにも小さな手が挙げられる。
「お、俺が行く」
手を挙げたのはコーディだった。




