死神
【三番街】
「花園」と呼ばれる孤児院のある三番街は、ラタリアにおいて比較的治安の良い地区として知られている。
しかしならず者達の間では、行方不明者が多発する魔の地区であると、まことしやかに噂されている。
ラタリアの中でも特に暗いある区画、その裏路地に目立たない扉があった。その前に一人立っている男が居る。右腕にバンダナを巻いた男だ。男は深呼吸をすると、意を決したように扉を開けた。
「だ、誰も居ない……? 」
バンダナの男は、ガランとしたアジトを見て呟いた。
明かりをつけると、パサパサしたパンが机の上に散乱しており、食べかけのいくつかは床に落ちていた。部屋は生活感の溢れる散らかりようで、つい先ほどまで何人もの人間がここで暮らしていたように見える。しかし人だけが一人も見当たらない。
「アジトを移した……にしては変、か……」
バンダナの男はガサゴソと部屋をまさぐり始めた。すると家具の裏や机の隠し戸から、盗品であろう金品が出てきた。これらや、ラタリアでは貴重品の食料を残して出ていくはずがない。全員が外出する事も、非合法な組織としては普通あり得ない。
「お守りは、ないな……彼がこんな奴らに接触する前に、僕が掠め取って来るのがベストなんだけど……サ、サキちゃんの、た、頼みだし……」
バンダナの男が顔を人撫ですると、その体はフッと揺らぎ消えた。
「謎あってこその情報屋、だしね」
--------------------
「すげー! レイは上手だなー! 」
孤児院で迎える二日目の朝。ネロの言う期限までは今日を入れて二日ある。レイ達はその間ここに泊まって手伝いをする事になっていた。サキはクリムと、アクシディアに買い出しに出掛けた。
ヴァンから聞いた話だが、サキは赤い牙で受けた仕事の報酬のうち、自分の取り分の大半をこの孤児院に寄付しているらしい。手と足は速いけど、義理人情に厚い姉御、とはヴァンの談だ。
レイを誘ったのも放っておけなかった、という点があるのだろう。ステラの暴走……サキの言葉が脳裏をよぎった。
「あ、レイ、手が止まってるぞ! 」
「ああ、ゴメンゴメン」
子供の声に、レイはハッと我に帰り、目の前の衣服を擦り始める。レイは孤児院の庭で、洗濯をしていた。
子供といえど、食うためには働かなければならない。今日の洗濯当番は、わんぱく少年が二人と、レイだ。ラタリアには、盗みや殺しをしなければ生きていけない子もまだまだいる中で、家族が居て役割があるこの子達は幸せな方なのかもしれない。
「早く終わらせて、本読みたいんだ! 」
「えーアイエルごっこの方がいいって! 」
三人はゴシゴシと汚れた衣服を、ギザギザの洗濯板に擦り付けて洗う。ラタリアではアルマ石は殆ど使われていないそうだ。ラタリア民が購入するには高価である上に、ラタリアで使われたアルマ石はすぐに色が濁って使い物にならなくなってしまうらしい。なので水は自分達で汲んで来なければならないし、火は火打ち石で起こさなければならない。
「そういえばさ、おれこの前かげぼうしさん見たんだー! 」
「えっ、いいなー! 」
聞き慣れない単語に、レイは思わず首を突っ込む。
「……なにさん? 」
「あー、レイはかげぼうしさん知らないのか」
「なんかね、よくわかんない人! 影みたいに真っ黒で顔も形もわかんないんだけど、優しいんだ! 」
「おれこないだ道に迷ってさ、そしたらかげぼうしさんが出てきて、ついて行ったら帰って来れたんだー」
「迷子かよ、だっせー」
そんな人がいるのか。そもそも人なのか? レイは考えたが、子供の話はあっちこっちに飛ぶので、レイは落ち着いて思考する時間を貰えない。
「やっぱうめーなー、レイこれやった事あんの? 」
「ん? ああ、僕の村は田舎だったからね。あんまりアルマ石はなかったんだ」
「へー。アクシディアはアルマ石だらけって聞いたし、こんな事してるのはおれらだけかと思ってた」
「でもレイって、"おぎょーぎ"よさそうだよなー。服だって泥んこにしなそうだから洗濯も楽チンだったろ」
「いや、僕だって君達くらいの時は泥だらけになってたさ。湖に落ちた時は、特に怒られたよ」
はははとレイは笑って、そして一瞬だけ考えた。
僕は誰に怒られたんだ……?
……いや。冷静に考えたら、村長くらいしかレイを叱る人は居ない。何を考えているんだ僕は、当たり前じゃないか。とレイは首を振った。慣れない事の連続で疲れているのかな、と思うと、突拍子もない事を考えた自分がおかしくなって、レイはまた笑った。
「レイは何笑ってんだ? 」
「あ、分かった! サキねえちゃんのパンツ洗ってるからだ! 」
『スケベだ! スケベ! 』
囃し立てられたレイの手元には、いつの間にか可愛らしい白の下着が泡まみれで握られていた。
「あ、いけないいけない」
あわててレイはそれを濯ぎ、洗い終えたものの籠に突っ込んだ。なんだか痛むような気がする頬をさすり、レイは次の洗濯を始めた。
--------------------
夕暮れ時、孤児院では夕食の準備が始まった。クリムと当番の子が数人厨房に立つ。それを手伝おうとするサキをヴァンが必死で止めているのが、レイにはおかしかった。
そんな中レイは、大きな容器を二つ手に持って孤児院を出た。
水が少なくなってきたというクリムのぼやきに、レイは真っ先に反応して手伝いを申し出た。この細やかさが、レイがホムル村でも好かれていた所以だ。
クリムの言うことには、隣の地区に雨水が溜まって池のようになっている場所があると言う。水道は引かれているものの、使える量が限られているので、大所帯の孤児院ではそれを濾過して使わざるを得ない事がままあるらしい。急ぎではないとクリムは言ったが、幸い道は単純らしいので、レイはすぐに行って帰ってくると宣言し容器を受け取った。
「お腹すいたな、早く行ってこよう」
段々と明かりがつき始めたラタリアの通りを、レイは小走りで駆け出した。
--------------------
時は少し遡る。平原の廃墟から命からがら逃げ延びて、王国へと辿り着いたバンダナの男達の生き残り。彼らは入国審査を夕暮商団として済ませ、アジトへも向かわずにとある雑貨店へと足を運んでいた。
「散々だ! みんな死んじまった! ああ、あああ……」
「ブツは持ってきたからよお、だから旦那! 金だけじゃなくて、早くアレをくれよ! 」
一人も客のいない店内で、口角から泡を飛ばして叫ぶ五人の男達。その血眼の先には一人の男が座っていた。長い髪は真っ白で、その隙間から覗く眼鏡の奥ではニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべていた。
「ええ〜どうしようかな〜」
「そんな! 約束だろ! 」
「な〜んか、ちょっと少なくない?? 」
白髪の男の視線の先には、男達の持ってきたリュックがある。ところどころゴツゴツと角ばっていて、うっすらと光っているようにも見える。
「ちげえんだ、旦那! ば、化け物だ。あれはきっと赤目のアニマだ! そうにちげえねえ! 」
「人の形をした赤目だ! あいつにみんな殺されちまったんだよ! これしか持って来れなかったんだ、だからさあ! 頼むよ! 」
「俺たち怖くて怖くて、もう死んじまいそうなんだよ! 」
「あ〜うるさいなあ。分かった分かった」
ひらひらと手を振ってバンダナを制した男は、怪しげな小瓶をいくつか取り出した。考え無しに絵の具を混ぜたような、濁った色をした液体が入っている。
それを男達に乱雑に放ると、彼らはそれがまるで宝物であるかのように必死に受け止め、慌ただしく封を開けて飲み始めた。
「んっ、んっんっ、ああっ……ああああ、はっ、はははは!!! 」
恐怖と焦燥に歪んでいたバンダナの男達の顔が、みるみる恍惚の表情に変わっていく。気分良く酒を飲んだ時のような、あるいは女を抱いている時のような、緩みきった笑顔を見せる男達。だらしなく開いた口からは、よだれが垂れている。
「はいはぁ〜い、ご褒美終わり」
「旦那! 一本足りねえよぉ! 」
泣きそうな顔で叫ぶバンダナの一人。どうやら彼だけ受け取り損ねてしまったようだ。
「ああ、そうかい」
白髪の男はニヤつきながら、腰を上げる。そうして大きい機械的な樽に近づくと、空の小瓶を取り出してレバーを引いた。コポコポと濁った水が小瓶を満たしていく。バンダナは差し出されるや否やそれをひったくると、溢れるのも構わず一息に飲み干した。
「うえ。うぇはははは! ぁあ! たまんねえ! 」
「よぉし! 酒でも飲むか!! 」
「ウェーイ! 」
礼も言わずにフラつく足取りで雑貨店を出ていくバンダナの男達を、白髪の男はニヤニヤと見送った。
「ぷっ、ウェーイだって。面白すぎ」
白髪はバンダナが残していった空の小瓶を後ろに放り投げる。ガシャンという音を立て、瓶は壊れた。
「快感、愉悦、あるいは高揚感……。植え付けられた感情であっても、人はこんなにも豹変するのだものなあ」
よっこらせ、と腰を上げ、男達が置いていったリュックの中を漁ると、鈍く輝くアルマ石が出てきた。白髪の男はそれを手に取りマジマジと見つめ、ベロリと舐めた。そしてそれを、樽の中に投げ入れる。
「美しいなあ〜、ははっ。ちょっと意地悪して、最後の子には別のモノ入れてみたけど、どうなるかな〜? 」
男は堪えきれずに笑い出す。その笑いは、王国の誰にも聞こえる事はなかった。
「ヒトで遊ぶのは最ッ高に面白いな〜! ハハハハハ!!! 」
--------------------
夕陽が沈み始め、ただでさえ暗いラタリアは更に暗くなる。ある程度治安の良い地域は、街頭に簡素なランプを備えている。悪党は暗闇を好む。明るさこそが平穏の象徴であると、住民達はこの地の底にあっても信じているのだ。
そんなランプに照らされた細い路地を、バンダナの男達は歩いていた。男達の他には誰一人歩いていない。皆一様に緩みきった顔つきで、まともな人間がこの通りを歩いていたのなら、間違いなく関わりたくないと判断するだろう。しかしそのうちの一人は様子が違っていた。
「なあ、なんだか、寒くないか? 」
「ああ〜〜ん? バカ言ってんじゃねえよ、暑いくらいだぜ! 」
「なんなら今すぐパンツ一丁になれるぜ!!! 」
ギャハハと品のない笑いを上げる四人。しかし残りの一人の顔つきは冴えない。まるで糞でも我慢しているかのように青ざめた顔つきで、落ち着かない様子だ。
「はあ、はあ、なんか、おかしいぜ。いつもと違う。もっとこう、旦那のアレはハイになれるっていうか……」
そんな落ち着きのない男の目に、キラリと光るものが目に入った。仲間のうちの一人が身につけている、羽根を象った首飾りだ。
「……なんでお前だけそんなもの着けてんだよ。俺にもくれよ! 」
男は急に飛びかかり、首飾りを奪おうとした。
「なんだよ急に! これは俺が見つけたんだよ! 」
「ずるい! 俺も欲しいんだ! 」
なんだなんだと二人を取り囲む仲間達。しかし彼らに冷静な判断力は既になく、むしろ喧嘩を煽る始末だ。よくある不良、あるいは酔っ払いの喧嘩。この件もありふれた一件になるはずだった。
「ようやく、見つけた……」
フッ、とランプの一つが音もなく消えた。そして次に瞬きした時には、辺りのランプは全て消えていた。
「なんだ? 」
「風なんて吹いたか? 」
辺りは暗闇に包まれる。喧嘩は止まり、男達は周りを見渡した。道の段差も分からない暗闇の中で、仲間達の姿が辛うじて輪郭だけ見て取れる。
取っ組み合っていた二人、囃し立てていた一人、大笑いしていた一人、そしてもう一人。
「あれ? 」
誰だ? と言葉が続く事はなかった。その時既に、男の頭と胴体は離れていたからである。
ドサリと音を立てて倒れた首なしの男。その身体はバシャリと音を立てて影に沈んでいった。
未だ状況の飲み込めない男達の視界が、一気に黒く染まる。まるで墨をありったけぶち撒けたかのような一面の黒。しかしその中でハッキリと見える人影があった。
黒いローブに、黒いフード。全身黒ずくめの人のシルエット。男か女かも分からない。同じ黒い色をしているのに、背景に溶け込む事なく輪郭を保っている。地に写った影がそのまま浮かび上がったようだった。
「な、え? 」
間抜けな声を出す男の前で影が渦巻き始めた。液体のように足元から噴き出した影は、黒ずくめの手に集まり、漆黒の大鎌を形作った。
バンダナの男達はみなポカンと口を開けている。ただし、落ち着きのなかった男だけは別だった。
彼だけは快楽に支配されておらず、目前の状況と自分達に向けられている感情を理解した。
拒絶。そして、明確な殺意。
恐怖心が身体を縛る。まるで足の裏が地面に縫い付けられているように、一歩も動く事は出来なかった。男は辛うじて、掠れた声を絞り出す
「し、し、死神……! 」
「ああん? いきなり出て来て、何様だぁ? 」
喧嘩を囃し立てていた男が、指を鳴らして一歩前に出た。が、その両手首は次の瞬間に地に落ちた。
「あ、あ? 」
ドッ、ドッとリズミカルな噴水と化した腕を見つめた男は、死神がすぐ目の前にいる事、いつの間にか背中に冷たいものが当たっている事に気付く。
「い、いやーーーー」
死神は躊躇いなく一回転し、大鎌を引き抜いた。黒よりもさらに暗い影が飛沫を上げ飛び散る。男が恐怖を感じる前に、胴体が真っ二つになり地に落ちた。物言わぬ死体はズブズブと影に沈んでいく。
「て、てめえ! 」
喧嘩を見て大笑いしていた男と、羽根の首飾りを着けていた男は懐からナイフを取り出して斬りかかった。勇猛と無謀は紙一重、誰かが忠告したとしても、彼らにこの言葉は届かないだろう。
大笑いしていた男は勢いよく地面を蹴って飛び掛ったが、無事着地するはずだった足は既に刈り取られており、体勢を崩して無様に地面に突っ伏した。
首飾りの男のナイフは死神の心臓を捉えた。捉えたはずだった。しかし肉を切り裂く手応えは一切無く、ただただ冷たさを感じるだけであった。そして、ナイフが抜けない。手も、暗い影に吸い込まれて引き抜く事が出来ない。
「し、死ね! 化け物! 死ね! 殺してやる! 」
喚く男の首筋に、冷たい手が触れる。ズイと顔を近づける死神。フードの隙間から、血のように赤い目が彼を睨みつける。高揚感と全能感に溢れていた男もようやく事態を飲み込み始めた。
「ヒィッ…… 」
しかし黒ずくめは、そっと首の後ろに手を回し、その首飾りを外しただけだった。それをゆっくりと懐にしまう。腕を影に飲み込まれ、身動きの取れない男。赤い視線が逸れた事で、再び罵詈雑言を浴びせ始める。
「クソ、クソが! 殺すぞ! 化け物! おい、おい! 聞いてんのかこのーーーー」
ヒュン、ヒュン。唐突に二度、影の鎌が唸り、喚いていた男は三枚におろされた。
そして振り終わりに石突を突き立てられ、足を刈られた男もビクンと体を反らし、静かになった。
落ち着きのなかった男は、仲間達が刈られていくのを、ただ見ている事しか出来なかった。かと言って、声を出す事も逃す事も出来なかった。
黒ずくめの殺意と、自らの感じた恐怖心に気圧され、身体が動かなかったのだ。
ただ、男には一つだけ分かっている事があった。
次は自分が、刈られる。
しかし足は未だ地面に張り付いたままだ。
黒ずくめが淡々と大鎌を振りかぶる。そして、その刃をーーー
「誰か、そこにいるの? 」
ーーー刃を振り抜こうとする直前、暗闇に包まれた路地裏に声が響いた。大通りからひょっこりと姿を現したのは、レイだった。




